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2020年12月31日(木)

最近読んでるのが「生まれてこないほうが良かったのか?」というタイトルの本で、なんか最近の誕生否定の哲学で有名なベネターという人の話から、インドとかブッダとかいって、今はニーチェにきている。読んでるとニーチェはすごいドコモショップとかホンダカーズとかセンチュリー21とか、なんか体育会系の人が多そうなそういう業界の人みたいだと思ってしまう。

あと、こんな昔からこういう議論があったのかと驚く。たとえば生きてることは全部苦なんだよ、とか、ちょっとでも苦があればそれは何も生まれてこなかったときのほうがマシなんだよ、とか。あとは世の中への執着を捨てて二度と輪廻転生しないように解脱するために修行しまくって涅槃にいたるんじゃとか。そういうのをずっと秘伝のたれみたいに継ぎ足したり逆に考えたりして哲学というのは続いてきたのかと思う。

バスに乗りながら途中まで考えて会社に近づくにつれて忘れていくようなかんじのやつを、昔の人は日がな一日中突き詰めて考えたり、書物に残したりしてきたのだ。ニーチェのところではなんか運命愛と永遠回帰というのがあって、運命愛と生成は相入れないみたいなことが書いてあって、なんかエヴァを思い出していた。というか、この本エヴァみたいっすね。

運命愛というのはある種宿命みたいなものであり、生成というのはそんなの関係ねぇという野放図がうりの概念であり、前者はぐるぐるして同じ場所、同じときがめぐりくることを肯定する概念であり、生成というのはそういうことをがんがん裏切って繁茂する、ぐるぐる同じことになることを否定する概念である。で、この両概念を推してたニーチェというのは矛盾してるのかというと、、、
というところまで読んでる気がする。もう最近本も読めないし、論理的にもの書く気力もない。

で、これがエヴァのなんとか(not)Redo.とか、かっこ付きでnotとかついてたアレに似てるなとおもったのだった。それにエヴァ自体がぐるぐるしてるイメージがついてて、ある意味輪廻っぽい。前回は世界が終わって、かなりがっつり終わったけどシンジ君がかなり後で「これは違うっぽい」と言って瓦解したけどあんまり元に戻らなかったっぽいところで終わった。

またシレッと序から始まって、どんどん脱線してQでもう全然違う話になってきて、最近になってシンエヴァンゲリオン劇場版の本予告が公開された。今月下旬、やっとエヴァが終わる。14歳のとき本放送があって、でもテレ東が見れない地域だったので、友達が誰かから借りた3倍のVHSに録画された全話を、その年の大晦日にみた。そして2年後か3年後に劇場版を見て全員無言の帰宅をした。あの時の衝撃は多分体に刻み込まれてると思う。画面の右下に終劇と出てから、すぐスクリーンの前に薄い白い幕がサーとかかっていって、電気がつき、余韻にひたるまもなく現実に引き戻された。あの衝撃と余韻へ浸れなかったあのときの17歳ぐらいの自分は今もどこか、体の中に残ってる気がする。それは今でこそSF的な道具立てや考証や考察のほうがメインになりつつあるエヴァがトガってたころの、ある種のパワハラみたいなものだった。

