昼食に誰かを待つ日は

2020年01月30日(木) 誰宛でもないものを差し出します



1月31日。突如やってきた虚無感と、無力感。顔の見えないひとに手紙を書いて、顔の見えないひとから手紙を受け取りたい気分です。
ダウン症の男の子が自閉症の男の子を抱きしめている動画を見つけて、胸が打たれた。言葉を交わさずに他人に安心を与えられる天使のような存在。自己が希薄だからこそ、ひとに寄り添える。わたしたちはあまりにも自我を持ちすぎていて、他人にそれを押し付ける。何者でもないことがこわいから、何かであろうとしてしまう。でもそんなことをしなくても、なににもならなくったって、なにもないからこそ、存在それ自身がやさしく、あるときは人を癒していることがあると思う。人じゃなくても、植物や動物だってきっとそうでしょう。


ひどく疲れた。顔の見えないひとに、手紙を書きたい気分です。



2020年01月24日(金) 孤独ではない恋人を見た孤独

どうぞあなたも孤独であってほしい雨

生きるかなしみにキリンの首がある

ののしりの果ての身重ね 夜の闇


時実新子の川柳。この方を知らなかったことの後悔。「包丁で指切るほどに逢いたいか」女の書く川柳の、たった一文に滴るものがあまりにも濃く、言葉の濃度に、体温に、湿度に、息が詰まりそうになって逃げ出したくなる、男の気持ちもわかる。私が男ならば逃げ出しているだろう。さいきんすべてにおいての感情、喜怒哀楽の濃度が薄くなっているため、こういう風に濃度が濃い文章(簡潔に短いものだと尚)を見て、血流を良くしている。血が巡るような気がしてくる。


金曜日。仕事の記憶はあまりにない。りんごをむいて食べ、それから後は眠るだけ。多分、嫌われているだろうな。あの娘とこの娘に、と複数の女の顔が浮かぶ。好きじゃな、い。心臓がドクりと跳ね上がるようなことがあって、嫌な跳ね上がり方なのだったのだけれども、最近こんな動きを滅多にしない心臓にとっての運動になったかもしれない。でも好きな彼女たちの顔も、浮かぶ。うーん、愛おしき、あなたとあなたとあなた。
たいてい、ひとりだから凛としていて、強くて綺麗な顔をしている、私の好きな女たち。


最近調子が悪いのは、誰の悪口も言っていないからだと、今気がついた。
悪口を言わない人間は信用ならない。が、節度のあるもの、が好ましい。
落胆するほど退屈な悪口を言う人には近づかないほうがよろし。
上手な悪口を言うひとに会いたくなってきた。(以前世話になった編集者のおっさんが素晴らしかった。お前の魅力を俺は何一つわからねえ!と目の前で言われたときには感動すら覚えた)

けれど、何も言わないという選択肢の、楽なこと。

bgm けものー美しい傷 



2020年01月23日(木) チープなドレス、神聖な布

午前中、一本の企画が通る。そして一本の企画は遠い未来に向けて保留になった。あの本をもしも出せたならば、私の一生の思い出になったろうが現実は厳しい。その著者はあまりにも著名な人だったから、でも一緒に仕事はせず永遠に憧れていたいという気持ちがあって、正直安堵したのも確かだった。それにしても、会議っていうものは時間が経てば経つほどに飽きて、言葉もだんだんと霞んでくるから前半に言いたいことを言っちまうのが勝ちだろうと思う。ということで前半言いたいことをすべていい、後半は半分脳があっちの世界に行っていた。

