昼食に誰かを待つ日は

2019年06月30日(日)

Moses Sumney -Indulge Me

昨日の夜は二時間ほど泣き続けて(理由はなくて多分身体がそれを求めていた)、だから疲れて10時間以上も眠った。起きよう、と決意して立ち上がろうとするまでに再び目を閉じて眠ってしまい、そんな調子でようやく動き始めたのが昼前。といってもこれといってすることがあるわけでもなくて、とりあえずスーパーに行った。
果物の中でも特にプラムが好きで、いつも並んでいる果物売り場の中に、今年初めてプラムの姿を見つける。値段は高く、贅沢ができる身分でもないのだけれども、それでも躊躇せず手にとって心がニンマリしたままカゴの中に入れた。ついでに林檎も買う。キウイも欲しかったけど、今日は我慢した。(冷蔵庫の中に4つくらい入っているが、なんとなくキウイはストックがあればあるだけ充足した気持ちになる)

それで部屋に戻り、しばらく携帯電話の電源は入れずにぼーっと過ごす。自分の気持ちを持ち上げたり、ひとりで二本足でしっかりと地に足をつけて立ち上がるために、誰か人に頼ったり、寄りかかったりもたれたりするのではなくて、私はこういう風に、ささいな贅沢(例えば今日はプラムを買った)を自分に許し、静かに誰にも見えないところで自分に潤いを与えて、ささやかに機嫌を取り戻してゆく。
好きな本を読んで、Moses Sumneyという人の曲を聴いて、プラムを頬張って、何にもしないでダラダラと過ごしていた。この歌手の男の人の声が繊細で柔らかいのに、それに比べて体格は頑丈そうで、いかにも黒人の強い人という見かけ。なのに、大人向けの子守唄でも言いたくなるような歌声を発している。このギャップにやられて、今日はずっとこの人の歌を聴いていた。眠たくなるし、なんとなく雨の日に合う。

せっかくの休日に部屋の中にずっと閉じこもって過ごしているけど、昨日枯渇していた自分の中の木みたいなものが、草、みたいなものが、今日はさやさやと穏やかでいられたと思う。こういうとき、ひとりでも立ち上がれたぞ、ひとりでも大丈夫なんだ、とじぶんにすこし自信を持つことができる。この気持ちが芽生えたと同時に、そして大事な人に会いたくなる。じぶんに余裕がないと、人と一緒にいても、たぶんお互いが息苦しくなってしまう。そうはなりたくないから、機嫌が良い時に、穏やかな時に、初めて、大事な人の顔が浮かぶ。
会いたいなと思う。今日はずっと閉じこもっていたけれど、あとで夜映画館に行く。正直もっともっと部屋にいたいところだけど、すでに5時近くになってしまった。あと10時間はこうしてダラダラしていられそうなのに。時間はどうでも良いけれど、明日が日曜日だったらよかったのになあと思わずにはいられない。
週6日働いていると、本当の休みどころが日曜日の午前中しかないのだ。午前中だけで、あとはもう月曜日、仕事の始まりに向かっていくだけ。こういう現実から逃げるために、しょっちゅう映画や本の中に身を隠し、逃げているわけなんだけど、今日も夜映画を見終えた後にきっと気が少し重くなるんだろう。日曜日の夜は苦手だ。



2019年06月29日(土)

土曜日。カレー屋での労働。ここでは全く愛想を振りまく必要がなくて楽。店主が正直な人だから、こっちが嘘ついてヘラヘラしたところで何も通用しない。
昨日も職場で山形産のさくらんぼ(頬が落ちるほど?美味しい)の差し入れをもらったけど、今日はアメリカから送られてきたというさくらんぼをもらって、パクパク食べていた。それ以外は無心で皿を洗ったり、カレーをかき混ぜたり、野菜を切ったりして、合間に店主とボソボソ話をする。今日は包丁で指を切り、指から血が流れ、応急処置としてテープを巻き、その後に油が飛び跳ねて次には火傷。何も感じなくて、別に動揺もしなかった。

いろいろが終わって、ホームで電車を待っている時に急に涙が出てきて、止まるとこうなるのがわかっているから動かないといけないんだよね、と再確認。何があったわけでもないんだけど、会いたい人が誰もいなくて、誰の顔も浮かばなくて、それが急激に寂しく、早く本当に独りになるために家に帰りたかった。

今はSudan Archives という人の歌を聴いている。良い。
ひとりで遠くに旅をし、とてつもなく広いベッドで眠りたい!

電球を買いに行かねばならないね。



2019年06月27日(木)

部屋の電球が切れた。
電源を入れた途端に「パチッ」という音とともに小さな火花が散り、電気が全くつかなくなる。仕方がないので天井からぶら下がった正規の電気、部屋全体が明るくなるもの、をつけているが明るすぎて落ち着かない。台所の換気扇部分についた小さな電球もこの間切れてしまったのだった。しかもこの電球を取り替えるためにはまずネジを外してカバーを開かなければならず、しかしこの部屋にはドライバーがないためそもそも開くことができない。いつかは取り替えなければならないのだが、切れた電球のままやり過ごし、いずれこの部屋から去る気がする。でも台所のこの電気、一番必要なんだよな。

明るい部屋が落ち着かず、仕事が終わって部屋に帰ってからは、しばらく電気をつけなかった。外はほのかに青く、向かいの建物に設置されている電球も思いのほか明るい。だからベランダのほうに体を向けて、本当に暗くなるまでじっとしていた。

そして本当に暗くなる。

立ち上がり、明るすぎる電球のもとで明日の弁当を仕込む。買ったばかりのプチトマトを誤って全て床にこぼした。この瞬間、何かが、それこそスイッチのようなものがプツンと途切れ、全ての溢れたトマトを踏み潰したい衝動に駆られる。理性で抑え、トマトを拾い、洗って、惨めな気持ちを抱えながらそれを弁当に詰めた。