なんか前の劇場版でリツコが白衣のポケットで自爆スイッチ押したりしてたとこっぽい場所でいろんな人が一同に会しているような感じの場面があって、ゲンドウはゴーグルというかバイザーみたいなやつが撃たれて窪んでるシーンがあったりしてめちゃくちゃ興奮した。そういや旧劇ゲンドウは手にアダムをしこんだら全部ちゅるっと綾波の子宮に取り込まれてヘタレみたいになってすごい抽象的に食まれて死んだ記憶がある。あれは加持が固めたアダムを持ち帰ったのだが、新劇で持ち帰ってきたのはネブカドネザルの鍵だった。これをゲンドウが使用した場合、単純に旧劇は手のひらに有機体を仕込むのが、新劇だと体内に機械?を仕込むという話になってくる。で、このへんの機械を仕込んだ結果が本予告の眼鏡が割れてるあたりに現れてるのかなと思う。
で、ゲンドウの目的が前回と同じでユイに会うだとしたら、この機械でどうやってユイに会うのかということになってくる。機械になると行けるみたいな場所、逆に肉体があると殺がれてしまうようなゲートをくぐるとか、エウレカでもなんかノルブとサクヤが木の船でキスしたら体を持ってかれてエウレカとレントンはニルバーシュに乗ってたから大丈夫だったみたいな話があったが、そういうところの瀬戸際でリツコやシンジやミサトが会するんじゃないかと思う。つまり、させるかよ!ということである。
前回の圧倒的儀式感、有無を言わさぬ強制力のようなものや、儀式をずっと現実の言葉に置き換え続ける日向くんとかネルフの面々や空を見ながら諦めの表情を浮かべる戦自の人たちとか、ああいう儀式のもつ圧倒的パワーに対して受け身で依代になるだけだったシンジ君に対し、今回のエヴァはもうみんながとにかくなんとかしようという感じが、じつはあまり好きではない。
なんか、蹴散らしてほしいなと思ってしまう。というか、あの世の中にそんな都合良く赤い養生テープが残ってるかとか、あの世界のどこの製造ラインで作ってるのかとか、13号機の出てくる胎盤みたいなやつは誰がどうやって作ったのかとか、バグりネルフのマークは誰が描き直したのかとか、ヴンダーを建造する能力はどこにあったのかとか、なんでも戦艦の底でなんとかなると思うなよというか、もうガフの扉まで戦艦の底でなんとかなりそうになってきてる感じがあんまり好きじゃない。もうガフの扉に入ったら有無を言わさずエヴァは引き裂かれて中身は液状化して赤い実はじけたになってほしい。
現代は不確実な状況によって臨機応変に対応したものが勝つのだとしたら、それは結局コミュ力とバイタリティによって差別化される世界であり、ゼーレみたいにじっくり段取りを整えた人たちが最後に有無を言わさぬ儀式で世界を終わらせるようなパワーを得る世界ではなくなってしまっていることが納得いかない。で、ニーチェはそういうゼーレやゲンドウ的なものに否定的っぽいにおいがする。どちらかといえば、世の中をどうにかしようともがくアスカとかマリとかミサトにつくとおもう。自分はFUJIWARAであれば、原西のほうが好きで、フジモンがあまり好きではないのも同じ理由である。ギャグよりも当意即妙なガヤのほうが世間的に「強い」ことが納得いかない。

ともあれ、エヴァも終わる。楽しみがひとつなくなるのだ。40歳になってしまった。26年も経ったのだ。結婚しようかな、ともおもう。ひとりで生きていこうかなともおもう。





かまいたちと「生まれてこないほうが良かったのか」

2020年12月30日(水)

図書館で借りた「生まれてこないほうが良かったのか?」という本の最終章を読みながら「かまいたち」を感じていた。

ポイントカードやタイムマシンやトトロのネタが、「生まれてきた場合」と「生まれてこなかった場合」、「自分が存在しなかった場合」と「自分が存在する場合」の議論と似てるような気がしたのだ。そして読んでいくと、子供を産むことについての議論に突入する。現代のやたら自律を求める世界と子供は相性が悪い。しかも、子供というのはなんだかんだいっても基本的に物心がついて思春期ぐらいになるまで「誰が産んでくれいうてん」とか言わずに何も考えずに生きているし、親側も特に同意を得ずにいろいろやってあげたりやらせたりしている。このへんの折り合いというか、じゃあだったらどういう原理で子供を産んでいいという判断をしますか?という話になって、それを考えた人は「モチベーション制限」と「出産バランス」でやっていきましょうと言ったらしい。