昼間はKさんとHさんと隣の定食屋で昼ごはん。テレビで「007は二度死ぬ」が流れていた。私は鰆の定食を、Kさんはカキ定食を、Hさんは茄子のはさみ揚げを食べながら、無言でそれを見る。ジェームズボンドが歩いている最中落とし穴に落ちるシーンが、少なくとも3回くらいあって、ずるりとどこかに滑って行く先に必ず椅子が用意されてあり、かなり長いこと滑っているにもかかわらず必ずお尻は椅子に収まる。見事な着地ぶり。真顔でそれを眺めていた。誰も何も言わなかったが、定食屋の店主だけは「おお!」とか、「ああ!」などとぶつくさつぶやいている。なぜか舞台が日本で、相撲のシーンが流れているときには「あれ?チャンネル回した?」と尋ねられたが、「あ!そうだそうだ。これ舞台が日本だもんなあ」と自分で自分に納得し、そのままずっとテレビの前に立っていたのだった。いいお店で、いいおっちゃんで、私は好き。

帰り道、友人の披露宴が間近に迫り、でも着ていくものが何もないというHさんとウェディングドレスの話になる。以前参加した結婚式が低予算だったのか、花嫁が纏っていたウェディングドレスのクオリティーがあまりにも低くて、もはや見ているこっちが悲しくなってしまったという。そして、そんな風になるのならば、お金があまりかけられないからといってチープなドレスを選ぶくらいならば、ただの「良い布」を身につけているほうが良いのではないかという話になった。そして盛大にする必要もそんなになく、むしろ静かな部屋で茶でもすすりながらしっとりした結婚式があっても良いよなあという。「布」を纏って茶をすする。もはや儀式である。ウェディングドレスに一度も憧れを抱いたことがないが、こういう形ならばちょっと良いなと思う。でも、夢は夢。ウェディングドレスという概念、存在は永遠に神聖なものであってほしい。そこで安っちいもの、チープなものを纏ってすべてを壊したくはない。0か100。
白い布、白いドレスは神聖。でもどこか死の匂いが漂っている。そもそも「白」はそういう雰囲気を孕んでいる。アメリカ映画によく出てくる真っ白い家なんか、本当にこわい。不気味だ。でもあまりにも真っ白、嘘みたいな真っ白で、白い布やドレスとは質が違うのかもしれない。偽りの白の、それはそれは鳥肌の立つ恐怖。(デヴィットリンチの『ブルーベルベッド』がだいぶトラウマになっているのかもしれない)
白いドレス、花嫁といえば、映画の『リップヴァンウィンクルの花嫁』のcoccoが即座に浮かぶけれども、あの儚さ、死の香りは美しい。あれは偽りではなくて、ほとんど透明で、透けるような白だ。(あのcoccoを見て嗚咽をする。彼女の身体は見ているだけで苦しい)
白い布。死んだときに顔に布をかけるのは「尊厳を守る」説があるという。それから、清浄としての意味も。死ぬ時は雪山でぽっくり、サラサラした雪の上で綺麗に死にたいと思うのは、無意識に「綺麗でいたいから」なのかしら。
ハン・ガンの小説では、自分の死後、魂になって自分の死体を見下ろして、そのあまりの汚さ、臭気に耐えられなくなるという描写が出てくる。それこそ尊厳の"そ"の字もなく、蛆虫が湧いて、顔は顔と認識ができず、そういう自分をずっと見下ろして、けれど実体も持てない今では、涙も流すことはできず、ただただそれを見下ろすことしかできない。涙が流せないのに、見下ろす自分の死体の目には蛆が湧いている姿を見つめること。自分の人生の集大成がそれだとするならば、あまりにも酷く、悔しく、やりきれない。この人生に何の意味があったのだろうか、と思わざるを得ない。
さっき読んでいた本で、
"判決が確定した死刑囚が一番「認めたくない」と感じていることは何だと思う?"
という問いがあった。刑が執行されることでもなく、被害者に復讐されることでもなく、答えは「自分の人生には意味がなかったかもしれない」と思うこと。これが一番怖いことらしい。
だったら、その意味を与えるものとして、残されたものができることとして、せめて、尊厳を。白い布を。
別に人生に意味など必要ないと思っている。でもいざ死ぬ直前になると、やっぱり自分の人生にそれなりの意味を見いだしたくなるのだろうか。私は自分の死体を見下ろす時が来るのだろうか。酷い死に様だったら、誰にも見られたくない。なぜ死の話にそれてしまったの。でも野村沙知代大先生(尊敬してます)がとてつもなく心強い発言をしている。
「あの世ってきっといいところよ。だって、誰も帰ってこないんだから」