自暴自棄になろうと思えばいつでもなれる。だからそれをしないようにとりあえず動く。またコインランドリーに行った。いつもは200円の安い洗濯機を利用するところを、今日は特別に400円を投入してちょっとだけ良い洗濯機に衣服やシーツを詰め込み、ぐるぐると洗濯物が回る様子を眺めていたらだんだん気持ちが落ち着いた。自分が暴れる代わりに洗濯物をバシャバシャさせて気持ちを落ち着かせる、という一つの手段。
足元に蜘蛛がいた。洗い終わってから乾燥機に全てを入れて、再び30分待機。落ち着いてきたので本を読む。

雨が降っていたが傘がなく、濡れながら歩き帰宅。
家に帰って、過去の日記を読み返していた。読みながら、随分と激しい2018年を送っていたのだなと改めて気がついた。毎日怒り、毎日泣き、喧嘩をしている。
こんなにも落ち着いてしまって良いのだろうか。あの熱はどこに行ってしまったんだろう。
熱があってもなくても、それは不意に出てしまうもので今考えたところで仕方がないけれど。
今は比較的穏やかな波の上にいる。他人に乱されることがないから楽だ。そういう場所や人から離れたかった。

明日も雨だろうか。



2019年06月26日(水)

目的の地に行くために、わざと遠回りをする。快速に乗らず各駅で行ったり、明らかに乗り換えした方が早く着く場所に、一本の電車で向かう。律儀に各駅に止まる電車に乗り、そうしていつまでも降りない乗客がここにいる。今日も荻窪から池袋まで、わざわざ丸ノ内線に乗って向かった。昨日から体調が優れず、新宿あたりで人が多くなって、ますます具合が悪くなる。イヤホンで音楽を聴くのも苦痛で外したけれど、かといって雑音は何も耳に優しくはなく、そのうち首から頭にかけて嫌な重さを感じ、それがそのまま頭痛へと繋がった。ぼうっとする目のやり場もなくて、車内で金井美恵子の『岸辺のない海』を読む。苦痛だった。頭が痛い時に活字を読むとますます目が回るのだけれど、それでも美しい描写が救いで、小説に没頭し、色々な煩わしさを一時的に忘れることができた。

池袋の本屋を回り、疲れ、帰宅。

今日は絶対に靴を洗うと決めていた。近所に靴のコインランドリーがあって、初めてそこに行き洗濯機(靴専用)の中に靴を入れ、回り終えるのを待つ。このコインランドリー内がサウナのように暑く、はじめのうちは中で待機していたけれど段々と身体中に熱がこもり、白目をむいて倒れてしまいそうだった。無駄な我慢をなぜしていたんだろう。
外に出て、ファミリーマートに行き、大して食べたくもない白くまアイスを買って半分食べ、半分捨て、一服し、そのままぶらぶら外を歩く。何も考えないで歩いている時間は空白で心地がいい。でも途中、大事な連絡をしそびれていることに気がついて、気がついた途端に空白の時間が終わった。本当になにも考えない時間なんてあるんだろうか。それは相当に疲れる。でも考えないと、本当に私は呆けてしまう。すでにいろんなことをあまりにも忘れすぎているので、物事をただ通過するだけではなく、それを覚える努力、知る努力、蓄積する努力をしなければいけないのかもしれない、と最近思う。

靴を洗い終えて、部屋に戻って、花瓶の水を取り替え、風呂とトイレを掃除し、ついでにマグカップにハイターをかけたりしてた。昨日からカマキリに似た虫が天井から張り付いている。少し前ならすぐさま殺しにかかっていたところを、守り神なのかもしれないと思い込むようにして生かしている。なぜこんな風に思い始めたんだろう。どうでもよくなってきたのかも。

それにしても、もう六月になってしまった。そしてこの間、この間に何ができたんだろう。今年に入って何かしたかと言われると、本当に何もしていないのだった。覚えていない、忘れてしまった、何もしていない。こんな風に言っているのがだんだんと嫌になってくる。全てがただの言い訳に思える。去年はそれでよかった。そういう年だったから。それが必要だったから。考えても辿り着かないから、自分の言葉を持ち得ないから、覚えると責任が生じるから、全てに対して真摯に向き合うのが怖いから、とても、精神が持たないから。
でも今は、埋める作業をしないと本当に何も無くなってしまうような気がしている。

汚れを落としていく作業が必要で、不要なものは全て捨てたい。今必要なものしか要らない。
だから部屋を掃除し、不要なものは徹底的に捨てた。それで次、ここに何が必要なんだろう。

とにかくたくさん眠りたい。起きている時間より隙間がないような気がする。

「公園のベンチで、煙草を吸いたいと願っていた。煙草を吸って、それから何よりも眠りたかった。何よりも眠りたい。身体を伸ばし、あるいは丸め、眠りを貪りつくしたいと彼は願った。眠りほど貴重なものがあるだろうか。この解放、生の時間からの束の間の解放の夢である眠り。」



2019年06月25日(火)

パナソニック汐留美術館で『ギュスターヴ・モロー展』を観た。これは土曜日の話だ。
Iもいたけれど、私たちは一緒に絵をみていない。別々に行動していた。ほとんど描かれているのは神話や聖書に登場する女性で、彼女らは「男性を死へと導く女性」、「誘惑され破滅へと導かれる危うい存在」というような視点で描かれていた。なかでも、私は小さな額縁におさめられたサロメの絵に惹かれた。決して目立つ絵ではないけれど、強く印象に残っている。彼女が纏っている衣装(巫女のようにも見えた)、右側の空白(彼女は左側にいて、誰かと対峙しているような姿勢にもかかわらず目の前には誰もいない)独特な赤い色の絨毯。そしてなにより、彼女の姿勢。Iに言われてハッとしたけれど、それは確かに「能」を想起させる姿勢だった。今にも静かに、彼女がそのままゆっくりと動き出しそうな、コマ送りのひとつを取り出して眺めているような。だから何もかもに注意し、目を凝らす。でないと、ささいな動きを見逃してしまうような気がした。(でも、Iいわく今回の展示は素描ばかりで味気なかった、ということ)

コンバースを履いた女の子の歌をうたっているK君、その後ろでドラムを叩いているKさん、仕事途中でひょっこり現れたJ、などに会えて嬉しかった。ほとんど会話はしていないけれど。それにしても、昼間のライブは良い。終わった後はまだ15時くらい。散歩ができる時間だ。

Iがポルトガル語を練習していたから便乗し、ちょっとだけ教えてもらう。
夜は北野武の『3-4x10月』を観る。主人公の男の顔が良い。と改めて思う。
たけしは、なぜバイオレンス映画に走ってしまったんだろう?

