昼食に誰かを待つ日は

2019年09月24日(火)

三日連休があるとうれしい。
金曜日の夜は安らかによくねむり、土曜日の朝には宅配を受け取って、午後髪の毛を切った。
髪の毛を切ってくれるひとが、ムダ話をたくさんしてくれた。


ラムネのビー玉はなぜビー玉というのか? コンバースの靴にはなぜ穴が空いているのか?
信号機で鳴る鳥の音の種類が分かれているのはなぜか?


などなど。このひとも誰のためにもならないムダ知識を蓄えているタイプの人間なんだな。
ふと、食べ物は何が好きなんだろうと思って尋ねてみると「みかんです」という返答が返ってきて、すこし笑ってしまった。どう見てもこのひとから「みかん」という単語が発されるのは違和感がある。
よくよく聞くと、果物全般を皮をむかずに食べているという。


「すいかを食べているとき、種を出さないといけないのが面倒だなあって思ったんだよね。小学生のとき。そこから、種ごと食べちゃえば面倒くさくないよなあって気がついて。果物も皮むくの面倒くさいから、じゃあ皮を食べちゃえばいいなあって思って。だからみかんもキウイも、皮ごとそのまま食べてるよ」

「じゃあバナナはどうでした?」

「あれはさすがに食べちゃいけないやつだったね」


髪の毛を切り終えたあとは、渋谷で城くんと落ち合い話をした。
彼のとった映画が映画館で流れるかもしれず、それに向けて色々準備をしているらしかった。
けれど、自分の映画がとある一部の人間にまったく評価されなかったことに対し腹を立てていて、だからクロックムッシュとか牛丼とか、とにかくたくさん食べちゃったんだ、と鋭い眼差しで話していた。
クロックムッシュに卵は入っていたんだろうか、と尋ねると「たまごとチーズが入っていた」とのこと。


その後は渋谷の本屋をブラブラし、中国の小説を買って読む。
1時間くらいしてからメガネの井上が現れたので、台湾料理を食べてから一緒に渋谷のツタヤへ向かいdvdを借りた。その日の夜はクリント・イーストウッドの『許されざる者』を観る。
いつものごとく井上は途中で寝落ち。
わたしはというと、映画を見終えたのちに見た夢でディカプリオを射殺していた。思いっきり映画の内容に感化されてしまったらしい。(レオ様に「お願いだ!上から巨大な氷囊が落ちてくる。その前に殺してくれ!とせがまれて、こんなことになった。一体どんな状況なんだ…)


土曜日、どんよりした曇り空。12時過ぎに目覚めたのち、腹ごしらえにインド料理屋に行く。あのお米の料理を食べたが、食べ物の名前を今すっかり忘れてしまった。インド料理屋で流れていた、くだらないテレビ番組を見ていたら悲しくなった。スポーツ選手が持っている軽井沢の別荘で、家政婦のスペシャリストが冷蔵庫のあり合わせで豪華な料理を作るという企画。トマトにモッツァレラチーズを挟んで牛肉を巻きレンジでチン。合間に「うわ〜〜おいしそう〜〜」と、わざとらしい顔したタレントのテロップがうつる。別荘はただ広いだけで全く魅力的ではなく、まずそこに写っている人物が誰も魅力的ではなく、CMもアホのように同じものが流れ続けて気が狂いそうだった。


店から出てぷらぷら歩いていると、モスクがあったので中に入る。女性は髪の毛をかくさなければ中に入れないので、ストールを借りて頭に巻いた。中に入ると、男たちが膝をついて見えない神に祈りを捧げていた。わたしたちは隅っこに腰を下ろし、その様子をただ眺めていた。後ろの窓から心地の良い風が入って気持ちがよく、敷かれている絨毯も肌触りがよく、壁も天井も全てが美しくて居心地が良かった。井上は頑なにストールをまかない女に対し苛立っていたようだが、わたしはそんな人がいたことに気がつかなかった。


代田橋のちかくにあるアンティークショップへ。魅力的なものばかりが置いてある。けれど高値でとても手が出せない。それでも井上は部屋に置くランプを購入していた。
そして、ささいな悲しき事件が起こる。泣いてしまった。
このひとは変なところであまりに素直すぎるところがある。嘘ついてほしいところで、素直に答えすぎる。
無神経なのか無頓着なのかなんなのか。



帰り道、大きなランプを抱えて歩く井上。その4歩後くらいを歩く。
「何考えているの」という。何を考えているもどうもあるものか。
「明らかに口数が減ったじゃない」と。当たり前だこの野郎。
ことあるごとに隣で気を遣ってくれるもののそれが鬱陶しく、とうとう部屋に戻るまで何も話さなかった。
けれどいつまでも機嫌が悪いままでいるのも気がひけるため昼寝をすることにし、
案の定起きた後にはもう怒りも悲しみも消えていた。気が付いたらざあざあ雨が降っている。
フィッシュマンズのライブ映像を流してくれたので、一緒にそれを見た。なんにもないね、という感じ。
買ったばかりの背の高いランプはやたらと部屋に馴染んでいた。そこにいるんだねえ、という感じ。