今日も早寝早寝。寝ている時は軽く死んでいる気がしているけど、帰ってきているのだからそこまで夢の世界は良いところではないのかもしれない。



2020年01月22日(水) 居心地の良い場所は、土の上か?

台所と呼べるスペースが無く、ちっさい椅子の上で電気鍋を置きスープをかき混ぜている27歳。もう少し広い部屋に住みたいなあと夢想しつつ、しかし思いの外うまいスープが出来上がるともう満足してしまう。私が幸福を感じる瞬間は、取るに足りない些細なものだが、それはある人から見ると滑稽なことかもしれないし、情けないことかもしれないし、貧しいことかもしれない。


昨日は、三重県の漁村で本屋を営む女性が遊びに来てくれて、一緒に西荻窪でご飯を食べた。彼女とふたりで会話をするのは初めてで、歳は7歳離れているがすぐに意気投合し、好きになる。
ゆかさんは、その漁村の高台に住んでいて、週三日本屋で働き、週三日は喫茶店でバイトをし、それ以外は部屋の中で仕事をし、日々ゆっくり起きて生活にまつわる様々なことにじっくり時間を注いで生きているらしかった。もともと東京のアパレル(それもセリーヌ!)で働いていたり、化粧品会社に勤めていたこともあったらしいが、その時とは打って変わってのこの生活を、最近しみじみ愛しているという。
この間一人で海辺を歩いているとき「ああ、私今めちゃくちゃ幸せだ」と感じてしまったそうな。その瞬間、ほんとうに幸福だったのだろうなと想像する。この生活をする前は、あらゆるストレスに苛まされ、また人からの裏切りがあり、心底最悪な状態だったというが、ひょんなことから漁村に行くことになり、そして今はそこに身を置いてひとりで暮らしている。彼女のその生活ぶりがあまりにも羨ましくて、焼き鳥と九条ネギ、それからいわしのコロッケを食べながら、体を前のめりにさせてずっと話を聞いていた。人も少なければ遊びに行くところも全然ないし、理想と現実は違うだろうけれども、身体と心で「今幸せだ!」と素直に感じられる人は、実際のところ稀だと思うので、何の濁りもないその言葉にうっとりしていたのだった。


「でももし南海トラフが来たら、津波が来るかもしれない。怖くないの?」と尋ねる。
それは怖いけど、どこにいても脅かされているでしょう。東京で建物の下敷きになって死ぬよりかは、ここで波にさらわれるほうを選びたいと思うよ、と潔い答え。そんなことが起こらないことが一番だけど。なるほどなるほど、そこまでも前提にして住んでいるという心構え。いいなあ。

今度、ゆかさん家に遊びに行ったら、何もせずにずーっと昼寝をして、気が向いたら海に散歩に行き、喫茶店に入ってコーヒー飲んで、そんで眠ろう。そんなことを考えていたらまた楽しくなった。


そういえば、私もゆかさんも山羊座のO型ということが判明。この組み合わせは2020年最も良い運勢なのらしい。では私たちの年である、ということで盛り上がりたいところだがそうはならず、「良いと言われていて最悪だった場合が怖い」、「良い後は悪いことが来るかもしれない」、「そもそも放っておいてほしい」という風な話になって、この人とはやはり気があうと思った。(「誕生日祝われるの好きじゃないでしょ?」という質問ですでにその直感は当たっていたのだが!苦手です)どこまでも惑わされず、地にしっかり足をつけていたい山羊座なのだった…(それでも今年に期待を寄せている)