月曜日。
IMAXで映画『アラジン』を見る。散々見たい見たいとわめいていたのがようやくかなった。
子供の頃からアラジンの歌が好きで、映画ではアレンジされてはいたけれど、良かった。
アラビアンナイトが最高で、この曲は「大音量で聴くのが正しい」と気がつく。
ジーニー役のウィルスミスを見て猛烈に羨ましくなる。ジーニーの役を演じられる人生!なんて愉快なんだろう。

火曜日。一日中具合が悪かった。




2019年06月19日(水)

バラの花が萎れた。
でも花瓶のなかで弱々しく立っている。
茎も草もしなしななのに、頭はまだ垂れていない。
苦しいのに無理やり生きている感じに見える。無理に生かしてしまっているのかもしれない。
明日は花瓶の中から取り出そう!
でも花の寿命って、どこで判断するんだろう?

この狭い部屋に、花を置いているけれど、
ここは花が生きる場所ではないことは確かで、
だからそもそも、ちょっとお花にとって不幸なのかもしれない。
でも、私は元気な花を見ていると元気が出る。
だから置いている。とても我儘で自分勝手だ。

きのう部屋に再びてんとう虫がやってきて、
外に出そうと思ったのに、間違えてやっつけてしまった。
それで、何にも罪がないてんとう虫は息絶えた。こんな風に小さな命をいつも奪う。

自分本位の人間。それでも自然には勝てない。
災害には抗えないから、多分ポックリ死ぬ。
人も虫と一緒だ。虫よりも酷くて、とんでもないことばかりをしでかしている。
だから何が起きても、何も文句言えない。

生きているだけでゴミを増やしているし、
だから、もうこれ以上のことしたくないなあ。

何かを強く言う権利も何もないよ、と思う。
小さいところを見ていくと、私は毎日何かをしれかしている。
ごめんなさい、と思う。
けど、いつもありがとう、とも思う。

人を攻撃するために言葉が存在するんなら、
一回全部忘れてしまいたいよなあ。
それで、日本語を見るのがつかれてきた。
意味がわかりすぎるから。

この前全く読めないのにロシア語の辞書を突然買っちゃったんだけど、
もちろん学ぶつもりでは毛頭なく、
読めない言語を読む、というか見る、というのは
なんか宇宙人になったみたいで楽しかった。

日本語、意味がわかりすぎて、もうつかれる。
私、本当にツイッターやフェースブックが嫌いだ。
大嫌いだ・・・・!
あんなに言葉が氾濫している世界に身を置いていたら、滅びると思う。


で、いつかの行き先を決めよう。
しおれる前に、頭が垂れてしまう前に。






2019年06月17日(月)

自称ロマンチスト云々とふざけたことを抜かしながらずいぶん愚かなことをしてくれたなと思う。本当に愚か。作家が血肉を削いで書いた文章を、あたかも料理の素材のようにしてかき集めてフルコースにし、そしてその全てをまるで自分のもののように振る舞う行為は愚かで下劣で失礼で、何より幼稚。こんな直接的なことをきっと誰も言ったことがないと思うけれど、近くにいてそう感じたまでだ。少なくともその金が自分の給料の一部になっているのかと思うと嫌で嫌で仕方がない。彼は、恥ずかしくないのだろうか。

あなた、一人一人に頭下げに行くべきでしょう。
こんなに恥ずかしいことはないですよ、本当に。



2019年06月16日(日)

朝、すこし早起きをして映画館へ向かう。『慶州 ヒョンとユニ』という韓国の映画。以前京都でたまたま『幸福なラザロ』を観に行った際、この映画のパンフレットが置いてあり、これはみないといけない映画だなあと直感したのだけれど、やっぱり観て正解だった。静かで、観終わったあとにいろんな想像を巡らせられる余地を与えてくれる映画。答えが簡単に提示される分かりやすい安っぽい映画では全然なく、映像も美しく、静かで、本当に良い映画だった。もう一度観に行きたい。

映画を観終わって、お腹が空いて(140分以上の映画だったし)、Iと一緒に渋谷を歩き、歩いて、結局喧騒から離れた場所に小さなお店を見つけて、入る。店内には老夫婦と、それから犬がいた。
オムライスが美味しい、と言ってくれたので注文し、出てくるまでの間に映画について話す。
時々犬のほうに目をやると、『フランダースの犬』に出てくるパトラッシュ(も犬!)の人形の上に頭を乗せて眠っていた。そのそばで店主が虫眼鏡を片手に新聞を読んでいる。肝心のオムライスはあんまり美味しくなかったけれど、この光景を目にした、ということで我々は満足した。

その後もう一度、店に向かうことになる。眼鏡をどこかへ忘れてしまい、お店にないかしらと引き戻ったのだ。けれど、扉を開けると私たちが座っていた場所に店主が横たわって眠っていて、声をかけても起きない。一匹のシーズーだけが不安げにこちらを見つめていて、5秒くらい犬と見つめあったあとで、静かに扉を閉めた。

