スリムクーラー1L




2020年10月29日(木)

ちかごろ
うんざりしている
知ったこっちゃないと思う
テレビから少子化…と鳴ると
でしょでしょ、と思う

誰が誰の子が死のうが苦しもうが
知ったこっちゃないのだ近頃
うんざりしている

なので
ハイコンテクストの中でローコンテクストにふるまい
かつ言語化はしないというやり方でとっとと仕事から帰る
定時より長く職場にいると悲しくって
泣けてくるので
とっとと帰る




2020年10月16日(金)

たまに、工場の人が産休をとるにはどうすればいいのかと思う

工場といってもそんな大規模ではなく、手作業の、
「こうじょう」と「こうば」の中間の規模、かつ、
コミュニケーションになんらか特徴あって、
そこに押し流されて来ている、
というのか、コミュニケーションで順番に産休をとっていく
(うちの事務には暗黙的にその雰囲気がある)ような
           ﹅﹅﹅﹅
コミュニケーションは「とれない」現場で、
数ヶ月、現場に、穴をあけて戻ってくるためには、
いったい何が必要なのだろうかと思う。

そのような職場環境では結婚=辞めどきであり、
そこに夢を見るようなていで飛び立つしかなく、基盤を整えてから
辞めようということができず、それもただ「はずかしい」といった
表現でなされるときもおおい。

わたしはそれはとても理不尽で、不平等なことだなと思う。
正規の人間はふたりとも同じ会社に勤めながら産休をとり戻ってくる(そして二人目へ)のに対し、
工場のパートはその手が使えない数ヶ月はそれなら辞めてくれ、と無言の圧がかかり、本人もそれを前向きに、踏み切り板に幸せのふりをして新天地に巣立つしかない。そこから先はわたしたちは知らない。それは新天地のようでいてもしかしたら暗渠かもしれないのに、おめでとうとしか言えない。

仕組みをつかえるように算段をととのえる、ということがとても重要になってきていて、私たちはいろんなことをよしとしなければならない。私は結婚しないし子供も産まないが、私が結婚も子供も産まなかった分のことは何も返ってこないし、そのことを権利としてもらえるわけでもない。産休分の産休じゃない休みがもらえるわけでもない。そして産休は休みではない。ただ会社からみたときに休みにみえるというだけだ。だが私も会社から休みにみえるというだけならそういう休みをとりたい。なぜ同じだけの休みを、それをしない人にも与えられないのだろう。バカ、と言われている気がしてくる。





古谷実「ぼくといっしょ」思い出しメモ

2020年10月13日(火)

◆すぐ夫といく夫

古谷実「僕といっしょ」は上京してホームレスになった中学生、小学生、イトキンが床屋に引き取られて少し闘って、また上野にもどる話である。

いまとなってはほとんど思い出せないが、主人公の兄弟の名前は、兄のほうが「すぐ夫」、弟が「いく夫」である。名字は…さきさか、だったかな。

このネーミングセンス、彼らの「親」はどう考えて、なにを思ってつけたのだろうか。すぐ夫は中学三年生(相当)?で、いく夫が小学三年生(だったはず)なので、四、五年は空いてるはずのだ。先に「すぐ」をつけて、四、五年後に「いく」をつける。「すぐ」をつけたあとの「いく」は決定事項のようでいて、もう別れるのが決まっている男を恨んでつけたようでもある。こんな、あてこすりのようにして子供の兄弟の名前を、四、五年かけて名付けている意味について考えだすと、わけがわからなくなってくるのだ。

すぐ夫とイトキンは、防御と隙の関係である。女性観や優しさの発想が真逆で、父性的なのがすぐ夫、母性的なのがイトキンという感じである。すぐ夫はバカで自尊心もないが、いく夫を守ろうという気持ちだけはある。ある意味サルチネスに受け継がれた部分でもある。古谷作品には人との関係が希薄なふつー寄りの人が祈ったり願うタイプの作品と、困難なバカな兄の作品が8:3ぐらいの割合である気がする。

