昼食に誰かを待つ日は

2019年07月29日(月)

「わたしは絶対にあなたの人生に入れないのだと悟りました」

ノーラがマックスに宛てた手紙の一文を読んだとき、漠然と抱えていた靄の正体がわかってすっとした。
こういうこと。長いこと一緒にいても、きっとそう。

私は周りに100人も10人も、両手いっぱいの人がいない。望んでいない。
そんな数ばかりあって、一体誰を必要するの?
立ち入る隙が、全然ないのよ。



2019年07月28日(日)

非常に暑い日。私は今日コンビニに行く以外部屋から出ませんでした。
昨日はうんと夜遅くまで夜更かしして1冊の本を読み終えた。そうしてまた今日新たに読み始めた本がある。

あらすじもろくに見ないでなんとなく購入した本なのに、笑ってしまうほどその2冊の本で描かれていることに共通点があって、本当に笑ってしまった。
恋愛小説であるのだろう。両方とも男が主人公で、男目線で描かれている。ここまでは何ともありがちなのだけれども、ふたつとも母親の年齢に近い女と恋愛し、激しい情欲に溺れる話なのだった。
読もう、と決心して買ったわけでもないし、他にも本を結構買ったのにもかかわらず、昨日と今日で、連続してこの種の内容を読んでいるのは何とも皮肉なことだ。男はみんな"mother"を求めているんだろう。
そんなこと不可能なのに。母親代わりになるなんて真っ平御免。私はいつまでも母親にべったりくっついているような男をすこしだけ軽蔑している。それでも思ってしまった。もっとうんと、歳をとっていたかったと。

さりとて、今読んでいる本はとてつもなく面白い!
下品で無知で貧乏で汚い40代の女と、広告会社に勤める20代の金持ち男がハンバーガーショップで知り合い(女はこの店で働いている)、互いに罵り合いながら、蔑みながら、心のどこかで終わりにしたいと願いながら、それでも結局は離れられなくなってしまうのである。

この男は妻に先立たれている。死んでしまった妻は美人で非の打ち所がないひとだった。男は妻を愛していた。でも、今目の前にしている女のことは愛していないのに、妻に抱いたことのないエネルギーでこの女を欲し、支配され、感情をかき乱されているのだった。そして他人から指摘される。
「あなたは母親を求めているのよ」と。
強く求めることと、愛していることはイコールではないのだろうか。

今読んでいる場面で、初めてこの女がとてつもなく愛おしい!
女はこれまで本など読んだことがなかったのにもかかわらず(セックスか酒を飲むことにしか興味がないのだ)、男の本棚からマーク・トウェインの『ハックル・ベリーフィンの冒険』を手に取り、ベッドの上で夢中になってそれを読んでいる。男はその姿にいたく感動し(これまでまったく本に興味を示さない無教養な女だとばかり思っていたため)、ちょっかいをかねて女を誘う。けれどもそれすら断るほどに女は読書に熱中しているのだ!これまで読むものといえばマリリン・モンローの伝記だけだったのに。しまいには、「ねえあなたもそんなとこに突っ立っていないで、なにか本を読んだら?」などという始末。奇跡のような発言!

そんなこんなで気がつけばもう夜。明日が日曜日だったらよかったのに。



2019年07月27日(土)

いま、2019年7月27日の22時前後の(台風が迫っていると予報が出ていたのにそれた夜)いま、なんだかすこし満ち足りた気分。

午前中にぐだぐだしながら起き上がり、ちょっとだけギターを練習してから労働に出かけた。
店を開け、テーブルを拭き、水をそそいでサラダを仕込み、カレーをかき混ぜて、店内のBGM(大貫妙子にした)を流して、それからお客さんがぼちぼちとやってくる。オーダーを取ってカレーをつくり、そうしている間にいつも通り不機嫌な顔の店主がのっそりとやってきた。

今日は比較的軽やかに動けたため、皿を洗っている最中に「ねえどうしたの!そんなに動けるなんてすごいじゃん」と褒められた。わーいわーい、と本当に口に出し、店主と一緒に「ふふふふ」、「ひひひひひ」と笑い合う。この隙間に、蝉の音が挟まって、あ、蝉が鳴いているなあと気がついたのだった。珍しく穏やかな時間が流れるも、この後店主は気分が沈んで沈んで、最終的に店で不貞寝をしてしまう。