初めて代田橋に降り立ち、Iがこれから住む家へと向かう。今日鍵をもらったばかりの、何も置いていない古びた家。部屋が全体的にぼんやりと青みがかって、即座にねむくなる。まだ電気のつかないこの部屋には、窓から入る光だけが頼り。でも、その光もほとんど沈みかけていた。まどろんでいると、バルサンを焚いて即座に逃げる準備をしなければならなくなって、文字通りバルサンを焚き、逃げるようにして部屋を後にした。
家から30秒ほど歩いた先に、ヴィンテージショップを見つける。そこには珍しい照明類がたくさん置いてあった。Iの部屋には照明が最低6つは必要なのである。どの照明も古めかしく味があって、長い時間をかけてさまざまな照明を眺めていた。結局この日は買うことができなかったけれど。それにしても、こんな辺鄙な場所によくお店を構えたものだ。
代田橋は、屋根の低い比較的小さいお店が建ち並び、親身で、人とひとの距離が近い場所に思えた。インド料理屋のおじちゃんと、自転車で荷物を運んでいる宅急便のお兄さんが仲良くハイタッチをしていたり、そのそばで子供達が笑いながら神社のなかへ駆けて行ったり。その光景がおかしくて、げらげら笑った。
Iはきっとこの街でいろんな知り合いをつくるんだろう、と思う。飲み屋で出会ったおっちゃんとか、そういうの。わたしはそういうことができない、というか求めていないから、すぐに誰とでも打ち解けてしまえるIの性質をおもしろく眺めている。ご近所さんに挨拶をしなきゃ、お隣さんと仲良くできるかな、と何の屈託もなく言えてしまえるのは、今どき珍しい。そういう姿勢を、すこし分けてもらいたい。

阿佐ヶ谷について帰り道を歩いていると、青いワンピース姿で自転車に乗ったひとりの華奢な女性が「月が綺麗!」と言って、側を駆け抜けていった。わたしにはその声がはっきり聞こえたけれど、誰に向けた言葉でもないはずで、けれど、彼女の心の声がもれた瞬間に立ち会えたことが、なんかうれしかった。

ほんとうに今日の月、綺麗だった。



2019年06月14日(金)

夜。ぽつりぽつりと雨が降って涼しい。シャワー後に即ベランダに出て外気にあたる時間が幸福。
薔薇の花がすこしだけ枯れてきているけれど、まだ頭は垂れていない。近くに花があるとうれしい。明日、また花瓶と花を買いに行きたいな、と思う。けど、明日はバイトだ。カレーを作らなきゃ。2週間くらいバイトに入っていないから、きっと何もかもを忘れ、しきりにぐちぐちと何かしら言われるのだろう。それでも、この仕事は嫌いじゃない。体を使う仕事は本当の労働だ、という気がしている。そして自分にはこっちのほうが向いている。現に、今日PCの前にずっと座っているときに、ああもう駄目だ。と、突然スイッチがオフになってしまった。同時にあらゆる逃亡方法を考える。将来は綺麗な海で身投げをしてすべてを終わりにしよう、などと浅はかなことを本気で思った。死ぬことを考えるとふっと楽になる。これはマイナスな意味でなく、生きるための手段。また嫌なニュースが飛び込んできて暗澹たる気持ちになったのだけれども、今度は次第に、腹が立ってきたのだった。このヘンテコな社会のなかに、確かに身を置いているけれども、なぜこんなにも毎日、自分がわざわざ落ち込まなければならないのか。私は私の生活、というより自分を守らなければならないのだ。ということを思い出し、自転車を強く漕ぎ、漕いで、漕いで、そして泣いた。この姿勢を忘れると、一気に弱くなって、力尽きてしまう。いつもひとりでよっこらせと立ち上がり、いつもひとりでしょぼくれて、そんなことの繰り返しではあるけれども、なんとか生きている。それでも毎日悲しいです。それでも毎日絶対にひとつは、幸福なこともあります。今日は、さっきの一瞬。ベランダで外気に触れたとき。こんな小さなことを、わたしは幸福だと思う。そばに花があることも。今日は突然思い出したことがある。私の精神状態が相当に良くない頃に、とある人が夜車で海に連れて行ってくれたのだ。なぜそういうことになったのかというと、わたしが突然に、ほんとうに突然に、「海に行きたい」と言ったからで、それで、わざわざ横浜から車で来てくれた。その人のことは好きでも嫌いでもなく、今でも印象が薄い。それでも一緒に海に行った日のことを今日思い出してみると、とても懐かしい気持ちになる。夜に出発したために着いたのは真夜中近く、あたりは真っ暗だった。人も全然歩いていなかったし、灯りも少ない。けれど、その暗さが逆にわたしにとって安全安心で、おそろしくテンションが上がり、車を駐車場に止めてからすぐ駈け出すと、海の付近に線路があった。それで、ステンドバイミーごっこがしたい、とまた突飛なことを提案して、ステンドバイミーのあの歌を口ずさみながら、線路の上をたったたったと歩いて、死体探しの真似をした。もちろん見つからなかった。線路を歩いていたら海について、真っ暗だったから遠くの灯台の灯りや星がいやにはっきりと見えた。肝心の海は真っ黒で、それでも波の音はちゃんと聞こえた。わたしにとって、夜の海、誰もいない海、はやっぱり安心安全そのもので、ほんとうに嬉しくて、だから砂浜の上で好きなだけ踊り、つかれて波の音を聞いて、星を見て、そのときはずっと幸せだった。そういうようなことを突然思い出した。あの精神状態でいることは本当にしんどかったのだけれども、それでも、自分に素直に生きていた。ほとんどずっと泣いていたけれど。急にこうして強くなったようなつもりではいるけれども、多分根っこの部分は全然変わっていないのだ。いまでも、真夜中の真っ暗闇の海に行きたいと思うし、それに、砂浜の上で踊りたいとも思う。全然おかしなことではないのだ。どうしていま、週5で、それなりに働けちゃっているんだろう。何より、よくもまあ、一人で暮らせているものだ。いろいろしでかしてはいるものの(池に人を落としちゃったり!)、それでも、こんな当たり前のことが当たり前ではなく、ちょっと奇跡にちかい。皆が当たり前だと思っていること、全然当たり前じゃないよ。だから、みんなすごい。
成長しているのか、成長していないのか、全然わかんない。それで、社会の常識も身についているのかわからない。それでも、あのときといまが違うのは、なんか、「自分」が、「私」が、減った。だからちょっと楽になった。なんというか、そこらへんを漂っているタンポポの綿毛みたいな、そんなような感覚になった。通過して通過して、ときどきどこかにふっと止まって、そして過ぎ去って、過ぎ去っていくことも忘れられて、それでも続いて、どこに着地するのかはわからないけれどなにかに身を委ねている感じ。「私」を減らしたい。