モチベーション制限は子供を愛でる気概があるかどうか、出産バランスはもし産んだ子供がなんかなってたとして、そのなんかが自分自身でも許容できるかどうかみたいなことらしい。要は自分が産まれさせられて「ありえへん!」とかならない感じなら産んでよしということらしい。ここでまた「あやまってこられてきてたとしたら、ぜったいにみとめられてたとおもうか?」が頭によぎった。そして、だんだんと「かまいたちは存在と非存在の漫才、あるいは誕生と非誕生の漫才をやってるのかもしれない…」と思うようになった。

こう考えると、よくできた漫才というのはおそらくほぼすべてなんらかの哲学に当てはめれる気がする。当てはまるというか、かするというか、微妙に並走する瞬間がある。


思い出話(鈴木謙介〜ネット)

2020年12月28日(月)

朝はいつもめざましテレビ派なのだが今朝はたまたま6をつけていて、おはよう朝日だった。起き抜けに気力もわかず、ただ「あのエレクトーンとうさぎのやつまだやってるんや〜」と思ってると、新聞を並べてしゃべるコーナーにcharlieこと鈴木謙介さんが出てたので「えっ」となった。

去年、コロナで図書館が閉まる前に慌てて借りたのが鈴木謙介さんの『ウェブ社会の思想』『ウェブ社会のゆくえ』だった。これらの本に書いてあったのが情報空間の「多孔化」という概念で、これはドーム状の文脈が共有された空間に、オゾン層に穴が開くようなイメージで、他の文脈からさまざまな情報が飛び込んでくるよといった事だったかと思う。

ポケモンGOの情報によって、なんでもない道端に人が固まってるとか、一緒にごはん食べてるのにスマホでなんかやりとりしてるとか、向かいにいる人が向かいにいながらにして全然外部と情報をやりとりしてたり、全然共有してる文脈や社会規範が違ってるかもしれないみたいなことになるみたいなことだった気がする。

最近Youtuberになる妄想をしてて、そこでインターネットの詩について語りたいと思ってて、インターネットに入るときには、インターネットというドーム状の空間があって、そこに開いた穴から、それぞれが寄生獣の胞子みたいに降り注いだということを言いたいとおもってる。

降り注いだ座標は時代が下がるにつれ経済的にも技術的にもパーソナルになる。常時接続なんか大学とかだけで、あとは家でテレホーダイだったり。あるいはガラケーのインターネット機能からしか入ってこれなかった人や、ちょっと金があってサーバー借りる人とか。

わたしはジオシティーズで無料のホームページを作ってバナーやWebringで擬似的に向こう三軒両隣をつくって、そのジャンルのポータル的機能を果たす場所(詩の場合だと投稿サイトか、詩の同人サイト的なもの)のうち、もっとも自分に適合するクラスターに移動して所属して、だんだんライフステージが忙しなくなってきて、自然消滅していくみたいな流れがあったようにおもう。で、この頃に忙しかった人の出戻りする人がいる。それはある種の呪いというか、端的にいえば現実に戻る場所がなかったということがあるのかもしれない(わたしもそうなのだ)。