この店でいま働いているのは私と、それから美大に通っている大学生の男の子らしい。なぜか、この子の後ろ姿だけ見たことある。背中以外は何も知らない。その男の子が、店主いわく「使えない」子らしく、気遣いが出来なければ平気で遅刻をしてくるし、カレーを切らしたまま対処はしないし、帰りたい時にはさっさと帰ってしまうのだという。
そんな状態だというのに、今日彼から「給料ください、取りに行きます」と言うメールが届いたようで、店主は顔をしかめていた。「このメールに対しての返事を打ったから確認してくれない?」と言われるも、その時は忙しくて適当に返事をしてしまった。のちに、「面倒くさそうな顔したからそれ以上何も言わなかった」とのことだったけれど、どうやらお給料をちゃんと払うのは難しいよというような内容を送ったそうだ。最終的にはその男の子から「もう店にはいきません」と連絡が来たようで、ひどく落ち込んでいた。
「ねえ、どうしよう。電話しようかなあ」とかなんとかをずっとボソボソと嘆いている。放っときな、と返す。だって来ないなら来ないで仕方ないし、そんなに落ち込まなくてもいいじゃないと。
それでも店主は結構変わり者で、勘違いされやすい性格であることは確かだ。今日も上の階のひとから「この人はね、うるさいひとなんだよ」と言われたそうで、二重に落ち込んでいた。
それでもはっきり物事を言う性格、裏表のない性格を私は好き。でも、この裏表のなさというか、あまりに正直に動きすぎるところが災いして、これまでもいろんな人と衝突しているらしかった。この男の子の一件から、過去の様々な記憶が引き出されてしまったのか、「ああ、こんなダメな店主だからこれまでも本当に申し訳ないことをしてしまったんだよ…」だとか、はたまた、「でも無駄話ができないの!あの子は。私は無駄話がしたい」など的を外れたことを言い、それから「はあ。もう店に誰も来てくれないかもしれない」など悲観的になったりしていた。ただ、私はそのとき大量の玉ねぎを切っていたためほとんど泣いていて、泣きながら「大丈夫、大丈夫だよ」と一応は言ったのだけど、全く説得力はなかっただろう。本当に目が痛くて正直それどころではなかったのだ。

そんなこんなで、気がついたら店主が寝てしまった。その横で一服し、それから店主の寝姿を横目にカレーを静かに食べていた。この人、本当に不器用だなあ。それでも憎めない。
私もこれまでだいぶ理不尽に当たり散らかされたことはあるけれど、それでもこの人のことは嫌いにならないと思う。昨日は川に行って泳いだせいで腰を痛めたらしく、「腰が痛い、腰が痛い」ともつぶやき続けていた。寝ている間に勝手に看板をクローズにする。店主がハッと飛び起きて、それから「ごめんね、ごめんね」と柄にも似合わず謝り続けられた。このひと、本当はものすごく心配性なのだ。そして傷つきやすいひと。今度は本当に「大丈夫だよ」と言う。

店を出てからは古本屋に行って本を5冊と、花屋でミントと青い花を購入。労働後のささやかなご褒美である。それから三ツ矢サイダーのとびっきり冷えたものを部屋で飲もうと決めて、買った。

そんなこんなで、部屋についてシャワーを浴び、コップに氷をたんまり入れてサイダーを飲み干した。夏だ!これが夏だ!冷房をガンガンにつけて、花瓶に花を生ける。もうあとは買った本を好きなだけ読むことだけ。明日も予定が何もない、だからちょっと満ち足りた気分なのである。

さっき1冊の本を読み終えた。その本のおかげで、ことさら幸福な気持ちになった。登場人物は「きゅうり」、「数字の2」、「帽子」の3人、3人の物語。多分この本のおかげでこんなに幸福なのかもしれない。ありがとうと思う。

つぎは「若い愛人が電気屋につくった借金を返すため、心ならずも再びジャガーを狩る羽目になった中年」の物語のなかに入っていく予定。南米の魔術の話。
おひとりさまに欠かせないのは、本と煙草と自分だけの部屋だ。これだけあれば十分。それから冷えた飲み物と、音楽と固いせんべい。


フジロックに行っている彼から「すべてが見えた」と連絡が来る。はて?と思ったところ「詳しくは帰ってから話す」とのこと。変な薬でもやったのだろうか。
あちらは大勢で盛り上がっている最中、私は今、小さい部屋で静かに些細な幸福を味わっている。



2019年07月26日(金)