そのために、もっとしなくちゃいけないことは観察だ。小さなことを、見逃しがちなことを、よく見つめること。仕事、辞めたいな。生きるためとはいえど、1日の大半をPCの前で過ごすなんて人生損している。めまぐるしい情報など、頭のなかに入れたくない。私・私・私ばかりの人たちで、ひどくつかれる。

こんなことを別にいいたいんじゃなかった。
やさしい人に会いたい。やさしい人になりたい。
与えるんではなくて、受け入れられる器みたいなものになりたい。
すべて、いろんなことが入ってくるなかで、でも、自分のことをふっと受け入れてくれるところって、全然ないじゃない。見て、聞いて、うなずきたい。



2019年06月13日(木)

暗いニュースばかり見ていたら、めっきり気分が沈んで、無意識に口数が減っているような気がする。
小さな子どもが死んでしまったり、女性が孤独死していたり、パワハラで男性が自殺してしまったり、嫌でもそのようなニュースが目に飛び込んできて、滅入る。みんなこういうニュースを見ているとは思うけど、一体どう思っているんだろう。特に最近女性の孤独死(セルフネグレストが原因)を見ていると、もしかすると自分もこうなってしまうんじゃないだろうかと、どきどきする。だから怖くて、さいきんは家に帰ってすぐ野菜を切ったり米を研いだり、そういうことをして、とにかく手を動かすことで自分を保っている。でも、おかしなくらい最近なにかとても不安で、不安を抱えると面倒臭くなって次の日は忘れているような性質なのに、1日経つごとにそれが減るどころか増えてしまっているのだ。

誰かが突然いなくなってしまうんじゃないだろうかと考えたり、ある日とつぜん自分の体のどこかがおかしくなって、動けなくなったりしてしまうんじゃないかと考えたり、パッと何もかもができなくなってしまう日が来てしまうんじゃないだろうかと思ったり、大事な人が見えなくなってしまうんじゃないかと思ったり、それ以外のこともたくさん考えながら、でも全て現実に起こり得ることだから、その時はその時でどう受けいれようかと今から考えたり、とにかく無駄なことばかりを考えてしまう。ともかく事を真面目にとらえず適当に考えないと、もうこの先生きていくのがますますつらくなる。だから、もっともっと適当に、もっともっと自分を甘やかし、自分を褒めていかないと、本当にパッと潰れてしまう。もう耳も目も毒されていて、心だってずいぶん固くなっている。すこし前の自分だったらば毎日毎日泣いていたところを、いまはもう仕方がないと済ませて涙を流さなくなったけれど、こんな強さは別に必要ではない。異常を異常と思わずについに平然と歩いてしまっている自分はとうとう病気だ。いま精神に病をきたしているひとは、本当の意味で健康だと思っています。

養老孟司が、都会は人間の意識で作られた街だ、無意識がひとつもない。だから山に行けと言う。
歩きにくい所を裸足で歩くような作業がいま必要な気がしている。

久しくわかない感情だが、全てが寂しい。本当に寂しい。



2019年06月10日(月)

朝から雨。鰐に手を食べられる夢を見て気分が沈んだ。クロコダイルみたいな鰐に囲まれて怖かった。
夢占いを見ると、身に危険が迫っている云々と出る。そして今朝、ぼうっと歩いていたら車に轢かれそうになった。気分は晴れず、誰とも口を聞く気がせず、とてもおとなしく1日を過ごす。
職場のデスクに『いつまでも、鰐』という(大好きな)絵本を置いている。だから実は、まいにち鰐とは会っているのだった。

仕事が終わって、風呂場やトイレ周りの掃除用品をどっさり買って、雨の中手が引きちぎれそうになりながら家に帰る。
この前買ったピンク色のバラがこの部屋ではいやに映えていて、なんか見てしまう。一本だけ、花瓶に入れて、窓の近くに置いている。自分はピンク色とかけ離れていると思っていたけれど、なんだか最近ピンクが好きになってきた。可愛い。

正体不明のなにか、不安に似ているなにか、から逃れるためにせっせと掃除に勤しむ。
雨の音が今日のBGMだった。
雨の日は本屋さんに行きたくなる。それで、また本を買ってしまったので、おとなしく読んで眠る。

きょうは1日自分に失望して落ち込んでなにかを話すことがこわい日だった。そんなことを考え始めるとすべてがわからなくなりいよいよ人と話すことがこわくなる。だから考えすぎないのほうが良いのだ。それでも言わないほうが良いことのほうがきっとずいぶん多い。でもなにを言っても実はピンとこなくてピンとこないから言葉を使ってしまう。写真とか映像とかもっと違うなにかで伝えたいことを伝えられたらいいのにでもなにもかもピンとこないのでそうじゃないから仕方なく言葉をつかってしまう。でも全然伝えられない。目の奥が痛い。それでも前より涙が出なくなっちゃった。知らない間に流れている涙がいちばんしっくりきてその後でいろいろが浄化されるような気持ちになるのに。



2019年06月09日(日)