昼寝をし、腹ごしらえに近くのつけ麺屋に行く。
たまたま隣に座った外人がロシア人で、英語が堪能な井上は早速彼らに話しかけていた。わたしは最近地味にキリル文字を練習しているので、アルファベットの発音を聞き取るいい機会だ、と耳をすませたが何も聞き取れやしなかった。それにしてもロシアの女性は顔がきりっとしていて迫力がある。端正な狼みたいな顔立ちだった。


この日の夜はツァイミンリャンの『楽日』をみて、
しっかりと寝落ち。きっと正しい鑑賞方法。


日曜日。初台に行って『ジュリアン・オピー』の展示を見る。
最終日だったので駆け込んだが、正直そこまでぐっとくるものはなかった。
携帯電話でパシャパシャとシャッターを切る音がそこらに溢れていて、気がそれる。


また腹を空かせて初台を歩き回っていたが、腰を落ち着かせる場所がどこにも見当たらない。
なんだか異常に疲れて、でも空腹で、たぶん飢えていた。
渋谷行きのバスがたまたま前を通り過ぎて停車したため、急いで乗り込む。
どうして渋谷へ来てしまったんだろうね、と互いにわからないまま、
1セット1600円もするハンバーガー屋に入って腹を満たす。
特別美味しくもなく、まずくもなく、ただただ高く、ドリンクのサイズが馬鹿でかい。
後ろの婦人たちはなぜか胆石の話をし続けていた。ここにはもう二度と来ることはないだろう。


その後、ブラッドピッドが宇宙に行く映画を見た。
月にサブウェイがあるんだ、という感想しか出てこない。


喫茶店でタバコを存分に吸って、コーヒーとケーキを食べ、閉店まで本を読んで過ごす。
オランダから来ているという井上の友達カップルに一瞬挨拶をし、
家に帰って、それからは死んだように眠った。


無駄なことを全然していない、と部屋に帰ってきて思う。
珍しく濃厚な三日間で会ったものの、生活がこんなに密である必要は全然ない。


けれど今日は仕事で、一日を無駄にしてしまった。
とある作業にたいし、丸一日時間をかけても終わらなかった。
良いタイトルも文言も何も思い浮かばず、デザインも納得がいっていない。
仕事が遅い、仕事ができない、終わらない、の三拍子。


だめねえ。起きただけでえらい、と思っているから
実は反省はしていないんだけど。だめねえ。



2019年09月19日(木)



今日は無駄なことがあまりできなかった。
真面目に仕事をしていたと思う。


社長が眼帯を付けていた。目が痛いのだという。
かわいそうだけれど、似合っていた。もう少し見ていたい。


今日は完全に秋の空をしていたし、秋の匂いがした。
このことに気がついたひとがどれだけいるんだろうか、と自転車を乗りながら考える。
折坂さんの歌は、秋に似合っている。たった15分間の道のりだったけれど気持ちが良かった。


昼間はバナナを食べた。
あまりに熟れていたので、皮がヘニョヘニョに柔らかくなっていた。
味は普通に甘かったけれど。
そしてかぼちゃのスープ(粉末状のもの)を、自前のサーモスに入れて飲む。
職場にはいつも誰かしらが持ってきてくれるおやつが用意されていて、
今日は黒糖だった。大好物なので、おやつタイムに頂いた。


無駄なことをしていないなあ、と思いながら仕事をしていたので
終わってからは早く家に帰って無駄なことをしよう、とウキウキしていた。


そしてさっきまで、
読めもしないロシア語を書き連ね、発したことのない単語の音を口から発し、
ああ誰の役にも立っていない!でもたのしい、と満ち満ちた気持ちになった。


これで充電完了である。
それからはベランダでただ鈴虫の音を聞く。
日本人は、虫の音を音ではなく言葉で捉えているそうだ。
欧米人は虫の音にも気がつかないが、日本人は母音を使うために虫の音も言葉のように聞こえるのだという。


古来から日本の詩や歌には自然の音が多く含まれているのは、
そのせいもあるのだろうか。


どちらにせよ、聞こえないよりかは聞こえたほうが楽しいことは確かだ。
季節にも敏感になる。「自然に耳を傾ける」という概念は、もしかすると稀なことなのかもしれない。


今日もさっさと眠れたらいいなあ。
いまは隣人の洗濯機の音が、ただただ響いている。
だけど私は洗濯機の回る音が好きだから別に良い。



2019年09月18日(水)

昨日の晩は異常な眠気に襲われて、帰宅後ほとんど何もせぬまま眠ってしまった。
14時間くらいは眠っただろう。
途中で目が覚めても23時、その次には深夜2時、その次にはまだ5時。
まだまだ眠れる、ああ、と時計を見るたびに安堵しては眠りに落ちた。飽きずに眠り、飽きずに夢を見た。

お前は黒いペンを選ぶのか
それとも白いペンを選ぶのか

序盤の夢のなかで、上の問いが出てきたような気がする。
もっと長い夢だった。内容は思い出せないのに、問われたことだけがはっきりと思い出せる。
私は結局、どちらを選んだのだろう。
これは現実に結びつく夢だと、目が覚めた後の曖昧な時間に感じていたような気がする。

最近見る夢は、抽象的なのにはっきりとしたメッセージが込められているように思う。
勝手にそう思い込みたいのかもしれないが、それでも奇妙なザラザラとした感覚は目覚めた後も残っている。
忘れないようにとメモを書いているうちに、まるで自分が創り上げた架空の物語のようになっていて、曖昧なものが言葉によって意味付けされていってしまう。
それはそれで、そうかこういうことだったのかと、書いているうちに気がつくこともある。
けれど、ザラザラとしていたものがツルツルになっていくのは違和感があって、
そもそもの大事なメッセージや抽象的なイメージが塗りつぶされて、本来あったものが綺麗さっぱり失われている。