あるいは、色々あって「ここ」にまったく気づいていなかった人が最近気づいたりして、たまに文脈を辿ろうとしているのを見たりすると、最初からインターネットと折り合いをつけて節度をもって接してきた「大人」と、ライフステージの繁閑がもろに接続状況に影響する「若者」がいて、そのあとから来る人というのは「若者」じゃない場合は、なんで生きてるのか、とか、生きてる意味というか、表現手段を探している、何ものかになろうとあがいている人ということになる。ただなんとなく女性のほうが経済的に安定し、男性はみすぼらしい。黒田三郎さんの詩の書き方の本に「女性は耐えてきたものが噴出して心配になるが、男性は心得があるぶん生ぬるい詩になる」みたいなことを書いてて、それは新聞投稿を念頭においた発言だったのだが、今のネットの状況でいうと、有閑マダム的な女性と貧しい男の自己実現の場になっていて、心得はむしろ女性のほうがもつようになってきている気がする。かといって新聞投稿のころとは逆に、男性のほうが耐えてきたものを噴出して心配になるかといえば、そんなことはなく、もともと男は同性からも異性からも心配されないから何も起こらないのだった。まあそんな感じで、結局そういう立ち位置の違う男女が同じところでもんもんとしているのをみると基本的にはざまーみろというのか生老病死というのか、結局人生いいことなんてないんだなーみたいな、ただ安定しても特になんもならないんだなーとは思う。
そういや数年前花椿で連載されていた、はるな檸檬のダルちゃんという漫画でも、なんとなくこのへんの「噴出」をめぐる男女の対立のようなものがかかれてた気がする。

単純にネット上では、ある程度「切る」ことができるので、噴出したところで、新聞投稿のように直結するわけではない。逆に、インターネット上では、心得ることと、実名や仮名といったパラメーターの加減によって調節しなければならなくなる。そして、新聞のような、みんなが見るひとつの場所ではなく、ひとつの場所をみんなに見せる戦略が必要になってくる。

このクラスターの移動も「居心地」や「レベル」もあれば、たまたま最初に目についたのがそこだったとか、憧れの人がそこにいたとか、いろんな理由があってそこに居つくことになる。自分のホームページというのをもったところで、結局来てもらうにはどこかにうっすら所属したり、BBSに挨拶してリンクのページにお互いのバナーを貼ってみたいなことをする必要があった。

で、ポータル的な場をつくる人というのが当時わたしが「大人」だと思ってた人たちで、今思えば時間を持て余しているというか、昔とった杵柄で、何かしら業余を活かすような動きとか、インターネットというものに対する期待が入り混じったような、ある種の使命感があったように思う。わたしたちはお金もないし、テレホーダイでピーガーやって、無料でサーバーのスペースを数メガ借りてこちょこちょやってたころ、大人はロリポップ(しらんけど)とかさくらインターネット(しらんけど)のサーバーを借りてCGIでなんか色々ビジョンをもって自分の城を作っていたのだった。

あと、サイトの構造そのものにその人のセンスがもろに出るし、毎日通うようになると、だんだんフレームの中のフレームの目次を押して、というふうに勝手知ったる動きでお目当ての場所(一番更新頻度の高い場所)に行って、新しい書き込みを読んだりしてた。

(つづかない?)



M-1 2020感想メモ

2020年12月22日(火)

下に貼ったのはAC部のフリー素材の人だが、今年のM-1はこのフリー素材みたいな足をよく見た気がした。野田の終わりの足と、小田のツッコミの足がこんなふうに見えたときがあって、思い出したのだった。AC部のサイトは少し変わってたが基本は昔のままで、フリー素材としてこの人も残っててよかった。




東京ホテイソンを見てるとき思ったのは「ツッコミの恣意性」みたいなワードだった。敗者復活戦のカベポスターもクイズのような入り組んだようなネタだが、あれはボケの永見に浜田がつっこんでいるので、徳川にアルファベットを詰め込む法則性のなさに対してツッコミが入った時点で終わりになるのだが、東京ホテイソンの場合はショウゴもたけるも恣意的なボケを恣意的なまま繰り返してからツッコんでいるので、別に語尾に何が含まれていても「はぁ…」というか「アンミカが入っている言葉を並べたんだからアンミカが入ってるのは当然だろう…」と思ってしまうところがあって、どうも私は楽しめなかった。なんかアハ体験を求めてしまってるのに、自由なワードを並べて節をつけて言われても…となってしまうのだった。
そもそも東京ホテイソンのネタそのものが、すでにコウメみたいな「△だと思ってみていたら○でした」レベルの崩し方になっている気がする。
なので、オール巨人が言ってた「頭を使うネタ」という言い方はあまり当たらなくて、どちらかといえば「楽しみ方が分からなかった」が近いのかなあと思った。
新幹線とアルゼンチンを織り交ぜてもシアトリマリナーズにならないのはかなり序盤でわかる(少なくとも聞いてる途中で私はわかった)ので、その時点でそこはもう笑いのポイントから除外されるし、あとあとの語尾をとるパターンも動物の名前の羅列のスピードからいってもひとつひとつ保持する必要はないことを示唆してるから、まあ「完成したワードのほうに面白みがあるのだな」という期待は向けられるのだが、完成したワードのほうが「アンミカドラゴン」「消しゴムコスコスコスコスパーティ」であっても「そう並べたらからそうなるのだろうな…」というところで、私のなかでは感心にも笑いにもハマらなかった。ワンピースのドン!ぶわっみたいな感じなのかなとは思うのだが、わたしはドン!が好きじゃないというのはあるのかもしれない。