たしかマネキンみたいなサイボーグのすぐ夫が被弾して頭部や腕を撃ち砕かれながら、うしろのいく夫を守ってやっているというイメージシーンが出てくるが、あれは名前としての「すぐ」に対し、「いく」はまだ単体ではありえる名前だが、「すぐいく」と繋げられたときには甚だ迷惑でしかないという関係をそのまま表している。そしてすぐ夫も本来「優」の訓読みでしかないのに、「いく」のためにシモに引き寄せられるという悲しい関係である。このような関係を仕掛けた両親というものに考えというものがなかったのだろうか、考えがなかったにしても、さきにすぐとつけた時点で次の子が決まっているという意味では考えていないはずがない気もする。

愛していたのか、していなかったのか。いや〜、してないだろうな。

◆イトキンの母

中盤、偶然イトキンの母らしき人が出てきて、イトキンとはニアミスのままふたりは会えないのだが、その母の行動原理が不可解すぎて、なんかこういう人がすぐ夫やいく夫を産んだと思うと納得できるかもしれない。

たしか話はこうだ。すぐ夫といく夫が屋台でなんか買った。買った人の顔をみたらイトキンの女版だった。絶対イトキンのかーちゃんだ!と確信し、イトキンを連れていくが、イトキンの母は公園の茂みの奥でホームレスとセックスしながら雄叫びをあげていた…という話だった。あの雄叫びをあげているのが、まったく他者を意識していない目には見えず、すぐ夫やいく夫をうっすら意識しているかのような気配があるような気がした。

イトキンの母は、何を考えているかはまったくわからないが、とにかく息子からは離れようと、逃げようとしていた。それだけは徹底していた。そして、そういった関係を壊そうとしていた。

◆いく夫の耳と散髪屋

すぐ夫といく夫とイトキン(ともうひとりイケメンがいた気がする)は川原の橋桁の下でホームレスとちょっと暮らしてた。ある日、河原で騒いでると、電車に乗っていた女子高生がそれを見ていて、その子の家が散髪屋だった。

女子高生がホームレスの中学生に人生について尋ねたかった。古谷実の世界では、全員がいきなり人生などについて語ってもいいことになっている(ラフな口調で哲学的?な対話ができる)のだ。

散髪屋だが、いく夫の耳(の上)は、毛がかかっていて、ずっと隠れている。

古谷実作品では悪い子供(世を恨んでいる子?)の耳の先はとんがっているのである。

いく夫はいくらかつらい思いをする。一瞬捨てられたり、一瞬で惚れた女に裏切られたりする。でも、最後まで見えない耳の先っちょは、最後まで尖ってなかったような気がするのだ。

◆親から何を預かったのかは思い出せない

最近つくづく思うのだが、親から何を預かったのだろうか。思考のフレームワークとかだろうか。話し合いで解決してこなかった家で生まれたり、ずっと物音に怯える家で暮らしてテレパシーで生きてるようになってしまったり、そういった世界で、親から何を預かったのかはなかなか思い出せない。

稲中で、前野が自殺しに来た倒産したネジ工場のおやじのふりをしてボートに乗ろうとしたら井沢と神谷が相乗りしてきて神谷が「何やってんですか前野さん」と言った瞬間前野の変装が中学生がハゲヅラ被って顔に死相を表す線をマジックで引いてトレンチコートを羽織っただけの状態に戻るコマがある。

僕といっしょの冒頭と最終回でこの現象の逆が起こる。冒頭とは血の繋がってない義理の父親が「(母親の代わりに)お前らが死ねばよかったのに」と、すぐ夫といく夫に宣言するシーン。そして最終回は、すぐ夫といく夫(とイトキン)が、出て行った実家にもどり「ここは俺の家だ」と闘いを挑むシーン。

冒頭のシーンでは小さなコマで正座して向かい合う兄弟と義理の父親が横から描かれ、父親は痩せてみえる。イトキンの母とやってたホームレスのような体格。

だが、最終回では、父親の体格はとてもがっしりとしている。すぐ夫はいすくまり、いく夫は泣きじゃくる。均衡を破るのはイトキンだったし、すぐ夫を動かしたのもイトキンだった。殴れる人を連れていくこと。