夢は、自分だけが見るものだから他人にとってどうでも良いことだ。
夢の共有などしたところで意味がない。


私は来年の目標に、
・有意義になりそうなことからなるべく手をひく
・無駄なことに時間を費やす
・なるべく人の役に立たない存在に
という三か条を掲げた。


無駄なことをするためには時間が必要で、人の役に立たない無駄なことをするためには時間が必要で、誰からも見られていないところに時間をかけることには時間が必要で、だからあらゆるものを取捨選択することになる。決して楽をするために掲げた目標ではないのだが、見た限りは下等な人間の考えだ。私は下等な人間だけれども。


意義のあることってなんなのだろう。
人の役に立つとはどういうことなのか。
無駄のない生活などあるのだろうか。

いろんなことを私はまだまだ知らない、だから探したいし、知る努力をしたい。
ひっそりと、静かに、誰の目にもつかないところで。


あまりにも明すぎやしないだろうか。
あまりにも、明るみに出ていることだけに盲信してしまいがちではないだろうか。
どこもかしこも清潔で明るく、全てが綺麗に揃えられ、見えるものすべてに意味が張り付いている。
私はそういう場所が、とても生きにくい。

今はもう部屋に帰ると小さな小さな電球をひとつだけつけて、その灯りで充分。
床の上に乱雑に置かれ、かすかに埃にまみれた本たちを好きな時に好きなように手に取る。
ときどき声に出して読む。生きていくのに必要な行為ではないかもしれない。
何も生み出さないし、誰の役にも立たない。

でも私にはこの時間が必要で、無意識に、
きっと来年はもっとこういう時間を増やさなくては逃げ場がなくなると、危機感を感じている。

慣れたくないのです。
こんなに、何もかもが偽りで覆い尽くされているような、
何かでなくては認められないような、
厚さも重みもない、薄っぺらな何もかもに。


ところで、コインランドリーで本を読むのはやっぱりとても良い。



2019年09月16日(月) おでん


朝、吉祥寺の駅に着いて改札を出ようとしたら、ピーっと音がなった。
残高不足の表示。チャージをしようと思ったら、財布を忘れたことに気がついた。
カレー屋の店主に電話。
「改札を出ようとしたら、財布を忘れてて。残高も不足してて駅からでれなくなっちゃいました」
「10円くらいだったらそのまま素通りで通っちゃえばいいのに。ま、あとでお金渡すから、駅員さんに事情説明して通してもらいな」
と言うことだったので、その通りにして
無事抜けられた。

カレー屋の労働。
今日はまかないが豪華で嬉しかった。
グリーンカレーと、普通のカレーと、ガパオライス。
たらふくお腹がいっぱいになる。
お金目的というよりも、ここのカレーを食べるために働いている感じ。

夜にライブがあるというので、
女の子たちが続々店内にきた。わかい女の子たちは肌がピチピチできれい。
私はキッチンの奥で、鍋にチャイを沸かしていたけど、
途中で半分以上こぼしてしまった。それでもなんとか切り抜ける。

労働が終わって、アイスコーヒーを飲んで一服。
この時間がいちばんの至福。労働後のアイスコーヒーとタバコは美味しいなあ。

店主が、これ持って帰りなよと手作りのおでんをもたせてくれたので、
タッパーに入れて持って帰ってきた。
おでんをもらって、夏が終わったことに気がつく。セミではなく。鈴虫も鳴いている。

三日連休が、きょう終わってしまう。
寝たら終わってしまう。だから、今奈良にいる井上の部屋に行く。
不在の部屋でねむっているうちに、きっと帰ってくるだろう。
なんとなくそういう気分。
井上が不在の部屋で、静かに過ごしていたい気分。
帰ってきたらうれしい。



2019年09月15日(日)

オムライスに福神漬けは合う。
ともだちからもらったワンピースを着て出かけたらうれしい気持ちになった。

レコード屋にてショパンの夜想曲を200円で買う。
すっかり秋のにおいがして、眠る前に涼しい風が部屋に入り込む。
鈴虫の音を聞きながら夜眠ると気持ちがいい。

いろんな悩み事や心配事があるような気もする。
でもすっかり今は気持ちがいいので放っておく。

フリッツ・ラングの『スピオーネ』という映画が素晴らしかった。
無声映画にピアノの伴奏がつく。
人間の心理、心の機微をピアノの音が表現し、
映画のなかでも役者の表現力、演出力、脚本力すべてが緻密。
映画の芸術、芸術の映画。そんな気がした。今そういう映画って、きっと滅多にない。

技術は今のほうが確かに優れているかもしれない。
でも、芸術作品ではない。

良い映画を見ると人生が豊かになりますね。
あしたは久しぶりにカレー屋への労働。

相方が奈良へ出張に出かけた。
夜、とある映画祭に寄稿する文章のタイトルをいっしょに考えていた。
黙する 噤む 樹々といった単語の候補が出てきて、
その言葉の意味をいっしょに考えていた深夜の時間がとても静かなものに思われた。