そういえば私は、昔からボケやツッコミが恣意的なのが好きではなかった気がする。コロコロコミックの、ドラえもんののび太の服の肩のところとか、ああいうかっちりしたところが好きだった。ジャンプとかとんねるずは苦手だった。カイジは絵柄で長い間読むことすらしなかった。

岸大介の太秦の空き時間78時間の78の根拠とか、見取り図のえみ(苗字)ねむ(名前)とか、なんかそういうのは、なぜそこで78なのか、なぜこの盛山のマネージャーがえみねむなのか(だから人生の歯車が狂っていてやることなすこと狂気的なのか?)とか、気になって、好きじゃなかった。
でも今はもう、そういうのはあんまり気にならなくなってきた。歳をとると、78に理由がなくても笑えるようになってきた。西澤が78時間と言い、津田が78時間!と言うだけで面白いこともあるのだと沁みるようになった。
というか、この「78時間!」と「アンミカ」は同じことである。
ただ、「78時間」にはすぐさま「長すぎやろ」と思える、脳から瞬時に取り出せるズレがあり、それをそのまま「78時間!」と繰り返す津田にも共感できるから、ほぼ「78時間!=長すぎやろ!」が共有できるのに、それが「アンミカ!」にはないように思う。同じ式にしたら「アンミカ!=語尾、アンミカになってるやろ!」であって、なんかそのへんが面白いという話ではないのなら、結局いったいどこがおもしろいのだろうとなってしまうのだった。

なんか「若い」という感じがする。要は、話の節々や端々に仕込まれたギミックにわざわざ連れまわされても苦にならないというのか。返り点でちゃんと返って読めるとか、古典の文章が読めるとか。あと、できるだけ大きな投網を投げるときの若者の忸怩たる思いみたいなものも感じるけど、気づけるかどうか(厳しいんじゃないか)みたいなことも思う。

もともと同業の労働組合主催の技能大会みたいなやつの漫才版で、たまたまこの業界にいる組合員の文脈がふつうの会社員よりもめちゃくちゃ「知れる」からみんな熱くなれるのであって、これがなんか旋盤とか左官の技術大会だとして、たまたま会場が開いててなんか見に行って、オズワルドみてわかるかと言われたらやっぱりわからないというか、あとそれは左官の人同士では全員褒めるかもしれないけど、たまたまみた観客はよくわからなかったらわからないのだし、わからないとおもしろくないのだし、という感じにおもしろくなかったのである。

長く生きる前はギミックにしがみついていた。ギミックには年齢があんまり要らないからだと思う。「あーはいはい、そこで曲がるわけですねーなるほどなるほど」と思ってればいいのだ。で、そういうのがしんどくなるし、そういうのがしんどい人間の層とともに結局押し上がって同じ年齢が経済力をもったあたりで自分たちの見渡せるものがメディアから何から揃ってきて「よくぞごぶしで」と思えるようになるみたいな部分もあるので、そのへんの「よくぞごぶしで」要員としてのオズワルドはあるかもしれない。マヂカルラブリーもじゃっかんその要素があった。