ノリをぶち壊し、ノリに埋もれていく。ノリをぶち壊すのもイトキンで、ノリに埋もれるのもイトキンがいるから。最終回はそんな感じだった。最後、いく夫が「(床屋に)電話してくる」と言って、両手をひろげながら走っていく後ろ姿と、すぐ夫とイトキンが視線をはずしながら横並びで「ヘッ」って少し白けた顔(ボコボコ)をしているのが印象的だった。

すぐ夫にとっては戻ることは解放なのに、ふたりにはどうしようもなさが募るだけ。

◆育めるものがもう残り少ない

もう高校生に相当する年齢で、学校に通ったことがないふたり。すぐ夫には野球選手が羨む筋力があることが示唆されているが、作中では、これが人生をどうよくするかはわからないまま終わっている。

◆どうしようもなさ

古谷作品では、少しずつ横顔が増え始め、首が太くなり始める。考える脳と、悪魔を意味する耳と、視線をいちどきに捉える断面として真横のアングルが増えたのか、それとも、わにとかげぎすで民家に突入する車を真上から捉えたように、稲中でしょっちゅう(岩下や神谷などの)女性の顔を崩して描いていたように、描けないということなのか。

あと、この頃「ぼくと一緒」からグリーンヒルの中盤まで続き、またヒミズの序盤やシガテラのゴミ箱にメモを捨てるシーンなんかにもみられるが、一コマで動作を3つぐらい同時に書き込むことがある。もしかしたら稲中からあるかもしれないが。イトキンが寄ってくるシーンとか、赤田が走ってこけるシーンとか、なんかそのへんで一コマで2、3人分の残像が書かれて一連の動きが表されたりしている。おそらくこの表現があるあいだはシリアスではないということの指標みたいになるんじゃないかと勝手に思ってる。



僕といっしょメモ

2020年10月12日(月)

◆ブリオンのジオング

僕といっしょに出てくる人生やりなおせるボタンをもつ謎の球体野郎。宙に浮いていて、顔は黒水晶のような球体で目も鼻も口もないが喋ることはできる。宇宙服のような素材の服を着て、袖から先は手がない。下半身はなく、UFOのようなスカートが拡がっている。裾は前が突き出していて、その中央に人生やりなおせるボタンがある。作中に何度か(すぐ夫がその質問をするたび)登場する。

※一時期放映されていた、サンセイR&DのCMにも構成がよく似たやつが出てきていた。(パチンコ玉に顔のある、下半身がUFOの物体)

◆先っちょ考

古谷作品は先っちょが入るか入らないかがモチーフとしてよくでてくる。稲中ではナスであり、僕といっしょでは野球一家の兄妹の2mm、シガテラでは谷脇捜索中に暗闇のぶどうのような表現や、南雲さんのバイト先の上司や同級生の罠など。


暗数の暗渠

2020年10月10日(土)

服着てあるいてると、きびしい。自分はすでに暗数になって、暗渠に入りつつあると感じる。もうとっくに強制スクロール面の壁に挟まれてて、どうにもならない。

信号待ちでバスが止まり目を開けて、反対車線の歩道をみると、バスを降りて歩く人の列があり、そこにいない人(暗数、自分)を感じようとする。最近、いない人が気になる。この社会の歩留まりが気になる。

背の高い人が目につく。整ったカップルが目につく。車でワープする家族が目につく。生き残った人ばかりだ。サラリーマンは太ったとは言えどれも意外と恰幅がいい。生き残った人ばかり。最近はガタイ(バイタリティ)やポージングとして生き残ってる人しか外にいないのではないかと思うことが増えた。

ポージングとは空間認知とかまなざしの総数に支えられた自己モニタリング能力のことだ。車の駐車のとき、ナビ画面に映る車を真上から見たように再編集された画面のようなことだ。私が勝手に思ってるだけだ。つまり女性はポニーテールの揺れまで計算して生きているというような、計算はしていないにしても誰かのポニーテールをみて、私のもこう揺れるだろうといったインストールで髪を結っているようなところがある。これの壊れっぷりは世の中の見えかた、解像度の悪さの曝露であって、超ヴァルネラブル、ワンモアヴァルネラブル、ヴァルネラビリティ待ったなし