自信がないと、常々彼は言う。
言葉に対して常に慎重な彼の言葉は、すこし気障ではあるけれども綺麗で私は好きだ。
本人に言うと調子にのるからあまり言わないけれど、
自信がないと思っている人の書く文章のほうが信用できる。

自信がないから、どっしり構えるね。どっしり構えられるように頑張る。
と、コーヒーフロートを食べながら自分に言い聞かせるようにしていた姿がなんだか微笑ましかった。

夜想曲を今部屋で流しているけれど、
なんだか音が時々妙に伸びたり縮んだりしている・・・・
ひょ〜。



2019年09月12日(木)


千葉が大変なことになっていて、電柱がなぎ倒されたり、屋根が吹っ飛んでいたり、何より停電と断水の被害が尋常じゃない。わたしは今千葉に住んでいないけど、友達がいる。親もいる。そんななかでのうのうとこの狭いオンボロ木造アパートのなかで、悲惨なニュースを小さな画面で見ることしかできない。

こんなときに頼れる場所や頼れる人は限られていて、外部からの救助に頼らなければ、力に頼らなければ、どうしようもないのに、声すら届いていない。きっと自分が同じ状況になっても、誰にも助けてもらえないし、声も届かないんだろう。自分が過酷な状況にいるなか、のうのうと生活をしている人たちの姿が頭に浮かんでもきっと何も言えない。

いざ自分の身に何かが起きたらもう受け入れるしかなく、絶望するしかなく、力を失うしかなく、それだけがはっきりとわかる。希望が何もないということだけがわかる。けれど、こんな暑いなか寝る間も惜しんで働いている人たちがいることも忘れちゃいけない。感謝することも忘れちゃいけない。
自分が今こんなに平凡な毎日を、小さな愚痴を吐きながら生きられていることがどれだけ尊く恵まれているのかということを、もっと噛み締めなくちゃ。これからますますひどいことが起こるだろうし、その時が来たら受け入れるしかないのだけれども、もうどこにいたって安全な場所はない。あちこちで何かが起こる。そこにたまたま立ち会っていないだけで、たまたま立ち会っていないことのほうが奇跡に近い。

今日も寝床がある。今日もご飯を食べることができた。親や友達と連絡を取り合うことができたし、人と話すことができた。これだけのことがどれだけ幸せなことか。多くを望みすぎないこと、当たり前の日常に感謝すること。大きな希望はないけれど、小さな幸せを噛み締めること。この地続きだ。高望みはしないから、どうか平穏な生活だけは、みんなに平等に、与えられていたらいいのに。



2019年09月11日(水)

今日は仕事をやすみました。きのう食べたラーメンがあたったのか腹痛に襲われたから、というのは言い訳で本当の理由は突然仕事に行くのがバカらしくなってしまったから。
そういうときの体はひどく素直な反応をする。動きが鈍くなって、玄関のドアを開けることすらできない。体のためにも休むことを速攻で決めて、「体調を崩しました。休みます」とだけ皆にメールを送信し、あとはもうなにもしないで再び布団の上に寝転んだ。
今日やらなくてはならない仕事というものはちゃんとあった。けれども私が今日やらなくてはいけなかったことは、仕事に行かないことだったので、その目標を達した自分を褒めたいと思う。

一日中きのうのことを日記に書いて過ごし(手書きの方)あとは本を読んだり、眠ったり、大半を夢見ていたような気がする。こういうことを毎日続けていたら、きっと気がおかしくなるのだと思う。気がおかしくならないために私は仕事へ行っているのか、ということを知った。けれども、気がおかしくなるのは悪いことではないので別に仕事へ行くことは重要ではない。2020年には東京に居たくないということを考えながら、孤島へ逃げることを頭で想像していた。わたしは煙草が吸える喫茶店が大好きで、それから昔ながらの古いお店や整っていない道や町が好き。でもそれらが壊されて、新しくて色のないものに変えられて行ってしまっている。これだけで、もうここにいる意味や価値が見出せない。
東京オリンピックなんてものには一ミリも興味がない。そんなもののために街が変えられていく意味がわたしには本当にわからない。もうここにはいたくないと心底思うけれど、他に行く場所もないし、そもそもどこへ行ったって同じなのだ。外側が変わっていっても、内側だけは絶対に侵入させない。お前も合わせろと言われてもわたしは絶対にあわせない。もしその声がすぐそばまで来たら逃げます。逃げる。

当たり前に毎日当たり前のことをしていると、それが当たり前だから何もかもの異常性に気がつかないのだけれどもすでに全てが異常であるということは皆が薄々感じていることですよね、そうですよねと思いたい。
おかしくないでしょうか、と声を大にして叫ぶものは潰されてしまうような場所にはもう見切りをつけたほうが良い。視野を広げて広げてとっても広げていったら、新たな場所があるかもしれない。もっとすごいことを考えている人間に出会えるかもしれない。

とにもかくにも、今日1日でいろいろに見切りをつける準備ができたと思う。
来年はここにいないことを目標にしよう。どうかここではないどこかで日記を書いていますように。
自分勝手だと言われても、型にはまらない自分でありますように。
きょう仕事を休んだ自分にご褒美を本当にあげたい。よくやった!週5で働いて、それも8時間。こんな馬鹿なことはない。きょうは本を5冊くらい読んだりいろんなものを書けた。よくやったよ。