彼女にもようやく夏が来たようで。
よかった、よかった。

ただ暑い、というだけで何も考えられなくなる。
体力はなくなる一方で、負担は減る。
汗をかいてかいて、水を飲んで飲んで、たくさん眠り、あらゆることを忘れます。
目は完全に開かないまま、毎日自転車は漕いで、
こんなにも暑いのに、明日は火を使う労働にも出かける。
そして毎度油が飛んで火傷、包丁ではいつも指を切り落としそうになる。
スライサーで必ず負傷をし、いつも指にはテーピング。
血がにじんでいる。指先はボロボロ、ネイルもしない、指輪もしていない、肌はカサカサ。
なんとも魅力的でない手。
でも、綺麗な手は、今更望まないから、渋みのある手、皺の刻まれた手、お婆ちゃんになってから自信を持てる手を、今から育てていきたいと思っている。

眠くて眠くて仕方がない。

夏の夜に踊って踊って踊る、ということをしたかったような。
でもそれは別に、いつでもできる。
フジロックに、行きたかったなあ、と思い込むために、
「行きたかったなあ」とつぶやいてみた。こんなに眠いのに。


数字が苦手なのに電卓片手に明細とやらを作成し続けていたせいで、
普段使わない脳がフル活動してこんなにもぐったりしている?

5回以上は計算を間違え、さっき苦情のメールを受け取る。
申し訳ありませんでした。
眠いと性格が悪くなってしまう。

自分でやれクソババア!
寝よう。



2019年07月25日(木)


きっかり真夜中3時に目が覚める。その後一時間くらいは寝つきが悪く、ただひたすらにぼんやりしていると朝が来ている。いつ寝たんだろうかと思うくらいに、あっけなく寝ているらしい。それでも夜中に目覚めるのはいい気がしないものだ。スイカを食べたくなって、スイカを買った。さすがに大きなスイカではなく、ひとくちサイズに切れているものにした。大きいスイカは誰かと一緒に食べるもの、そういう食べ物。メロンは人からもらって食べるもの。そういうもの。りんごとキウイは一人暮らしの味方。いつもありがとう。

今日いい夕焼けを見て綺麗だなあと思った。綺麗だったからとすこし浮かれたところ、体調を崩した。
「梅雨が長引くと性格悪くなるから早く終わって欲しいねえ」と、仕事中林さんがボソッとつぶやいた。
性格が悪くなるというかカタツムリみたいになるから嫌なのだ。この殻が邪魔で邪魔で仕方がない。
開けゴマ、開けゴマ。開けゴマ。私は開きたい。



2019年07月23日(火)

私には孤独癖がある。人との関係性を築いていくことをどこかでふっと、諦めてしまう。この私の諦観で誰かを悲しませていることも確かで、現に昨日そのことを指摘された。

線を引いて自分を守る。この癖は治らないのだろうか。
でもこんな線を取っ払って踏み込んできてほしい、というのも本心。

父に会いたい。あの人は孤独だった。でも、私が弱っていたら何としてでもどこにいてもすっ飛んできてくれる人だった。父の笑顔には、でも泣きたくなるような哀しさが漂っていた。それは、危うさと脆さがあったからだと思う。無意識にその哀しさの匂いを感じ取ってしまって、ときには本当に悲しくなった。
彼が住んでいた部屋の壁はボコボコだった。自分の不甲斐なさや世間の不条理に対して抗っていた痕。誰にも見えないところでひとりで戦っていた痕。そのすべてを隠し、笑っていたのだ。ひどく不器用。不器用で不器用で仕方がないひと。本当の優しさというのはひどく不器用で、目に見えないところに現れるものだと思っている。だから、その優しさに触れると、泣きたくなるくらいにありがとう、と思うんだよ。覚えているよ、と思う。

独りになると誰が必要なのかがよくわかる。
そして、必要とされていないこともよくわかる。

壁を殴る代わりに、いろんなことを少しずつ諦めることを覚えてしまったのかもしれない。
不意に流れてきたフィッシュマンズの「ずっと前」という曲が、今の、この瞬間の全てを歌ってくれていた。






2019年07月21日(日)

見てはいけないものを見てしまって、ひどく気分が沈んでいる。
見なかったことにしよう。なにも言わないで、抱えていよう。

投票に行きました。
今日はいちにち、カレーを作っていた。
誰のために、何のために、こんなに動いているのか分からなくなってくる。
誰のためでもないけど。
ただ自分の足で、一人でちゃんと立っていたいから。弱りたくないから。

帰り道は惨めで惨めで仕方がなかった。
我慢しよう、我慢しよう、と歯をくいしばる。
人のプレゼントを選びながら、選んでいる最中に、こんなに悲しい気持ちになったことはない。