かまいたちの漫才も、あまり年齢が要らないところがいいところだと思う。かまいたちの漫才はちゃんとしたギミックがある気がする。たくさんの動詞や言い回しがある。昔は少年アシベとかクレヨンしんちゃんとかを読んでいた。くっきりした丸い線でかかれたものが好きだった。最近やっと、カイジとかドラゴン桜とか嘘喰いとかも漫画なのだと思えるようになった。それでもまだ食わず嫌いは多いし、愛がないなあと思う。嘘喰いは、絵のハマり方がロマサガ的な感じが好きだ。たまにパースを少し狂わせてでもスプライトのような枠にはめ込もうとしている恣意的な崩しがいかにもロマサガ的で、嗜好性というか嗜癖を刺激してくる。なんかたまに目が黒い眼窩の中に白い点みたいになってるところとかが、FFやロマサガの敵キャラっぽかったりして、そこに体のねじれや(コマへの)押し込まれ具合などと相待って、ゲームのドットキャラに感じていた不気味さの嗜好性をよびさます部分がある。



おいでやすはジャングルの王者たーちゃんのコマの左下とか右下から指を差しながら突っ込んでるやつみたいだった。というか、一瞬まったくそのままの構図になってた気もする。たーちゃんはジャンプだが、コロコロコミックのツッコミ、というイメージ。あとはツタタタ、と不規則に動く足も笑いを誘う。



オズワルドはいつもみるたび「強化系なのにダブル使ってる人…」とおもってみてしまう。そして水見式をしたほうがよいのでは…とおもってしまう。
なぜだろう。畠中さんが「逆にいうけど」と言い始めて、ぜんぜん逆じゃないので、伊藤さんが「…逆に?」と拾いにいってるが、それでもけっこう遠いなあと思ってしまう。なんかもうすこし直近の言葉尻から、ツッコむべきポイントを拾えないのかなとおもってしまう。去年の「猿が拾ったまつたけと…」とかでも「なんなんだよそれ!」ではなく「どっちがどっち?」みたいなツッコミになるのが、しんどく感じられる。そういうのをたくさん聞いてると「そう言いたいだけやん…」となってしまって、話が追えなくなってしまう。
で、そういうのをみんなが「面白い」というのを聞くと段々心が倦んできて、隣の人間国宝の二階をアトリエにしてるおじいさんの家で円広志がおじいさんこれすごいですねーと褒めてるような感じがしてきて「本当のこと言ってやれよ」と思春期みたいな心持ちになってきてしまう。なんかそういう感じでいつも笑えないのがオズワルドである。今回ちょっとだけ笑ったのは、畠中が手をパクパクさせて「やまかわ」の「ま」のセキュリティで雑魚ずし防げると豪語したあげく「入るじゃねーか」とツッコミが入ったところだけだった。
ということは、わたしはジェスチャーとか、画で補完できる場合にはちゃんと笑えるのかもしれない。



アキナ
なんか一瞬テンダラーがTHE MANZAIでちんちんと言うときに纏ってる防御創のようなものがみえた気がした。関西の人が関西の空気をまとったまま出てきたような感じがあり、うわあ…となった。せやねんファミリー臭を纏ってたのかもしれない。最初から「僕には帰れる場所がある。こんなに嬉しいことはない」みたいになってて、M-1の前後の文脈を無視したような雰囲気があった。
好きなん?のくだりとか、面白いのに、釣り針に返しがないうえに、食いついてないのにガンガン竿を引くので何も釣れてない状態だった。シチュエーションを組んでいくところがとにかく早すぎて「ちょっとすみません」の透明彼女の位置関係も「そこなん?」みたいな感じになってきて、神棚のくだりも伏線なのかもよくわからなかった。