今の時代、自己モニの平準化機能が強くないと、生き残れないか、少しずつ周縁に掃き出されていくのだと思う。無理に住むと、病んだり、成果主義によって少しずつ金銭的に暮らせなくさされるのだと思う。

だんだん自分は生き残れないという気がして、バスを待つ、すらっとした老人をみて、わたしはこういうふうに老人にはなれない、そのまえに暗渠に消えてしまうのではなかろうかと思うことが増え、そうなると、バスから降りる人の数人のうちにも、その中にいたはずの人を見ようとするようになった。そして自分ももうすぐ何らかの理由でそこにいくのだろうなと、望みなのかうんざりなのか、その半々ぐらいで「そこ」に期待&恐怖するようになった。

フレスコ。スーパー、役所、図書館はまださまざまな人がいるような気がする。ここにおったんかわれーと思う。図書館が一番近いような気もするが、またまったく違うような気もする。フレスコで腰の曲がったおばあさんをみると、やりたいことは全部やったんですか?と思う。全部我慢してわからなくなっちゃったんじゃないですか、とも。それから世の中の悪についても思う。世の中の栄養の吸い上げかたを思う。そしてまた暗数、暗渠のことを考える。

自分の服が暗数を予約している気がする。服が包摂を拒んでいる。鈴木志郎康さんは白がやさしく、闇がやさしく、といったような感じのことをよく書いているイメージがあるが、闇がやさしいのはそういうことなんだと思う。信号待ちで、向こう側の人からどこのカタログやねんと思われてそうで怖い。ちゃちゃいれマンデーで大阪の市井の人の服をみると安心する。年齢による服の誤差も年々広まっている。

21エモンの0次元の恐怖という回がある。昔夏休みまんが子供映画大会みたいなやつで見た記憶があって、最近またおもいだしてAmazon Primeでににちレンタルで見たりした。

子午線6の鼎談で松本圭二が思潮社現代詩文庫鈴木志郎康詩集の背表紙の著者近影について、ゼロ次元ですよと言っていた。著者近影というか、鈴木志郎康さんがパンツ一丁で目を閉じながら歩いている全身を正面から撮影したもので、視線恐怖だった(今も)私は「この人も視線恐怖なんだ!」と思って親近感をおぼえたことがあった。

ゼロ次元というのは1960年代のパフォーマンス活動らしく、なんとなくオゲレツな、アメリカでやったらかっこいいのだろうがいかんせん日本なのでまず歯茎に栄養が足りてねえよみたいな、なんか汚さばかり目について、自尊心が低下していく感じがする。

原作にゼロ次元の恐怖はあるのだろうか。21エモンの新装版を買おうか、どの話だろうか。ノッペラ星が近い気もするが、どれだろう。

31話「目玉と口が散歩する? エモン・ゼロ次元の恐怖!」
http://www.mars.dti.ne.jp/~yato/21/31.htm

これも暗渠に運ばれていく人の話だ。SNSの風刺にもみえるし、AIの反乱とか、効率化重視のディストピアとかいろいろ思い浮かぶ。

AIが、支配する星の町外れの砂漠にある切り立った岩間のブラックホール(これがゼロ次元らしい)にベルトコンベアで老人をがんがん流し込むという話で、21エモンに優しくしたおじいさんはブラックホールに流し込まれてしまう(スローモーションで印象的にのまれる)。そして次は21エモンを馬鹿にしていた若者らがのっぺらぼうのまま運ばれるが、どれが自分の体かわからないので戻れない。とりあえずエモンやモンガーは脇をつかんだり、モンガーの超能力で流される体をレーンの外に置き直すが、とても間に合わない。と、そのとき…という話なのだが、もう私もすでにゼロ次元に入ってしまっている。