コップから水があふれたら、その時はもう終わりねえ。



2019年07月19日(金)

昨日の夜は香港にいるバリキャリOLの理穂さんと久しぶりに連絡を取って、互いの近況を報告しあった。私たちに共通していることは「ひとりで居られるようになってしまった」ことで、なぜこんなにもタフになってしまったのか、ということについてひとしきり語り合う。薄っぺらい表面的な関係を維持するために費やす時間がとてつもなく無駄なことに思われて、だったらひとりでいることを選ぶよね、と。
一見ドライに見えるけれど、より深い部分で分かり合える数少ない人を、私たちはおそらくとても求めているのだろう。理穂さんはよくモテる女だ。けれど今年の冬に泥酔しながら私の部屋に来たときには、スイス人の彼と泣きながら電話をし、それはどうやら別れ話で、ついにこの部屋で彼女たちの関係は終わりを告げた。
なぜわざわざ私の部屋で別れ話をするのだ。縁起悪い!
彼の前では努めて明るい声であったが、それでもその後はシクシクとこの部屋で泣いていた。とてもひとりでは耐えられなかったのかもしれない。けれど、その後は清々しい顔をしていたようにも見えた。女は上書き保存、と言われるがそれはあながち間違いではない。そんな彼女には今珍しくボーイフレンドがいない。だけど昨日は、本当に溺れるような恋がしたい、と言っていた。そんな人が現れないかなあと。溺れるような恋愛は身を滅ぼすし危険だよ。と言うと、「一度きりの人生なんだから、それくらいまで人のことを愛したいよ」とのこと。その後私も色々と考えた。本当に人と向き合うとは、人を好きになるとはどういうことだろうと。
でも考えてもよくわからなかった。考えるより先に感じるものなのだろうけど。

時々自分の意思が希薄になって、白黒はっきりさせなくても、なんとなくこのままで良いのかもしれない、と楽な方向へと進んでしまうことがある。でもそうなると関係自体がうやむやになって、さらには相手を尊重することや思いやることすら出来なくなってきてしまう。相手に対して本気で怒ったり本気で悲しんだりすることもできなくなる。好きな人に対して感情が機能しなくなる、というのはなんて寂しいことだろう。感情は厄介だけど、一緒にいるからこそ、あらゆる感情が引き出されるんだもの。一緒にいるということはどういうことだろうと、思いやるというのはどういうことだろうと、このひとでなければならない理由はなんだろうと、時間をかけて考えてみようと思った。そして、少し距離を置いてみないかと提案したところ、相手を悲しませてしまったのだった。でもそもそもなぜこんなこと言ってしまったのか。一番のきっかけは、このひとは私を必要としていない、と思ってしまったからなのだ。すべて自分の世界で完結している。私はその隙間にも、真ん中にもいない。そう思ってしまった。それは思い過ごしなのかもしれない。でも、思ってしまったのは事実。同時に、井上くんがもしいなくなったら、ということを想像したら悲しくて涙が出てきたのも事実。

ずっとこんなことばかり考えている暇もなく、今日は一日中外に出て動いていた。そして言い回しのきつい人間に久しぶりにあたってしまった。なぜそんな物の言い方をするんだろうか? こちらはものすごく冷静になって、逆にまじまじ耳を傾けてしまう。一方的に文句のような愚痴のようなものを聞かされたが、彼にとってそれは「言ってやっている」という意味合いが込められていたので「おっしゃる通りです。貴重なご意見ありがとうございます」と砂を噛むようにして、一応の言葉を返した。この手のじじいに今日は二人も当たってしまった。

なんだか疲れてしまって、家に帰ってからはしばらく動けなかった。
明日も朝から仕事だ。でも今は、一息つく間もないくらい動いていたほうが余計なことを考えなくて済む。
コインランドリーで本を読んでいる時間だけがとても平和(でも今読んでいる村上龍の小説は平和どころか殺戮の嵐だが)。

先ほど前の職場の女性から連絡が来た。仕事を辞めるそうだ。
それを社長に告げると、なんと泣かれたという。ぞっとする。



2019年07月17日(水)

日記なのに書く内容があまりに抽象すぎるので、もうすこし細かく日々のことを連ねていこうと思う。そしてここに書く人の名前を「I」とか「K」とか、まるで記号のように記してしまっていることは良くないような気がする。名前がついているのだから、ちゃんとその人が存在しているのだから。私の日常の中では。だから名前も、時々ぼかしながら書いてみることにした。と言っても、この日記は誰にも読まれていないことは前提で、すべて自分の記録のために書いているのでこの試みが誰にどう影響するわけでもないのだけれど。