神戸からおじいちゃん、おばあちゃんが来ていた。新宿の紀伊国屋書店の前で待ち合わせ。
お笑い芸人を目指して上京してきた、20になったばかりの従兄弟の信彦(しんげん)も呼んでいたのだけれど、いつになってもこない。電話をすると、新宿で迷子になったという。結構長いこと待っていたら、やってきた。久しぶりに見たらたくましくなっていた。小さい頃は妹と私、信彦で囲碁とかオセロとか、おはじきをしてよく遊んでいたのだった。とっても優しくて、素直な子。それは、今あっても全然変わっていなかった。

4人で地下のステーキ屋に入り、食べる。その後、喫茶店でケーキとコーヒーを飲んだ。この喫茶店は、偶然にも父が亡くなる前にふたりで入った場所。突然新宿に出向いて、紀伊国屋で本を買って(確か彼は岡本太郎の本を買ってた)、一緒にコーヒーを飲んで煙草を吸ったりしながらふたりでずっと本を読んでいて「お前、これ面白いぞ」と、後でその本を貸してくれた。無性に父に会いたくなった。でももう会えない。
おばあちゃんはずいぶん早口で、おじいちゃんはせかせかと歩く人で、信彦は心優しい素直な子で、わたしはだらしがない長女で、それでも久しぶりに会えて、楽しかった。おばあちゃんは足腰を弱らせていたし、おじいちゃんは前より耳が遠くなっていた。こうして会えるのも、もう何度ともないんだろう。
明日はひいおばあちゃんに会うのだという。104歳になる。私は小さい頃、ひいおばあちゃんに習字を習っていた。ずいぶん怒られたけれど優しくて、ひいおばあちゃんが生きているということは未だに実感が持てない。もう全然会っていない。けれど、私のことは覚えてくれているのだという。なっちゃん、なっちゃんと言ってくれているそうだ。ひいおばあちゃんより先に死んだパパ。104歳と44歳。あなたは先に逝くべき人じゃ、なかったでしょう。こんなこと今言っても仕方がないことだけれども。

またね、と解散して早稲田松竹へ向かう。『ミツバチのささやき』、『エル・スール』を観る。
やっぱり、ヴィクトルエリセの映画は、とても好き。絵本を読んでいるような映画で、ドキドキして、綺麗で、未知の世界をみせてくれる。隣の井上さんはやっぱり眠っていた。眠るための映画であることも間違いではないけれど。

どこに向かっているのか、全然よくわからない会話。
会話のなかで、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、模索して、迷子になりながら、衝突して、ちょっと疲れながら、少し笑ってくれたことに安心しながら、ひとりで抱えていたものの重さを想像しながら、話は飛んで、沈黙して、繰り返して、そういうことをしながら、彼と出会えたことや、一緒に居られることを、本当にラッキーなことなのだ、と思った。ぱったりと人は消えてしまうから、そして消えてしまったら忘れてしまうから、今目の前にいる彼の言葉を聞き、私の言葉を話し、そういう時間を設けられて、よかった。相手のことを、もっともっと想像しなくては。想像しながら、優しくなりたい。

人に自分のことを忘れてほしい、とよく思う。わたしも忘れてしまうから。
けれど、覚えていてほしい、と強く思う人もいる。忘れたくない、と思う。
今日のことは忘れたくない。
人の前で泣かない、泣いたことのない人が、きっと多分、堪えながら話してくれたから。
心根が優しい人だ、とわたしは思う。ふたりで、というのがどういうことなのかわからないけれど、
ふたりがひとり以上に心強いことは確かで、そういうことをもっとこれから実感していけたら、嬉しい。



2019年06月08日(土)

非常に憂鬱な土曜日だった。
午後はアコーディオンを弾いて、初めて音楽が数学的であることに気がつく。
頭と指を使って、疲れたけど、音符という新しい言語に出会えて嬉しかった。
その後は気力をなくす。
サスペリアを無心でみる。美しかったけど怖かった。なぜか村上龍の小説を思い出していた。
神秘主義の話。あのタイトルはなんだったかしら。

それにしても、ドイツの暗いジメジメとした雰囲気には不思議な魅力を感じる。



2019年06月07日(金)

仕事を休んだ。
洗濯をし、ぼうっとしながら昼過ぎくらいに飯田橋へ繰り出し『日曜日の人々』という映画を観に行った。

「また次の日曜日も一緒に過ごせる?」

が、二度と言えなくなることもある。と気付く。



2019年06月06日(木)

自転車の鍵を再びなくす。二ヶ月前に取り壊してつけたばかりだというのに、2つとも綺麗さっぱり無くなってしまって。昔から自転車の運がなくて、サドルが盗まれていたり、タイヤを引き裂かれていたり、籠のなかにゴミを入れられていたり、そんなこんなだったのだけれど、今回のは運うんたらではなく自分が本当にだらしがないという一言に尽きる。木曜日は暑い日で、暑くて気力を失いかけた。

自転車ですれ違うアフロのお兄さんが、渋谷のライブハウスにいて、とても驚いた。
互いにまったくの他人だがそれでも毎朝すれ違っている。

母と渋谷でドスモノスのライブをみた。
友人に、首に入れているタトゥーを「生まれつきのもの」と言い、得意げに「この星は子供たちふたりを意味しているの」とおそらく適当に言ったであろう言葉が愉快だった。
わたしとちいはあなたの首の、星ふたつ。とても良いと思う。

私も、守るものがほしい。強く生きたい。守られているんじゃなくて、守りたい。



2019年06月05日(水)

朝。目覚める。昨日の夜てんとう虫と長いこと格闘していて、寝不足だった。なぜかこの部屋にはよくてんとう虫が来る。放っておいたのだが、飛ぶ時の音がうるさいのと、飛んでくるのが怖いということで、深夜ずっと起きててんとう虫を見張っていた。いよいよ捕まえてベランダに出そう、としたところで、のがす。ティッシュで押さえたと思っても、ギターに張り付いていたり、ひっくり返っていたりする。ようやく捕まえて、外に出して、それで眠ることができた。けど、寝不足。