2019年09月08日(日)

 友人Jの映画が京橋で公開している。舞台挨拶もあるというので彼の晴れ舞台を見に行こうと意気込んで向かったのだが、遅刻が原因で中に入れてもらえなかった。何度せがんでも駄目で、次回にどうぞと言われてもわたしに次回などなく、だから今入りたいのですと熱を込めて伝えても無駄だった。役所じゃあるまいし、なおかつ映画なのだからそんなにお堅い制限を設けなくってもいいのに。あほらしいこと。机の上には紙が置かれ、そこには友人の名前が記されていた。どうやら友人も中にいるらしかった。しかし結局誰一人の顔を見ることはできず、映画も見れず、舞台挨拶も見れずで意気消沈し、一瞬行き場を失う。表に出ると、ポスターにJの顔が写っているのを見つける。彼は、こんなに精悍な顔つきをしていたっけ。
 
 京橋から銀座に移動し、久しぶりに銀座の映画館に向かい『アマンダと僕』というフランス映画をみる。前日にはタランティーノの新作を見てドーパミンが溢れ出たのだが、今回観た映画はいわゆる"ミニシアター系"で、現実的で地に足が付いていた。出演していた子供の瞳の色が忘れられないのと、道路を自転車でただ駆けて行くだけの画がやたら鮮明に残る。誰かと一緒に毎日自転車で並走している日常で、ある日突然、隣にいたはずの相手がぽっくりあの世に逝ってしまったら。毎日駆ける道はもう、二度と昨日と同じ色には見えないだろう。

 劇場を出て銀座をうろうろする。銀座は、ただふらふら歩いているだけでも楽しい。ブランド品店、入り口付近がごった返している大きな無印良品、信号の向かいに見えるやたらとお洒落なドトール(なぜかフランス語表記だったような)、珈琲の値がやたら高い喫茶店、画廊、てんぷら屋、謎の骨董屋、馬券場。また、いかにもお金を持っていそうなマダム達、買い物袋をどっさり抱えた中国人らしき人々、でかい犬を散歩している若い女性、容姿がいかにもデザイナーまたは建築家、または美術家のように見える手を繋ぐ中年の洒落た夫婦など、人を見ているのも楽しい。
 そんな街をひとりで歩いているのが良い。そしてぶらぶら歩いていると、人の気配が薄れ、見るものに色がなくなり、全体的に灰色に装飾されたひとつの淋しい道に出た。ここにたどり着くために歩いていたような気さえする。疲れて、近くにある喫茶店に入り珈琲を飲んだ。
 この日の夜は、JとI、それから他に映画を撮る人と、映画館で働く人と共にお酒をのんだ。みんないい人だった。わたしはほとんどおまけみたいな存在だったが、それでも友好的に接してくれたことが嬉しい。そこに行くほんのすこし前、わたしは駄々をこねていた。するとIに、「悪いけど、せっかくのおめでたい場だから僕はひとりで行くよ。機嫌が悪いひとがいたら雰囲気が悪くなる。行くなら行くで、ちゃんとして」と怒られていたのだが。ちゃんとできたのかどうだかは定かでないが、その場ではなぜ機嫌が悪かったのかをすっかり忘れていたので、きっと大丈夫だったのではないかと思う。
 帰りの電車では、皆が口々にJのことを話題にしていた。これまでもよく話題にのぼる人物ではあったのだが、口々に皆が彼のことをある意味で"天才"と呼ぶので、すこしおかしかった。その"天才"に、でも皆が期待をしているのは確かだ。昔も今も、わたしにとってJという男はまだ摑みどころがない。そして彼ほど周囲の様々な反応を鋭敏にキャッチし、察する人を知らない。気疲れしないのだろうか、と思っていたのだが、きっとしているんだろう。この世には聞く人間、自分の話をしたい人間の2種類に分けられると思うのだが、彼は完全なる前者だ。徹底して前者。けれどもその話からほんの一部の、自分にとって必要な部分だけを自分に取り入れる術を身につけているので、話のほとんどをおそらく聞き捨てている。そして拾う部分、ピンポイントに焦点を合わせることにことごとく長けている。それから人を巻き込む力、知らない間に人に対して役割を与え、的確な指示をすることはほとんど才能に近い。確かにJはただの常人ではないように思われる。というよりかなり器用な人間だ。ただ、そんなことはわたしとっては別にどうでも良い。本当の話ができる相手としてJの存在はかなり大きく、今までどれだけ救われてきたかわからない。その彼の晴れ舞台を見れなかったことが本当に悔やまれる。けれどいずれ、もっと大きな場所でその姿を見るときがきっと来るはずだ。
 
 昨晩。わたしは頭のなかにひとりの女を思い浮かべていた。そして、寝そべるIに向けてその女の話、情景の細部をなるべく丁寧に説明していた。この話の細部はここに書かないことにする。なぜなら、もっとあたためてちゃんと形にしたいから。Iは興味を持ってこの話を聞いてくれた。この話は映像でもはっきりと浮かぶ。けれどもIは、それは映像ではなく書くべきだという。その理由はおそらく、とある一瞬の行為にすべての意味が詰まっているから、なのではないかと思う。大事な部分は画にすると、まったく見えない可能性さえある。けれど文章は、あまりに鮮明にそれが見える。"見える"、"見えない"。映像なのに見えない。文章なのに見える。なんだか矛盾しているようだ。それでもこの話を真剣に聞いてくれたことは大きかった。
 