今日は隣の席の林さんの格好が素敵だった。白いシャツに黒いズボンをさらりと着こなしていた。林さんは全く化粧っ気もないし、一度もスカートを履く姿を見たことがないけれど、とても女性らしい。密かに憧れているのであるが、なぜか林さんはわたしをよく写真に収めてフォルダに保存しているようだ。パジャマみたいな格好で出勤してくるのが面白いらしい。(毎日パジャマスタイルではない)

昨日今日と活字ばかり読んでいて、しかも少し内容の重いものばかりだったので、なんとなく雑多な場所へ、うるさい場所へ行きたくなって、仕事が終わってから新宿へ向かった。昨日も行ったけど。
井上君と紀伊国屋の前で待ち合わせをして、わたしが好きな店(紀伊国屋地下にあるパスタ屋)でスパゲティーを食べて、武蔵野館で『ペトラは静かに対峙する』という映画を見た。誰も幸せにならない映画だったけれど、太陽の光や木々、風の音や家の石壁などは温かさに満ちていて、起こっていることは間違いなく悲劇的なのに、最初から最後まで陰鬱にはならなかった。のちに井上君に言われて気がついたけれど、この映画には一切「夜」が出てきていない。だから闇が映らず、すべての場面に明かりが灯されていた。それでも見えない部分で心の闇は侵食していて、性根の腐った、人間の形をした悪魔のような芸術家の男を中心にあらゆる者が傷つき、犠牲になって行く。
「俺は被害者意識を抱いて生きている人間が大嫌いなんだ」というようなことを言い放つこの芸術家は、でもきっと生まれたときから誰からも見放されていたのかもしれず(親は小さい頃死に、のちに兄からも追い出された過去がある)、そういう意味では誰より被害者で、可哀想な人なのかもしれない。「俺は誰の力も借りず、創作活動でここまでのし上がったんだ」と自負するのはいいけれど、その全てが正しいことだと思い込んで生き、自分自身に対して何の疑問も抱かないというのはとても恐ろしいことだ。行動や言動に彼の傲慢さがうかがえて、見ているだけで不快だった。でも、こういう人間は現実でも存在しているんだろう。この種の人間が持つ自己肯定感はすさまじくって太刀打ちできないが、他人が自分を見る目に対しては恐ろしく敏感で、どこかでいつも怯えているのだと思う。

それにしてもスペインの映画はあまり余計な演出がなくて静かで良い。あまりに過剰な映画が多いので、いまは削いで削いで削がれたもののほうがぐっと胸に迫るものがあるし、純度が高い。何かを付け加えようとする表現が多すぎるけれど、そんなのもうありふれているのだからやめればいいのに。


そんなこんなで家路につき、あとは眠るだけだ。静かな小説ばかり読んでいたので、今日は村上龍の『インザ・ミソスープ』を買ってみた。彼の小説を読むと、不思議と精神が鎮静するのである。



2019年07月16日(火)

仕事が手付かずで何もできない日。心臓の鼓動だけがいやに速く鳴る。全くなにもしていないのに、体の内側では何かを焦っていた。メモを取り出して架空の物語、脚本のようなものを書き始める。こうすることでいくらか焦りが静まって落ち着いた。時々外へ出て目の前を走る中央線を眺める。どんよりした空の下、いつまでも走っていく電車を見ていると希望も期待も見えない。だから余計な心配をしなくて済む。いつからこんな風に、いろんなことを諦めるようになってしまったんだろう。あらゆる感性を、この何年かで少しずつ確実に殺めてきたおかげで今は生きやすくなった。それでも時々どうしようもなさが押し寄せてくるときもある。意味のわからない量の涙がダラダラ流れてくることもある。意味もなく人に謝りたくなることもある。それでも翌日にはちゃんと仕事へ行ける。押し殺したものは、でも消えていない。この先、溜まりに溜まったそれらが異常な形で表出しなきゃいいなと思う。

仕事が終わり真っ先に紀伊国屋へ行って、本を4冊購入した。ハン・ガンの本3冊に、ルシア・ベルリンの新刊。少しだけ近くの喫茶店で本を読み、それから電車に乗り込んで家へ帰る。

なんだかもっと、豊かに生きていきたいなとふと思って、そう思いながら歩いていたときに、とてもひとりだった。幸せそうな人を見ていたい。笑っている人が好きだ。



2019年07月15日(月)