さっきまたスープを飲んでいたら、でもそこまで幸せな気持ちにはならなかった。もっと広いキッチンで料理がしたい!という、欲。欲は鬱陶しいから嫌いなんだけど、それでもやっぱり、キッチンは広いほうがいいよなーなどと思う。でも、身の丈にあった生活をどれだけ楽しめるかだよなあ、とも思う。ガツガツしている人は、自分の欲望に忠実だから、きっと欲しいものを得るために・・・この後に続く言葉が見当たらなかった。頑張る?努力する?いろんな方法があるんでしょうが。


最近禁煙を始めたら、すぐに眠ってしまって、毎日12時間くらい寝ているのだが、必ず4つか5つの夢を見て、たいてい疲れている。この間は秘密警察に追われる夢を見て、最後は土砂の中に身を投じて全てを終わらせるという結末に至った。すぐさまその夢を見たことを井上に報告すると、私の夢を簡潔に文章にしてくれた。



「バーでお酒飲んでいる。追われている身。テレビで報道されていて思わず飛び出し、ロシアへと行く車に飛び乗る。あらゆる世界警察に知られていて、すべてのロシアに行く車が検問されている。だがわたしの中のわたしはそれに気づいていて、ロシアに行くことはまやかしで、反対車線にうつってドイツにいくのだった。わたしすごい! 反対車線にワープし、乗り込んだ車の隣にいた男が『僕たちはドイツにいけないよ。この再会をずっと待っていたんだ』と語るやばいやつだった!このままではいけないと思ったわたしは車から飛び出した。そこで世界警察の視点に切り替わる。そこでは土の中に身を投じるわたしの姿が全世界に向けて配信されていた。わたしは敗けたんだ!」


この夢の後、何事もなかったかのように再び8時間の眠りに。
ああねむい。何にもない何にもないまったく何にもない、と歌っていた人誰だっけ? すごく、わかる。



2020年01月18日(土) 雪が降る

今日は雪が降っていた。朝、新宿で朝ごはんを食べているときに、特に綺麗でも感動的でもない新宿の街に雪がしとしとと降る景色を15階から眺めて、ああなんだかいいなあと思ったのだった。小粒でサラサラしていてか細い雪が降って、今日は本当に寒い日だった。気がつけば27歳になっていました。一緒にいて、祝福してくれた人に感謝。一緒に食べた物全てを覚えていたい。静かな木の絵が描いてある画集が手元にある。嬉しいね。



2020年01月11日(土) ジャガイモ尽くし/言葉は人間なんか相手にしていない/約束はしない



昼過ぎまで眠りこけ、その後スーパーに朝ごはん兼昼ごはんの食材を買いに行く。ブロッコリー、ジャガイモ、キャベツ、パン粉、サラダ用チーズ(細かく千切ってあるもの)、玉ねぎ、玉ねぎ、牛乳、コーヒー。それからまずいと言われているパン屋で、ライ麦パンを一斤。
ブロッコリーとジャガイモのポタージュ。寒い日に飲むと体が温まるし、お腹にたまる。それからフライパンに、ひき肉、ジャガイモ、玉ねぎ(ほぼスープと同じ具材)を投入し、炒める。火が通ったところで、中央にくぼみを作り卵を投入。上からチーズとパン粉をふりかけてレンジでチンしたもの。この料理の名前は果たして何だろう。"ジャガラータ"と名付けることにする。そして普通のサラダ。パンをスープに浸して食べると、美味しかった。


渋谷のイメージフォーラムで、『つつんで、ひらいて』を観る。装丁家である菊地信義さんのドキュメンタリー。「言葉は人間なんか相手にしていない」という言葉が印象に残る。それから「拵える」という言葉についても。


荻窪にて、勅使川原三郎・佐東利穂子 『音楽の捧げもの』を観る。
音楽と踊りのみ。付かず離れずのふたりの距離感。
約束をしなくても、もしふたりがそれを望んでいたら果たされる。だから約束はしない。しなくてもいい。