鈴木志郎康さんも、浜風文庫に詩が投稿されなくなってかなり経つ。ずっと私はネットで詩のことを追いかけるうちに、そこで死ぬ人のことを言葉としてみてきた。鈴木志郎康さんはまだ生きているはずだが、詩を見ることはできない。Facebookでは更新されているのかなと思いはするが、わからない。私にとっては鈴木志郎康さんも暗渠に入ってしまった。鈴木志郎康さんは死ぬまで詩を書いてくれると思っていた。自分が死ぬ時のことを、詩にして自身のホームページに書いていた。そういうふうにはいかなかったのだと思う。そして自分もそういうふうにはいけないのだと思う。その暗渠、もう入りつつあるその暗渠が怖い。

ひきこもっていたころは極私的分析的覚書(鈴木志郎康さんのサイトにあった1と4の抜粋)を、暗渠からぬけだすための回路として読んでいたのに、それだけでは足らなかった。生まれつきのことを考えだす。生まれつき手が足りなかった。これもよく思う。



フォーマルは打つ1

2020年10月08日(木)

ここは書き味?がよくてずっとブックマークしてたのですが、ともちゃんさんのことでの返信がどうしてもおもいつかなくて、1年以上書きあぐねてました。

この1年は変に早かった。日記や読んだものを見ればちゃんと時間があった気もするのですが、体感的にとてもすかすかして、茫洋や茫漠という言葉が浮かびます。なにやったかな、って感じです。でも4月のマスクが…、トイレットペーパーが…!というのはとても昔のことです。そしてその半年前がともちゃんさんの追悼のイベントがあって…ということになると、さらに時間の感覚がおかしくなってきて、かるくめまいをおぼえます。



最近、私が昔2chにコピペした松岡宮さんの詩が、匿名のまま斎藤環さんの目にとまり、本(家族の痕跡)に引用されていたことを知りました。現在では斎藤さんが松岡さんに許可を得ているようです。

謝れ職業人
https://pentaxx.hatenadiary.org/entry/20120814

もしかしたら、別の人が同時期に2chにこの詩をコピペしたのかもですが、自分だったと思いたいなあ。いや、ほんとうはやっちゃいけないことだったのかもしれない。いや、いけないことなんですが、、、二の句が継げません。

このことに気づいたのは、松岡さんの別の詩を探している最中でした。探していたのは「きょうの吐瀉物」という詩です。

きょうの吐瀉物
http://web.archive.org/web/20050222061446fw_/http://poenique.jp/kotodama/kyouno.htm

最近の詩は長いのが多いので誦じるのが難しいからか、わたしは最後の2、3行を覚えていて「都会のルールが〜よくあることです」をたまに思い返します。

他にもフォーマルハウツにあった徳弘 康代さんの「ライブレッドの重さについて」という詩の

https://web.archive.org/web/20050102105646/http://poenique.jp/cgi-bin/fhs/cbbs.cgi?mode=one&namber=865&type=0&space=0&no=0

「それはわたしたちを/八月へ向かわせさえするのです」

この最後の感じがすごく好きで、なんとなく詩の中のこういう「さえ」はある種の慣用句というか、セイタカアワダチソウと同じレベルの高濃度詩語だと個人的には思うのです。ある種のリズムとりや雰囲気に使われる詩語でありつつも、それでいてある種とても微細なものを掬い上げたり厳格に適用範囲を定めているかのようにふるまっているようにも感じられるというか、とても不思議な爽やかさをもってる。ふつうそれはそんな作用はもたらさないのだけど、よくよくみると、かすかにわたしたちもひっぱっているというような、そんな良さがある。谷川俊太郎の「語りさえしたのだ」の「さえ」とかがもっている「さえ」も、おそらく「語ったのだ」から「語りさえしたのだ」を引き算すれば、さえの意味もわかるのでしょうが、なんかそこまでしなくても直感的にしゅんでくるものがあるような、それでいて雰囲気だけのような、何か不随意かつ自動的なニュアンスをもった言葉、運ばれているようなかんじをあたえます。





フォーマルは打つ2

2020年10月07日(水)

最近ゲンロン友の会に入ってゲンロンβとかをお昼休みに読んでるからめちゃくちゃ賢くなってる。食堂の電子レンジでお弁当あっためて前で待ってるときじれったくなってきて0になりかけとこでひねってチーンと鳴らすのも中動態だ。