朝。買ったプラムを食べて労働。今日は人がたくさん店に来て、昼時には満席になった。自分にブレーキをかけるタイミングを見失う。ブレーキをかけそびれると、眠りたいのに眠れないような状態に近い精神になって動き続ける進み続ける手を止めない足を止めないそして余裕がなくなる話が聞けなくなる。すこし意地悪になってくる。良くない。一種の躁状態だ。動けてしまうというのは怖い。私は今日ずっと、いつまでも動いていた。これはまずいと気がついた時、一方的に帰りますと告げて店を出た。

私は全てにおいてあまい環境にいるから、こんなのは過酷でもなんでもなく本当にあまい。お前は一体何をしているんだ、と常に思う。昔だったら怒ってくれる人もたくさんいたが今は誰もいない。自分を自分で引っ叩く以外に自分を叫ばせる方法がない。だからと言って過去の地獄のような日々に陥りたくもなくこの生活は守らなくてはいけない。捨てられていたものを拾うような作業がきっと必要なのに私は捨ててばかりいる。気がつけば手の甲にちらほらと見覚えのないアザができているがこれは自傷行為でもなんでもなく、何故こんなところにできたんだろう。

今年の夏は水がある場所に行きたいと思っている。私は泳げない。だから海やプールが苦手だけれど今は水がある場所に行きたい。身体を水のなかに沈めてみたい。水は、温泉のような安心できる温かさではなく、きゅっと身が縮こまるような冷たい水が良い。冷たさと一緒になって、あとは何も考えない。安心できる場所は本当に限られています。一緒にいるひとが冷たさを持つひとでよかったと、心底思う。あまりに優しいと、あまりに穏やかだと、あまりに真っ直ぐだと、自分に吐き気が起こる。冷えに行く、という気持ちで誰かの側にいたいと思っている。同時に肌の温かさ、正直な目の色には鋭敏になっていたい。
心の底から安堵する、冷たいところから温かいところへ行くと。そこに留まっていたいと、本当は思っているから苦しくなるんだろう。



2019年07月14日(日)

少しだけ職場に行った後、昨日はずっとハン・ガンの『菜食主義者』を読んでいた。
コインランドリーに行って洗濯物を回している間、電車に乗っている間、Iの部屋にいる間。
久しぶりに本を読んで泣いた。血を吐くようにして書かれたものを読んでいると、心臓を掴まれたような息苦しさがある。自分の内にある暴力や、受けていたかもしれない暴力、誰の中にも潜んでいる静かな暴力を抉りだされる。同時に小さい光がその中にある。あまりに衝撃的で、鈍器で頭を殴られたような衝撃が走りつつ恍惚感があり、読了後は一言も何も話すことができずただ呆然としていた。

慰めや情け容赦もなく、引き裂かれたまま最後まで、目を見開いて底まで降りていきたかった。

あとがきの一文、とてもかなわない。



2019年07月07日(日)

日曜日。
髪の毛を切りに行く。Oさんに言われて気がついたが、私の額の生え際にはどうやら青いアザのようなものがあるらしかった。「これどうしたんですか?」と聞かれても、自分で気がついていないのだから答えられない。でも思い返すと、ずっと前にも他人にそのことを指摘されたことがあった。
その後、何かひどいことを言われたような気もするが思い出せない。

六本木へ移動。国立新美術館に向かう。その前に腹ごしらえと思い、近くにある定食屋に入った。「アメット」という店。六本木っぽくない店の雰囲気は、一言でいうとバンドの「たま」の世界観。「かっこつけるほどかっこ悪くなるのさ!」、「うちは、回転しなくても良い店です」など、深くて浅いのか、はたまた浅くて深いのか判断しかねる文言が、ところどころに掲げられていた。メニューがありすぎて悩むのが面倒になり、目についたハンバーグを注文。これがものすごく美味しかった。良い肉を使っているのか、コネ具合が絶妙なのか、とにかく今まで食べたハンバーグで体験したことのない食感。ソースも美味しかった。ぱっと見は母の味というような定食なのだが、見た目とは裏腹に味は品があった。なぜかうどんが付いていたけれど。