頭がぼうっとするので、メモ書きのようになってしまった。



2020年01月09日(木) 寒いのに暖かくて意味がわかりませんでした。

いつものように自転車に乗って出勤。ユザーンを聞きながら自転車に乗る。彼らの曲をなぜ今まで聞いてこなかったのだろう。イヤホンで聞きたいタイプの音と、部屋の中で流したいタイプの音があるけれど、彼らの音は後者である。それでも今日はイヤホンでその音を聞きながら自転車に乗り、職場へ向かった。この間タイヤに空気を入れたばかりで進みがよく、10分足らずで着いてしまう。あまりにも早く着くと音楽を長く聞けないのが惜しい。

申し訳ないことに、今日も今日とて本当に仕事をしたのか実感が持てない。3、4か月先に出す予定の本の原稿を読んで、"ユカタン半島"はどこにあるのかを調べて、斬首、心臓摘出、いけにえ、などのおっかない文字が現れる原稿に鉛筆で印をつけ、そのあとはインターネットでさまざまな記事を読んでいた。今読んでいるハン・ガン『少年が来る』の話は韓国で起きた光州事件の話だったので、それについても調べる。全斗煥(チョン・ドゥファン)。彼のせいで多くの犠牲者、逮捕者が出て、なかには女子中学生もいたという。民主化を求めて声高に叫ぶ市民を包囲して次々殺して行く。ハン・ガンの小説では、中学生の男の子の語りから始まっていた。殺された男の子が魂となって語る言葉を、彼女はどんな思いで書いたのだろう。


そうだ。僕は君と一緒に居たのに。僕が脇腹に冷たい棍棒みたいなものをいきなり食らうまで。僕が布きれ人形みたいにつんのめるまで。アスファルトから粉々に砕けそうな激しい足音、鼓膜を破る銃声の中で僕が腕を振り上げるまで。脇腹から吹き出した血が温かく肩に、首筋に広がるのを感じるまで。そのときまでは君が一緒に居たのに。 ハン・ガン『少年が来る』(クオン)



気がつけば夕方になっていて、何かを得たような気もしたし、まったく何も得ていないような気もしたけれど、思えばこんなことが毎日繰り返されているのだった。そして帰ってきてから気がついたけど、「鍵閉めておいてね」と言われていた裏扉の鍵を閉めずに帰ってしまった。明日はちゃんと鍵を閉めて帰らなきゃ。ガチャっと閉める。締める。「しめる」行為は、終わったことが直にわかる。ついこのあいだ井上の家を去るときも、部屋の扉をガチャッと閉めて、それはしっかりと終わりの音をしていた。自分の耳ではっきりと聞き取れてしまったから、足早に去って身を引き締めた。(結局、その後関係は戻った。)



声をあげることについて考える。「声」と呼ばれるものが視覚化されていたるところに溢れているので、声は沢山あるけれど、実際に聞こえているのだろうか。届いているのだろうか。沢山の文字が集結して大きな「声」になっても、その声は「見ない」こともできる。せっかくの声なのに。街で演説をしている人の声が耳に入らないのに、文字で見る声が響くことがある。けれども、文字で見る声は直接的じゃないから、すぐにたくさんのものに埋もれてしまう。今どこで声を出せばいいのか、そのことについて考える。考えるだけでは声にならないのも分かった上で。表現がひとつの声だとするならば、その声によく耳を澄ましたい。偽物とそうでないものは見分けられるほどにならなくちゃ、簡単に偽物の方に体が動いてしまう。慣れてしまう、染まってしまう、流されてしまう。そのことをよく自覚していなくちゃいけない。