自転車で通勤。いつも必ずすれ違うアフロのお兄さんが今日は黄色いTシャツを着ていた。以前まで子供を乗せていたけど、さいきん一人で自転車を漕いでいる。子供が小学生になったのだろうか、など考えながら通勤。

絵の上手いHさんがさいきん買ったという植物を見せてくれた。根っこの部分に毛がたくさん生えていて、茎がうねうねとミミズのようで、その先に小ぶりな葉が生えていた。
部屋に植物を置けるスペースがあるといいなあと思う。大きな窓がたくさんある家に住んで、そのそばに大きな植物を置いて、伸びていくのを見ていたい。きっと幸せな気持ちになるんだろう。

前髪を切ったのに、まだ前髪が長いとAさんに怒られる。確かに中途半端に切ってしまったから、もうすこしいけたのかもしれないが、なんせ髪を切ってくれた人が39度の高熱中だったのだから仕方がない。次にはもっとバッサリいこう。

あまりにも暑く、冷房をつけていても暑く、4台くらい扇風機を引っ張り出してとにかく風を吹かせていた。
でもそれぞれの扇風機から不規則にヴオオン ヴオオンと不穏な音がする。仕事に集中できずしびれを切らせたKさんが、静かにそれぞれの扇風機を強から弱にしていた。しかし、暑かった。

キャベツをものすごい勢いで食べたらお腹を壊した。この職場はほとんどの人がなぜか昼間に草を食べていて、シャキシャキ、という音が聞いていて気持ちが良いので自分も試している。その前はじゃがりこだった。

誰かに会いたいような気分で、何かを話したいような気分だった。けど、誰に連絡したら良いのかわからなくて、結局母に電話をかけた。明日会うけど。

今日も何もしていない。それで良い。



2019年06月04日(火)

朝。目覚める。気分がすぐれないまま自転車をこぐ。

早稲田のシャノアールで、漫画を描いている女の子と打ち合わせ。
ギラギラのシルバーのミニスカートに水色のキャリーバッグ、厚底のサンダルという姿で現れた女の子はすべてがぴったりで、しっくりで、素敵であった。煙草はハイライト。

助手の男の子(彼氏)が途中ひょっこり現れて、ふたりで締め切り間近だというので漫画を描いていた。
「とっても上手だよ」「あ、この絵すごくいいねえ」「わあ、かわいい」という会話が純粋でなにも汚れがなく、なんだかとても尊いものを見ているようだった。

わたしは昨日、日記に、何にも思い入れを持てない、と書いている。
そんなようなことをすべて吹き飛ばされて、彼女らの会話、共同作業、作品を見ていると、その愛情を分けてもらっているようで、とても、とても何かがほぐされていくようだった。
気分が優れていなかったにもかかわらず、結局かなり幸福な気持ち。幸せだった。本当にありがとう。

途中で井上くんがやってきた。遠い、と昨日書いていたけれど、普通に近くにいた。
近くにいないと思い込んでいただけで、近くにいると、近くにいる。
肝心の仕事についてはどうなるかわからず、憂鬱なのはこの点だったのである。

今日ふたりはお揃いのマニュキュアをつけていて(ピンクのギラギラしたやつ)、一緒に、本当にうれしそうにしていた。





2019年06月03日(月)

朝。なぜか早起き。うっすらと寒い。

自転車。通勤。昼過ぎに本気で眠くなって、うとうとしてしまった。本気で眠りたかったのに電話が鳴って眠れなかった。Hさんは珍しく部屋着のような格好で来て、顔も寝起きで寝癖も付いていて、昨日の疲れが全然取れていないようだった。

夕方過ぎに小さな食い違いが起きて、進行中のことを1から見直さなければならなくなった。
熱を持つひとにストップをかけようとしてもそううまくはいかず、見直しの提案をしようとしたところであちらから2倍3倍もの提案が来て、そこで私は完全に引いてしまった。
失望させてしまうかもしれないし、あるいは相当怒らせてしまうかもしれない。
以前なら食いかかっていたような気がするけれど、もうそういうことはしたくない。
なぜならものすごく、精神がすり減るし、労力がかかるから。それで良いものができれば良いけれど、自分の場合どんなに何かを頑張っても、それに思い入れを持つことができない。ただただ精神が削れるだけ。
冷静に、ときには受け流すくらいの心持ちでいたい。それでも明日が憂鬱だ。段取りを間違えるとひどく厄介だ。

ストレスはなるべく溜めたくないから、きょうも早く寝ましょ。
とてつもなく気が塞ぐ。あした、とある女の子に会うけれど、すべての段取りを間違えているからあしたは会う日ではなかったのだ、と先ほど気がつく。予想外なことが起こるのは承知のことだけれど、ある意味ひとりで仕事をしているようなものだから、いつも自己嫌悪だ。あまり好きではない仕事だからこそやれるのだ、と思いたい。

この世に新しい本なんて、もう出なくていいんだよ、と心底思っている。ごめんなさい。
ただでさえ紙がすくないのだから、本当に必要な書物だけが残ればいいのに。

自分のせいで無駄なものを増やすくらいなら、すぐにでも消えたいと思う。
物を書く人は、そのくらいの精神で書いてほしい。大抵の書物を信用していない。

そうだ。昨日怖い夢を見た。
寝ていたら、目が覚めて、突然ドアが開いた。うっすらした蛍光灯の白い光だけがぽっと四角く浮かび、開いた扉から誰が入ってくるでもなく、ただ開いて、しばらくするとバンっと突然閉まった。
それだけの夢を見て、深夜に目覚めて、思わず扉のほうに目をやったけれど何もない。たったそれだけの夢が恐ろしく不気味で、しばらくは寝付けなかった。何も見えなかった。
変な夢、ときどきこの部屋にいることが息苦しくなるし、そう考えるとすべてが息苦しい。
きっとどこにいてもそうなんだろう。
ずっと隣に人がいたら、同じ部屋に人がいたら、息詰まって気が狂いそうになるのかもしれない。
歩み寄りたいひとがいるけれど。
極度に自分の存在を希薄にしたい。そうしたらどれだけ楽だろう。
だから、薄紙みたいなHさんを、とても見てしまう。空気みたいな彼女を見てしまう。
(そう。今日は「青天の霹靂」という名のお菓子をもらった)
けれど彼女は以前、恋人と一緒に住んでいたことがあったそう。それも6年も。
それを聞いて意外だったのと、すこしショックだった。わたしは出来ない。どうして一緒にいられたんだろう。その相手をすこし羨ましく思ってしまったのもよくわからない。