 今はようやくひとりで部屋にいる。迫り来る台風、迫り来る悪夢の月曜日を迎える準備。なんてものは用意しないが、それでも日曜日のこの時間はなんて憂鬱なのだろう。さっき、この部屋が燃える夢を見た。消防士の人が部屋のなかに入ってきたのだが、部屋が燃えているというのにわたしはまだ中にいて、部屋が完全に燃えてしまう前に持つべきあらゆるものを、探していたのだった。けれど必要なものが何もない。何もないのに何かあるような気がして、ずっと探す。消防士に「わたしは何をもっていけば良いのでしょう?」と間抜けな質問をすると「何も持たなくていい。早く外に出て!」と怒られた。やけにリアルな夢だ。なぜならわたしは実際そんなことをしでかしそうだから。
 この夢を見たあとで台風情報を調べると、なかなか勢力の強いものが迫っているということですこし怖くなる。このオンボロ木造アパートは、強風のひとつやふたつで屋根が簡単に吹き飛ばされてもおかしくないくらい朽ちているから、もしかすると何かが壊れるのではないかと。火事ではなく、台風で何らかの被害があるのではないかと。それならそれでいい。もういっそ全てを吹き飛ばしてくれと、正直やけくそな気持ちも抱いている。全て吹っ飛んだらそれはそれは愉快だ。地味なやり方ではなく、タランティーノの映画のようにド派手にいってほしい。そうしたらわたしも何もかものタカを外して動き出そう。ハメを外そう。人からうんと嫌われよう。そうして死ぬほど笑う。そういうこと、を制限しながら生活している。だから小説や映画での派手な描写が必要なのだ。徹底して痛く、徹底して滑稽で、徹底して残酷な話が必要なのである。自分の制限をなくしたら、わたしはきっとイルカの思考を持つ野蛮人になってしまう。近くにいる人の耳や手を噛み切るくらい獰猛で、本物の涙だけをひたすら舐めていられるくらい寄り添いたく、自然と交歓するために裸で外へ出る。
 もうすでにこのあたりがわたしにとって鎖だらけだから。街も新しくなればなるほど鎖、会社へ行く人の足にも鎖がかかっているのが見える。人も街も、すべてが何もかもに制限をされている。だから、そうじゃない遥かな場所に向かいたい。鎖は見えないから、つよい。鎖は見えないから、いくらでも数を増やすことができる。対抗できるただひとつの手段を、だからこれからもっと探さなくては。

 雨が強まってきた。雨がたくさん降って、錆びちゃえばいいんだわ。鉄なんて。



2019年09月05日(木)

一通のメールの差出人。その差出人の名前を見るたびに耳の奥の奥が呻く。頭が痛くなって鼓動が早くなる。こんなにも動揺してしまうなんて一体どうしてしまったのだろう。情けない。明日も同じ差出人からメールが届いているのだろう。仕事とプライベートは割り切りたいが、どこにいてもストレスは発生し、無意識に今後の動きや予定を組み立ててしまう。例えばシャワーを浴びている時や、換気扇の下で煙草を吸っている時。安静にしていたいのにつきまとってくる。ただ大抵のひとがきっとそうなのだろうし、大したことではないはずだが、それにしても心地は良くないものだ。

救いもある。今回新たに仕事を依頼したデザイナーの女性が天使のような人物で、どれだけ安心したことか。電話を通して聞こえる彼女の穏やかな話し方は、その声を聞いているだけで不思議と心が静かになる。とてもゆっくりとした、静かな話し方をするひとだ。見た目は上品で華があり、笑うときには子供のようにして笑う。こんな女性になりたいなあ、と思う。ゆっくりと静かに話すひとは、早口で横暴な態度を取るひとに対しても動揺しない。一部の人間は、焦っているとき、嘘をついているとき、また図星をつかれたときには早口になって声が大きくなり、相手の声を急いでかき消そうとする。けれども同時にボロが出る。ボロを出す。黙っていれば良いものの。わたしも気をつけよう。この女性のように天使にはなれないけれど、早口になったり、相手をまくしたてたり、必要以上に声を大きくしないよう心がけよう。ゆっくりでも、大きく構えていれば大抵のことはなんとかなる。

昨日の「虚言癖がある」ふうに見られていたこと。それについて今日も考えていた。思い出せば思い出すほど、なかなか堪える一言だ。虚言を発したことはこれまで一度もないのだが、そういうふうに見られているというのは一体どういうことか。私の話し方に原因があるのだろうか。彼女は大学時代の講師だったが、他の講師や先生と話している様を一度も見かけたことはなく、浮いている存在だった。リュックにゴダールのバッジをつけていたので興味が湧いて話しかけたのをきっかけに話をするようになり、授業終わりには自然に二人で神保町の喫茶店へ行き、さまざまな話を何時間も続けていたのだった。その時にも彼女には、「演劇に出てくるみたい」、「映画を見ているみたい」と言われていたが、やはりそれは虚言癖があるのと同等の言葉だったのだろう。発する言葉や状況が、まるでフィクション映画のようだったのだと思う。ひとつ言わせてもらいたいのは、けれどわたし以上に彼女が演劇的であり、映画的であり、もはや何者なのかわからない未知の存在だったということ。あまりに現実離れしているのはあなたなのではないでしょうか、と何度思ったことだろう。これが5年前くらいの話で、そして1年前に電車のなかでぱったりと再会し、昨日ようやくゆっくりとまたご飯を食べて、「あなたの言うことが虚言にしか聞こえない」と、面と向かって言われた次第だ。だいぶ年が離れてはいるが、彼女をわたしは友人だと思っている。そのためあらゆることを正直に素直に話すと、その中には不快な話も混ざっていたために明らかに彼女の顔は強張り、がっかりとしていた。
「あなた自分が嫌にならないの?」という質問。嫌に、なります。「嫌になったほうがいいわよ」