その他
フレームワークで漫才か漫才でないか、突き抜けてるか突き抜けてないかみたいな分け方をして、巨人師匠は漫才か漫才でないかの部分に少し重めの門(ゲート)があったので、それが開くほどの突き抜け方がないと厳しかったのかなと思った。中川家礼二は突き抜け重視だったのでマヂカルラブリーになったのかなあ、とか。要は文脈依存というか、M-1の文脈を引きずるとマヂカルラブリーになり、しゃべくり漫才で考えると見取り図になり、R-1の文脈とか勝たせてやりたいなあとかになってくるとおいでやすこがになるような。でもマヂカルラブリーが漫才じゃないというより、漫才やってって最適化していったらああなったというふうな感じにもなりそうなので、あれでいいんじゃないかと思う。もともと野田さんは鬨の声と動きが得意なのだし、村上さんは声がいいのだから、そのまま最適化していくと結局はあれになるんじゃなかろうか。無理に向いてないしゃべくりする必要もないような気がする。
あと、オール巨人は去年の評価軸をそのまま今年も使ったような感じにもみえた。上沼さんは今年用に変えていた気がする。なんとなく。

今年感動したのは、最終審査ですべてのパネルがめくれたときのバランス感。めちゃくちゃグッときた。ほかの賞レースはけっこう「は?」となることが多かったので、やっぱM-1はいいなあと思ってしまった。

錦鯉は好きなのだが、パチンコがどうこうよりも、新しいかどうかで松本からはかなりキツめの評価だったのかなあと思った。あとはあいだに繋ぐやりとりがあると違うのかなとは思った。台になってから頭をしばく以外繋がりが途絶えるので。


漫才か漫才ではないか枠 巨人
新しいか新しくないか枠 松本
突き抜けてるか突き抜けてないか(芸術か)枠 立川
がんばってるかがんばってないか枠 上沼
人間みえるかみえないか枠 礼二
バランス・構成 塙
考えずに笑えるか笑えないか枠 富澤

スマホのメモに書いてたやつ。なんかこういう枠があって、これが笑いの量によってゲートが開いてさらに高得点が出たりする、のではないだろうか。

今日仕事しながら考えてたのは、昨年のかまいたちの「ちょっと泳がせてみます?」みたいな、ジャブというかフックというか、ちゃんと笑うタイミングではないがこちょこちょくすぐってじわじわ体にこもるような笑いみたいな成分が不足していた気はする。点、点、点、というか。今年でいえば、意外にも、もっともそういうものをもってたのが、あの決勝メンバーではマヂラブだけだった気もする。どストレートかつ天丼にも見えるが、意外とじわじわを埋め込んでるというか「やば」「やばいでしょ」とか「わかってきたわ」「なにがだよ」とか、地味にめちゃくちゃいい。思い返してみれば、意外と一番線になってたというか。

あと、漫才じゃないとかいう話に関しては、それ言っちゃうとニッポンの社長とかが優勝できる世界線がなくなるので自由でいいじゃないかと思う。金属バットみたいなしゃべくり漫才がペンだとすると、ニッポンの社長がシェイクみたいな感じでどっちでもいいのではと思う。


そういや、去年でかまいたち・和牛がいなくなり、今年マヂラブの因縁もなくなった。コンテンツとしての因果、物語を消尽した。今年で新M-1の第一部完の感がある。まあでも、これから漫才が映像(ラジオだと意味わからない)というYoutubeや時代に適合する進化ではなく、あくまで38マイクの前に立つ2人の特性に最適化された人を笑わせる芸の形態としての進化ということになるのだと思う。てことはまたしゃべくりとかコントとかいって揺り戻しが来ているわけではなく、5081組よりもっとたくさんのコンビの中でもっとも自分の特性を活かしあった人が上がってくる(その中で影響を受けた世代によって、大枠での流れ、揺り戻しはあるかも)というだけなのかもしれない。

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