『クリスチャン・ボルタンスキー展』ゾッとした。けれど好きだった。「怖い、怖い」と仕切りに彼氏と思わしき男にすがりついている女などを傍目に、ひとり順々に作品を眺める。(ずっと彼の心臓音が響いていた)ところどころ幻想的な空間があり、死神のような天使のようなものたちが影になってゆらゆら漂っているのを見ているのは飽きず、この作品の前でだけ童心でいられた。子どものうちに見ておきたかったなとおもう。(この後死神みたいなモニュメント買い、今は部屋にぶら下げて影を作って遊んでいる)一番怖かったのは、黒い服が山のように積み上がっている「ぼた山」という作品で、なぜだか私はアウシュビッツの収容所の人たちを連想し、肌で怯えた。頭の中でしか知らない彼ら(虐殺されたユダヤ人)の生、生だったもの、を間近で見てしまったような。
何よりこの人、照明の使い方がほんとうに上手だ。すべてが写っているのではなく「浮かび上がって」いた。
闇の中に闇が浮かんでいることを、光が示唆してくれていたように思う。
それにしても、「咳をする男」の不快だったこと…。
出た後に晴れ間ではなく雨が降っていてよかったなと思う。

その後シネマカリテで『ピアッシング』という映画を観る。村上龍原作だというので前々から観たかった映画。おそらく映画より小説の方が面白いのだろうが、色使いや音楽がポップで楽しく、刺激的だった。
都会を見下ろせるマンションに住みベッドにはシルクのシーツが敷かれ紅色に統一された部屋で暮らし自分の身を守るためなら手段を選ばない金髪ボブのミア・ワシコウスカがとても魅力的だった。自らの太ももをグサグサ刺してしまうほどに精神は壊れていたけれど、マザーコンプレックスでアイスピックを持ち歩いている男よりかはよほど正常だろう。観客がまばらで左のおっさんがエンドロールの曲に合わせて頭を振っていた。

帰り道は寒かった。梅雨はいつ明けるんだろうな。買ったモニュメントが影になってゆらゆら揺れている。
あいつはダメなやつだなと思われても良いのですべてを放り投げ闇がきちんと浮かび上がる光が存在している場所に行きいろんなことをしっかり、ひたすらに祈っていたい。自分を肯定してくれる場所や人が、時々信じられなくなる時がある。梅雨が明ければ気持ちも晴れるのだろうか。



2019年07月05日(金)

国立西洋美術館で『モダン・ウーマン』を観る。
フィンランドの女性、5人の画家が描いた絵。マリア・ヴィークという作家の絵が一番好み。
人物ではない、古めかしい鏡と花瓶、机が描かれた絵が一番印象に残る。部屋の、なんでもない置物の絵をずっと見ていたい。

意識を持ちすぎるものと接しているからか。静かなものは、静かな人は、静かな場所は、どこにあるのか。



2019年07月03日(水)

女性としての立場から声をあげていたとて、肝心なところで「弱さ」を武器にするのは少し狡いやり方ではあるまいか…。実はいじめられているのが強い人である場合もあるんじゃないか。声をあげる女性は大事だけど、結局「傷ついているわたし」を主張して、みんなに守ってもらおうなんて同じ女として嫌悪感しか起こらない。私はあなたの書いたものを一生読みません。

こんな時は、松浦理英子を読もう!冷酷冷徹な言葉が女同士で飛び交う方が正直だ。清々しい。



2019年07月02日(火)

うらない師のひとがたくさんいる場所へ行った。隠れ家みたいなバーで、そこにたくさんのうらない師のひとたちがいたのだった。髪の毛をレゲエ風に結った女性が目の前にすわっていて、挨拶をする。不思議とみなさんの目玉が黒ではなくて、変な色をしていた。そして眼球の動き方に違和感があった。何を見ているんだろうと思い、目を伏せたくなったが逆にずっと彼らの目玉を凝視してしまった。わたしだけがここでうらないのことを何も知らないので、ぽかんと口を開けてさまざまな、易経がどうだこうだという話を聞いていた。その女性は岩波書店から出ている『易経』の上下巻を持ち歩いていて、見せてもらうと、とてつもなく小さな文字が膨大に書きこまれてあった。赤いペンや緑色のペン、そして鉛筆で。読めない漢字は必ず辞書で調べ、わからないことは何度も何度もわかるまで読み返していたらしい。その女性の肩書きは、聞いて驚いてしまうほどエリートそのものだったけれど、それは嘘なんではあるまいかと疑いたくなるほど女性の性格は奔放で、そこがなんとも魅力的だった。ポールダンスをしているそうだ。いいなあ!というと、「来れば?」じゃなくて、「ポールダンスやってみりゃいいじゃん!」と屈託のない顔で言われたのだが、自分がポールにまたがっている姿を想像するだけで爆笑ものだ。セクシーさの欠片もない。(その後、そこで働いていた男と女のえげつない話になったのだがこれは割愛。でもここが一番面白かった)
なぜ自分はここにいるんだろうと思わざるを得ない状況ではあったが、ひとりひとりのひとがちゃんと目を見て真剣に話を聞いてくれ、さらにユーモアがあったのでとても楽しく過ごした。わたしは基本的に自分の未来や性格を知るのが怖いため、できる限り自分を占って欲しくなかったのだが、とある男性に生年月日を聞かれて、なんとなくの今年の意向を伝えられてしまった。(あまり良くないのね)それから、最適な職業も。
魔界から一歩外に出ると、体が不思議とふわふわしていた。良いのか悪いのか、わかんない。