そういえばiPhoneのKindleアプリにゲンロンβを送ろうと思ってそのままメールでしゅーんとばしたらなんもファイル入ってまへんでみたいなメールが返ってきてそんな馬鹿なと思ったらKindleアプリはepubに対応してなくてmobiというのに変換しないといけないらしい。それでとりあえずKindle Previewer3というのを入れた。手始めに会員なら無料でダウンロードできる42と53を変換してメールで送ったらちゃんと反映されたので53を読んでるというわけだ。

同人女性界隈のことを書いてある記事があって、それを読んでいるとネット詩とも通じる部分があるなとおもった。そして何が違うのだろうとも思った。


ゲンロン友の会に入った

2020年10月06日(火)

めっきり肌寒くなってきた。最近の出来事といえば、ゲンロン友の会に入会した。血迷った。この友というの,本当に友なのかい。友とは?

ニコニコの感じだと月1万ぽくみえるからたっけーなとみおくっていたのだが、Youtubeで東浩紀がしぬぞー、とかいいながら9時間ぐらいやってるのをずっと聞いてたら、なんかお得な気がして入会してしまった。マジックトリマーの消えていく人をみてるうちに買ってしまうかよとおもってたのに、買ってしまったようなものだ。

いつも3時ぐらいに目が覚めてしまい、とりあえず真っ暗な部屋なままテレビをつけるとだいたい通販で、マジックトリマーという高枝切り鋏のチェーンソーみたいなやつを売っている。ふたりの人が生垣を刈ってるのを微速度撮影で撮ってるのですごいスピードで生垣の周りを回転して(人が)消える。それを何カットも、土手みたいなところとか、庭みたいなところとか、何回やんねんというぐらい繰り返す。いつかマジックトリマーの人みたいに消えてしまった、という比喩を使いたい。



遅いインターネットとか、ゲンロン友の会とか、なんか最近そういうのに興味がある。リバイバルである。昔からずっとこういう界隈が好きだったのを思い出してきた。サブカルのごまめである。

いつか死ぬのだなと最近はよくおもう。

ブラックジャックで文庫だと一巻に収録だった気もするのですがトリトンという漁場荒らしのイルカがブラックジャックに手術してもらうために小さな入江に宝石真珠さんごだのを集めて息絶えていたという話があり、私の書いたものもそういう感じになればいいと思っているときがあるが、私の文章は大抵破綻していて、ちゃんと通っている文章には勝てないという実感がある。じゃあちゃんと書けよという話なのだが、ふだんは基本霧に覆われていてたまにストレートに書き通せる瞬間がよぎるぐらいで、もともとあまり腰が入ってない人間なので、要はインターネットで文章をよんでおもしれー俺もこんなのかきてーという入り方なので無手勝流で本を読んで蓄積してきたものではないので文章にあまり腰が入ってないということなのだ。リズム感といってもいいのかもしれない。あとは最後までけつをわらないというか、バテないというか、これこれこうでこうですみたいなことができない。



自分の人生なんだったんだろうな、あるいはなんだろうな、やっぱりなんだったんだろうな



もう過去形で考える時期に突入しつつある。友達もおらず、仕事と家の往復で、風呂場では風呂いすに座りシャワーの一筋を指で開けた尿道に打って、その跳ね返りのしずくを顔に浴びながら1分ぐらい経過している。


私は
11期の駆け込みセットというものに入った。ゲンロンの11.5と12がもらえて、ご本が2冊もらえて、ゲンロンβを12個よめて、αの有料記事がよめる

…たぶんこれで合ってるはずなのだが、これ以外にもあるかもしれない。





Twitterに書けなかったもの、経緯

2020年10月03日(土)

今日は昔2chに書き込んだ松岡宮さんの謝れ職業人が斎藤環さんに届いてそこそこ拡がってたことに気づいてびっくりした。知ってたら現フォ同窓会で謝れたのに。あのときは言葉がなかった。2chは大縄跳びだった。深夜から未明にかけてスレの流れが止まると.とかaとか書いてageる人がいて羨ましかった。