自分が嫌になって、この身から離れたいと思ったことはこれまで何度もあった。わたしは自分から離れられないのであれば、じぶんの中に何人もの人格をつくり、日ごとに彼らを入れ替えようとしていたのかもしれない。そうじゃなければ、こんなに毎日言っていることや考えていることがぶれていないはずだ。要するに、調子が良いのだ。けれども、もう一体どれが本当の自分で、どれが自分の意思で、どれが自分の言葉かなんていうことはわからない。わたしの中の中心人物が誰であるのかがわからないから。

彼女は、「わたしは自分がどうしたいかですべてを決める」と言った。

「で、あなたはどうしたいの?」

この質問に答えられるはずがなかった。自分がない。自分がいない。これはもしかすると大変なことかもしれないが、いまさら自分を見つけようとも思っていない。見つけてどうなるのだろうか。何もかもは、けれどもわたしが判断し、選択し、決めていることだ。それは間違いない。ほとんどそれは、その瞬間の直感だけで決めている。わたしのなかのすべてのわたしが直感したことだ、と言うしかない。

なにを言っているのだか、そうしてわからなくなってきます。ただ、事実は事実。嘘はついていないのです。それだけはわかってほしかった。



2019年09月04日(水)


さっきまで誠実で真っ直ぐで日々戦い続けている大人の友達に会っていた。
去年偶然電車のなかで会って以来だから、1年以上は会っていない。
連絡をします、と言って全然連絡をしていなかったのだ。わたしが。

久しぶりに会った彼女は青いスカーフを巻き、素敵な柄のスカートを履いて、タイで買ったというこれまた素敵なカバンを掲げていた。西荻でパキスタンのカレーを食べて、近況を報告する。
「なんだか楽しそうでいいわねえ」としきりに言われたけれども、楽しい話しかしていないからで、実際はその隙間に苦しいこともたくさんあったのだが話はしなかった。彼女いわく、今は「何もしていない」そうだ。大学が休みということもあるのだが、昔と比べて徐々に体力も衰えて、年を感じるという。
常にひとりで活動し、ひとりで行動している彼女は、昔から変わらず国家に対し怒りを抱いていて、近年はもう太刀打ちができないほど悪化しているこの状況にほとほと疲れ、嫌気がさし、非常に悲しんでいる風だった。昔から言うことが一貫し、それに対し考えることを怠らず、考えるだけではなく自ら行動している彼女の意欲や気力はどこからわいてくるのだろうと、側でいつも思っている。彼女いわく、怒りが原動力になっているということだったが、毎日毎日怒りを抱え、かつその問題から目を逸らさず向き合い続けるその姿勢。そばで見ていて、あまりにぽかんと生きている自分が恥ずかしくなる。何もかもがもう内から毒され、思考する力がだんだんと弱められているのは何となく感づいてはいる。けれど、それをどう食い止めるのか、自分は何を考えなければいけないのか、どう声をあげるのか、ということについてはほとんど諦めてしまっている。
彼女の前で、私はただただ自分が恥ずかしかった。まず、一貫した考えを持ち行動する彼女に対し、私は考えや言動が一貫していない。口ばかりで行動した試しがない。私の言うことはすべてが綺麗事で、あまりに地に足が付いていない、ほとんど空想めいたお話でしかない。そんな自分が恥ずかしくてたまらなくなった。
かといって、自分に何ができるだろうかと考えたところですぐには浮かばない。ただ、家畜のようにはなりたくない。思考しないまま、何もかもを「これでいいのだろう」と受け入れて、慣れて、外側から見れば異常なことなのに、それを異常だとも思えないような人間には、なりたくはない。
けれども現状、もうすでにあらゆることを受け入れ、慣れて、それに合わせて生活をしてしまっている。
どうしてこんなに低賃金で、こんなにも長く働かなくてはならないのか? 年金を受け取れる保証はどこにもないのに、この薄給からなぜ今こんなにも年金を払わなくてはならないのか? どうして学校の先生が言うことを全て聞かなくてはいけないのか? 物事の良し悪しの基準が本当にわかる人というのは、今表に出てこれてはいないのではないか? テレビはなぜあんなに無意味なものだけを、事実を隠すためだけの低レベルなものばかりを流すのか? なぜ私たちはこんなにも焦っているのか? なぜこんなに急いで生きなければいけないのか? どうして古い建物が壊されて、新しいものばかりを建てようとするのか? 誰かが良い思いをする一方で、苦しんでいる人たちがどれほどいて、金をむしり取っている輩はそして、どういう風に私たちを操作しているのか? どうして何も希望が見えないのか?