2019年07月01日(月)

足首の裏側に貼っていた絆創膏が剥がれ、傷口が治癒しすこし硬くなった皮膚が赤くなっている。同じ場所に絆創膏を貼っている女性をときたま見るけれど彼女らはヒールを履いてつかつかと背筋正しくセクシーに歩き、その姿を遠目から実は羨ましく思っているのだった。私が足首の裏側に絆創膏を貼ったのは、オニツカタイガーの新しいスニーカーを履き、そしてそれが足の形に合わなかったからで、理由にセクシーさのかけらが微塵もない。この靴は結局まったく履いていない。去年の今頃に、とある場所へ行くため頑張ってヒールを履いたのだが、その大事な場所に入る前にやっぱり靴擦れをおこして足首の裏側を負傷し、セブンで絆創膏を買って、見知らぬマンションのロビーで滑稽な格好のまま絆創膏を貼って、その場所へ向かった。終わってすぐヒールは脱いで、そのままどこかへ行った。OLっていいなと思う。「足の絆創膏、剥がして。」

昨日私はとんでもなく馬鹿で幼稚なことをやらかした。お前は何故いつも一時停止ができないの?と自分に問いかけたい。何度も何度も問いかけたい。何か痛いことがあればそっちに気を向けることができるのだが、あいにくそんな傷口がひとつもなく、そのためあちらこちらに神経が向けられ、その神経は自己防衛につながっていて、突飛な行動をし、違う場所に不要な傷をつくりだし、そして激しく後悔し、女々しい女でいることに半ば呆れ、猛烈にそんな自分を憎たらしく思う。私は悲観的で女々しい女が嫌。でもこの日記を読んでいると毎日毎日自分が違うように見えるし、ほとんど悲観的なようにも見える。全て燃やしてしまいたい。悲しみではなく静かな怒りを内部にたぎらせて、それを違う形で表出させたいのだけれど矛先がどこにもない。

以前頭のおかしな男が真夜中にわざわざ台所で眠っていたことがあったが、どうして一人そんな冷たいところに横たわっていたのか意味がわからず、それに気をひくためとしてはあまりに子供じみていてもはや哀れに見えていたのだけれど、その行動とほとんど変わらない行動を自分がしていたことに気がついて、あの頭のおかしな男の気持ちがようやく初めて理解できたような気がしたが、その瞬間にたちまちその全てを否定したくなり、同類であることに心の底から嫌悪を感じた。過ぎていったものたちを完全に葬り切れていないようだ。丸ごと全てを墓場に持って行きたい。美化した思い出もなければ恨みも執着もない。ただただ墓場の中に埋めて、風が吹かない限り近づいてきてほしくない。全く意味のない話である。

鳴る必要のない電話が鳴って、切れずに鳴りっぱなしの電話のもとでうろうろし、掛け直すこともかけ直されることもないまま明日になって、そこで生まれたはずの会話を想像する気すら微塵も起きず、こんな電話の前に通知してほしい人の名前がいつまでたっても表示されず、しかしそもそもこの機械を信頼していないのでそんなことはどうでも良い。どうでも良いものにいつも左右されていて生身が見えない。キーボードを打つ手が早くなったところで何になるのだ、淡々と文字を打ち込んでいる裏側にどんな顔や声が言葉が潜んでいるんでしょう。見えすぎると疲れてしまうから一つ壁として、これを通して、話したほうがスムーズに行くのだろうか。

久しぶりに犬に会って、この犬のことをいつまでも抱きしめていたかった。無垢な目でこちらを見つめるので、その目を見ている時だけは正直でいられる。犬は、会って、抱きしめて、撫でて、そこで初めて満足してくれる。それ以上のことは何もできないけど。直接。直接。

直接、という話。


 < 過去  INDEX  未来 >


左岸 [MAIL]