Hさんとは旅もしたいし、一緒に料理も作ってみたい。
井上君は近くて遠くて近くて遠くて遠くて、それはきっと、適度な、適切な距離なのだと思いたい。
近い間合いになったことなど、一度もないような気がするけれど。



2019年06月02日(日)

朝6時ごろ目覚める。ひたすらに電車に乗って熊谷へ。
Hさんとふたりで仕事。途中飽きて歩き回っていたら迷子になって、けれど柘榴の木が唐突にあらわれて嬉しかった。特別なにもしていない。突然ブラザートムさんが現れて、現れた意味が最後までわからなかった。
ヒット曲が1つしかないからという理由で、同じ曲を永遠に歌い続けていた。

本当は打ち上げとやらに参加する予定だったけど、つかれていたし、行きたくなくて断った。
知らないひとたちとモツ鍋を食べるなど、とてもできない。一刻も早く帰ろう、とHさんに伝え、さっさと我々はバスに乗り込み、喫茶店で何も話さずコーヒーを飲んで、そして帰りの電車に乗り込んだ。
Hさんといると本当に気が楽で、それに呼吸がしやすい。彼女のほうがわたしよりよっぽど独りを好むから、その点でも一緒にいて気が楽だ。

無事に家について、あとは眠るだけ。
Hさん以外のひとに、今はあんまり会いたくない。



2019年06月01日(土)

朝。平日よりも早起き。曇り。目が覚めると小さな蜘蛛が隣にいた。
土曜日の休みはずいぶん久しぶりだ。

干していた洗濯を取り込む。
トーストを焼いてブルーベリーのジャムを塗る。ヨーグルトにキウイを入れて蜂蜜をかけて、久しぶりに朝ごはんを食べた。それからはやることがなくなって、なんとなくギターを引っ張り出してチューニングを合わせて、適当な曲を練習していたら結構時間が過ぎていた。こういう時間の過ぎ方は良いなと思う。

昼過ぎに美容室へ向かう。きょうは前髪だけ切りに。
いつも髪の毛を切ってくれているOさんの顔色が尋常じゃないくらい悪く、声も出ていない。
それでも、前髪は完璧(眉上でしかも揃っている)に仕上げてくれた。
「風邪ひいていますか?」と聞くと「さっき熱を測ったら39度ありました。死にそうです。」という。
早く帰ってください、と、客なのにもかかわらず語気を荒めてしまった。そうしてそんな状態で髪の毛を切らせてしまい、申し訳ない気持ちになる。Oさんはもともとヤク中のような容貌(ごめんなさい)なのに、さらに拍車がかかって全身が毒されています、という様子で、こんなに悪そうな顔の人を久しぶりに見た。
病院に行くと言っていたけれど、ちゃんと行けたのだろうか。どうかよくなってほしい。

そのまま歩いて渋谷に向かう。ジョナスメカスの『ウォールデン』を観に行った。
日記映画、というらしい。初めての体験で、正直よくわからなかった。
上映から5分後くらいに突然映画が途切れて、「申し訳ありません。誤った画角で放映していました。」とのこと。そして再び冒頭から流れる。最初のカットを、だから二回見た。
どんどんどんどん、知らない人たちの日常が流れ去って行く。早送りの早送り。死ぬ前の走馬灯を見ているのだろうか。被写体が近いのに、でもなんだか全然苦じゃなかったのはなぜだろう。むしろ眠くなって、前半は心地よくねむってしまった。映像というよりは、緩急ある音に眠気を誘われたような気がする。情緒的な音楽と映像が油断をしているときに流れてしまっては、眠るしかない。個人的には、ロバに乗っている場面が好きだった。子供がカメラを持って回している姿が愛おしい。ジョンレノンとオノヨーコが不意に写って、ふたりはベッドの上で横になりずっと手をつないでいた。若干、ここに麻原彰晃がいてもおかしくないような異様な気配を感じたのだけれど、それでもジョンがことあるごとにオノヨーコにキスをし、ハグをし、人前でも気にせず愛を交わしている姿は素敵だった。ふたりを見て、聖人、という言葉が頭に浮かぶ。

3時間弱あって、どっと疲れて、もうあとは何もしたくなくなった。
ホットコーヒーを飲みながら、時々目をつむって映像を再生させてみたりして、でも、大半を忘れていた。
その代わり、動いている周りの人々をじっと観察していた。場所が違うだけで、自分の周りでもコマがいつも動いている。それも、うんと早く。いつもより注意深く渋谷を観察してみようと試みたけれど、まずどこに目をやればいいのかわからなくて、目の前の、じぶんが歩く道を確保することに必死だった。前、後ろ、右、左ではあらゆる人たちが駆け抜けていって、やっぱり早かった。常に早送りされている町だなと思う。しまいには具合が悪くなってきて、まっすぐ家に帰った。

あしたは熊谷で仕事。
日曜日なのに朝6時起きで、起きれたら、それだけで自分に100点を与えたい。
起きれた、というだけで成功だから、あと成し遂げることといえば無事に家路につくことだけだ。
ねむりましょう。


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左岸 [MAIL]