疑問はたくさんある。
じゃあどうするのか、と問いかけられた時。 じゃあどう改善していけばいいの?と、問いかけられた時。
なぜ今この国がダメなの?その理由は?と、問いかけられた時。はっきりと答えられる言葉を持ち得ていない。それくらいはきちんと自分で考えないといけないことなんだろう。


こんな大きな話の前に、一個人の話。
まず、自分自身について顧みなくてはならない。私は一貫性がなく、人間性も腐っています。
いつからこんなにも誠実でなくなったのか。自分の立場を弁えなくてはいけない。
私は、彼女に虚言癖があると思われていた。それは虚言ではなく事実だったのだが、自分でもまるで嘘を言っているような事実であったため、それをそのまま口に出すと、それはもしかすると虚言であるかもしれなかった。あなたは演劇に出てくるみたいなのよ。これは悪い意味で、と昔から言われていたが、その意味がようやく掴めた気がした。嘘をついているつもりはない。これは嘘ではない。けれども、その言葉自体がまるで陳腐なのだ。けれど、本当に嘘はついていなかった。なのに、自分でも言葉にするとそれらは陳腐に聞こえる。
私は一体何を話しているんだろうと思う。自分の言葉、行動、考えに対して疑問がわく。
日々何を考えていたのだろうか。私の信念はどこにあったのだろうか。まともな倫理観はどこに行ったのだろうか。あまりに地に足が付いていない。もうどこにも自分の言葉などない。こんな状態で、とても人に何かを言える立場ではない。だから、「こんな人とはもう仕事したくありません」と言われたのだ。

自暴自棄ではない。自暴自棄であらゆることをしているわけではない。
揺るぎない何かがない。

自分に嫌気がささないの?



2019年09月03日(火)

朝、パソコンを起動しメール画面を開くと、またもや不穏な雰囲気を持つメールが届いていた。
穏やかに何もかもを終わらせようとしたこちらの努力も虚しく、あのデザイナーからまたもや怒りの、ほとんど不満に満ちた内容のメールが届いていたのだった。

またあなたと仕事させていただく気はありません。そんな人と一緒に仕事はしたくありません。

私も彼に二度と依頼をするつもりはなく、社交辞令のつもりで言った言葉に対してこのような返答が返ってきたのだが、もう何も言うことはなく、ただただ力が抜けた。

どうぞ去ってください。あなたと仕事をする気は、私にもありません。


今日はあらゆる人にメールを送り続けていたが、あまりに慎重になってメールの文面を考えていると送信ボタンを簡単に押せなくなる。躊躇いが生じる。何を怯えているのだろう。そうしている間にも時間は過ぎていく。顔を見て話せたら、直接話せたら、どれだけ良いだろう。

いつもお世話になっております。大変申し訳ございません。

意味がない。意味がない。社会にこのような言い回しが共通していなければならない理由は、どこにあるんだろう。虚しい。不気味だ。メールを打つのがアホらしくなりました。という理由でいつかことごとくすべての仕事を放棄してやりたい。
そもそももうPCなどに触れたくないのに。

昼の休憩時、まったく違う世界に逃避するため多和田葉子の小説を読んでいた。意味不明な単語の連なりは妙な動きをしていて、思考も、感覚も、言葉も、別世界に思える。
自分に自信がなくなりかけているとき、軸がぶれているとき、弱っているとき、そばに信頼できる作家の本があることで、ぐらついていた足元の震えがすこしだけおさまる。
ここだけには誰も入ってきてほしくはない。入る隙を与えたくない。どんなに刃物のような言葉を向けられたとしても、それに耐え得る器を自分の中に隠し持つこと。それが私の支えになる。

武器を持つこと。
ここ最近、武器をもつ人間に出会った。その人の武器は、数学。
それを突き詰めて行き、何があっても、どんな状態に陥ったとしても、この武器さえ強固なものにしていれば彼はどこへでも行けるということだった。生半可ではなく、本当に突き詰めた結果、そのひとは高い高いところに身を置き、そして今もなお、数学を突き詰め続けている。とても孤独な作業。果てしない作業。
わたしには武器が何もない。誰かに勝てるものが、なにひとつない。
けれどもひとつ、ずっとそばにあるものはある。それがなければ今わたしはこんなことを書いていない。

外に開けていくことは確かに大事だ。わたしの恋人は、わたしの手を引いて外の世界に導いてくれる。
けれども実際、わたしは内にうちに潜りたい。潜っていった先で、武器を手に入れたい。あまりに外に開かれすぎると、分散して、シャボン玉のようにはじけて、自分自身を見失ってしまう。
この考え方が間違っているのかもしれない、とも思っていた。けれど、私と同じ考えの人間を見つけたとき、なぜかとても安堵したのだった。まったく私とは別の人種ではあるのだが。
彼は間違いなく日本のトップレベルにいる人間なんだろう。そして本当の意味での孤独な人間だ。私はこの人と比べると全然孤独ではなかった。本当に独りで戦うというのは、果てしない作業なのだ。だからこそ、本当の武器を手に入れることができる。

賢くもないこの頭で、今考えることはなんだろう。
外に開いてくれる人の手を、離したくはない。

真っ暗な部屋の中で、ようやく本当の静けさを感じる。
まるで静かな動物の、息をしない動物の体の中にいるような感覚だったが、これは多和田葉子の小説を読んだせいか。



 < 過去  INDEX  未来 >


左岸 [MAIL]