何かを伝えられる人は本当に強いし、勇気のある人だと思います。



2020年01月07日(火) 苔むした服着た人



仕事中、二階堂奥歯さんという方の日記を読んでいた。彼女は飛び降り自殺をして死んでしまった。そのことも、きっちり明記されてあり、それが最後の日記となっている。二年間綴られたそれを読んでいたら、完全に引っ張られてしまった。いまは自分が亡霊のように感じる。さまざまなことに目を背けている自分を恥ずかしく思った。でも、とても彼女のようには生きられない。25歳くらいだろうか。彼女が読んでいた膨大な本の量には敬服する。本と共に生きていたひとだったんだろう。でも、もし物語がなかったら、彼女は。


仕事が終わる、18時半。近くの蕎麦屋で蕎麦を食べて、吉祥寺でスケジュール帳を買った。その後、服を3着。お金などないのに、お金をたくさん使いたくなった。緑色のおばあちゃんが着るような服を、私はいつ着るのだろう。
昨日見た夢。知人の言葉。
「甲斐さんはこの間、とても素敵な服を着ていた。でも実際、家の有り様はひどい。こんなふうな生活をしているとは、とても思えなかったよ。あれだけ素敵な服を着ていたのに」
そういって、知人は誰かに写真を見せている。いつ撮ったものなのか、そこには押し入れが写っていて、収まりきらない布団がはみだしていた。(実際私の部屋に押し入れはないんだけど)
そういう夢を見て、目覚めたあと、誰かを騙しているような気がして心地が悪くなる。
いや実際私は自分の部屋が好きなのだけど。でも素敵な服を持っているわけではないので、今日は素敵な服を買ってみた。買ったあとで、ちょっと虚しくなる。

今日はとても一人になりたくない日だ。
私はこの仕事、向いていないなあ。一生懸命力を注ぎたいのに、注ぎたくない。まったくだ。



2020年01月05日(日) スーパーマンになれない

大した仕事していないのに、こんなに長期間の休みが与えられてしまった。そしてもう終わる。でもヴァカンスが1ヶ月近くあるフランス人たちを思えば、こんなのあまりに短すぎるとも言える。今日は実質9日間の最後の休みの日でしたが、ウォーミングアップとしてカレー屋の労働に行って、店主にブツクサ言われながら働きました。家族連れの客が多く、子供用のカレーに蜂蜜や生クリームを投入してかき混ぜる時間が長かった。あとは牛すじをブツブツ包丁で切る。手が油まみれになって臭くなり、石鹸で洗ってもこのぬめりは落ちない。肉を包丁で切るのは全然楽しくない。人参の乱切りはサクサク切れるから楽しい。何事もリズミカルに行けると楽しいんだな。頭から足の先にまでカレーの匂いに包まれた状態で、カヨちゃんと井上とスタジオに行った。実際に音を鳴らすと疲れるということを知る。でもドラムを叩くのは楽しかったし、下手くそなりに何かを鳴らすその姿勢が好き。井上が一生懸命歌らしきものを歌っていた姿は愛おしく思えた。下手くそだったからよかった。カヨちゃんは不安げにベースを鳴らしていたけれど、その不安定な感じもよかった。私は意味のわからぬままドラムを鳴らしていたが、何をしているのか自分でまったくわからず、音楽はやらないほうが身のためだろうと悟る。大事なことを悟れたと思う。

昨日は早稲田松竹で田中絹代主演の『西鶴一代女』を観た。首筋や歩き方、首のかしげ具合や声質、おくゆかしい態度、すべてが艶かしくて哀しかった。昔の女優を見ていると、女として生きられているような気がとてもしなくなる。「女」も「男」も、もうこの時代にいないんじゃないかと思う。同じよな顔をした女の子で溢れている現代で、本当の声を持つ子はどれくらいいるんだろうか。昔の映画にもっと触れなきゃなあ。この日の夜は成瀬巳喜男の『浮雲』を見たけれど、高峰秀子も森雅之も「女」であり「男」であった。映画を見ている最中に、尊敬している人は高峰秀子であったことを思い出し、彼女のように我慢強く凛として生きられるようになりたいと思っていたのだった、と思い出せたことが良かった。私はすぐ流される。そして彼女のようになれるわけは到底ないのだけど。存在していた、という事実だけでも心強い。


カレー屋を出た後、歩いていたら目の前でおじいさんが倒れた。手を差し伸べる人が多かったので、おじいさんはだれかに抱えられて救助されていた。私はそして、そのままそこを通り過ぎた。通り過ぎると、カップルが携帯のゲームで遊び、子どもたちが大人に手をひかれて歩き、服屋では店員がせかせかと動いている。すぐそこでおじいさんが倒れたことなど誰も知らず、数歩あるいただけで「倒れた人がいる」事実がかき消され、歩いている景色に危険なものはなにひとつなかった。こんな状態で、遠い国で惨事が起きていることを、真剣に考えられる余地はあるんだろうか。遠い国で起きた惨事のことを思った。日本は平和ボケをしているというけど、平和に生きる以外に何ができるというのだろう。確かにニュースはあまりに幼稚で、重要なことを何一つ報道していない。メディアなどもう一切の信用ができない。でも、外を歩けば家族連れやカップルがいて、すっ転んで子供が泣き、至る所に装飾が施され、サイレンの代わりにときどき不愉快な音たちが溢れ、そのなかで、情報源といえば手の内にあるスマートフォンの画面に表示されるニュースであって、電源を消してしまえばもう何もわからない。今考えなきゃいけないことは何かと問われても、もう近しい人たちと過ごす時間のこと、自分の予定、仕事のこと、それだけで精一杯になってしまう。大事な人の寝顔を見られなくなる、大事な家族と会えなくなる、この生活がなくなってしまう、自分の周りに起こり得るべき惨事について考えると、でもそれは非常事態であって、下手すると私は生きられない。けれども、自分の周りにそういうことが起こり得る状況であることがすぐそこまで迫っているんですよね。いつどこで地雷があるのかわからないわけですね。そうなると、そうなってしまう前に、やっぱり自分が愛おしく思うものに割く時間が本当に大事で尊いものに思えてくるわけだ。それを平和ボケ、というのならばもう何もできやしないよ。戦い方がわからないし、抗い方がわからない。これは、無力なことなのだろうか。


スーパーマンになりたい、と歌っていた小山田さんはどんな気持ちだったんだろう。ふと思い出した。
スーパーマンになれないから、なりたかったんだろうか。



2020年01月03日(金) 発光する手紙

先ほどまで書いていたものがすべて消滅した。
この年末から元旦にかけて、ありとあらゆることがあり、とてもすべては書ききれない。

一通の便箋が郵便受けに入っていたこと。
それ自体が手の中に収まったとき、この手紙が放つやさしさを嗅ぎとった。
それは井上からの手紙で、綺麗な便箋に、綺麗な字が書かれていた。
私は人からの手紙を読むことができない。けど、この手紙は私が待っていたものだった。

誰かのそばにいるということは難しい。
でもこの人の隣にいたいなと思う。
正直に思う。

実家に帰ると妹がなんども私の手を握った。
彼女にとっての安心安全はだれかの温もりで、でも彼女はきっと家族以外の誰にも、そんな温もりは与えてもらえないだろう。そう思うと、私は自分自身だけの幸せを素直に喜ぶことができない。妹にも温かさを知ってほしい。私が井上や愛する友人から分け合ってもらえることのできる温かさを、そのまま妹に与えたいのにそれができない。そういうことを、実家に帰って改めて思い知った。でも一緒に鍋を食べたり、カラオケに行ったり、銭湯に行ったりして楽しい時間を過ごせたと思う。どうか誰もが、せめてもの人たちが、健康でいられますように。誰も傷つきませんように。傷をつけませんように。2020年も凛々しく生きたい。


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左岸 [MAIL]