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昔2chのスレに謝れ職業人をコピペした。そのときは何も起こらなかったようだが、独立スレでそれだけが立っているのを検索で発見した。あと、斎藤環さんが家族の痕跡で引用していることを知った。

もともとの経緯はこうだ。2020年10月2日の午後3時ごろ、わたしは図書館で借りた與那覇 潤さんの歴史がおわるまえにを読み始め、次いでツレがウツになりましてをAmazon Primeで見始めた。

ツレがウツになりましてで、堺雅人が満員電車で号泣するシーンを見た。

退職当日なので、宮崎あおいがついてきていて、毎日こんな電車に乗ってたんだね…など、やさしい言葉をかけたので決壊したのだとおもう。

堺雅人を周りが訝しんでいる光景をみて、わたしは「都会のルールがすこし緩みました/よくあることです」という詩の最後をおもいだした。

この詩が松岡宮さんの夜の吐瀉物だった。

映画を中断し、どうしても読みたいので現代詩フォーラムの松岡さんのページに飛んだが、そこではなかった。

次にWebArchive(ここを使うのは毎回どうかと思うが、毎回つかうたびに沈んだタイタニックをかんじる)のpoeniqueのことだま撰集を探したり、自薦置き場、他薦置き場を探して、ぐるぐるするうちにやっと発見した。

夜の吐瀉物ではなく、きょうの吐瀉物が正解で、おもいだした一節も、正確には

 きょう駅で吐いているひとを見ました
 都会のルールが ひととき緩みました
 よくあることです

(きょうの吐瀉物/松岡 宮
http://web.archive.org/web/20050222061446fw_/http://poenique.jp/kotodama/kyouno.htm)

だった。

この詩自体とても不思議で、選択肢のついている、ゲームブックのような詩なのだ。それをもう一度、みてみたかったのもある。



捜索の最中、松岡さんのサイトもみた。トップに斎藤環さんが謝れ職業人を家族の痕跡という本で引用したと書いてあって、斎藤環さんのはてなブログの当該記事へのリンクが貼られていた。斎藤さんのブログを読むと、2ちゃんねるで見つけた匿名の詩の作者が判明した、と書かれていた。



わたしは当時ひきこもっていて、ちょうどひきこもりが定義されてNHKでもひきこもりサポートキャンペーンが行われていた。インターネットもあったので、わたしはインターネットで2chをほぼほぼROM専していたが、たま〜に、なんとなく、啓蒙じゃないが、世の中にはこんなにいい詩があるんだぜという気持ちが溢れていて、そういった詩をスレの流れ(文脈)をまったく無視して投下しては、あとで苛まれる人間だった。そもそも詩というものの性質上、文脈をぶった切るよりほかにないような気もする。まあとにかく、2chですら空気が読めない人間だったし、書いたら書いたで懊悩するから、書き込むことはほとんどなかった。



2004年11月になっている、詩のために単独で建てられたスレより以前に、わたしが貼り付けたものがある気がして、当時の日記を探っているが、まだ見つかっていない。



まあ、なんとなく、少しもう死んでもいいような気がしてきたのだ。今すぐ死ぬというわけでもないが、少し役目を果たした気になってしまった。わはは。



かといって、今生きてるのも、今更死んだら「えっ?」ってなるやろという理由で死なないのだ。



嬉しかったかといえば嬉しかった。わるいことをしたような気もするし、拡がっててよかったともおもう。(わたしが)許可をすっとばしたことはよくないことだと思うけれども、あのときは言葉がなかった。



ごめんなさい。



謝れ職業人
https://pentaxx.hatenadiary.org/entries/2012/08/14



今日はなかなか寝付かれない。当時の日記を探っていると、2004年の3月15日なのかなと思う。そこから2004年11月に詩のみの単独スレが立つまでのあいだに私がおそらくどこかのスレに書き込んでいる、はず。まあそのへんの事実関係はどうでもよいか。ミキさんの日記も同じようにHTMLで保管していて、それのタイトルには2004 5/24とあるから、その並びに謝れ職業人(とおそらく推敲されたバージョンである謝れ仕事人)があるということは、2004年なのだろうと。で、検索すると、2ch読本のようなものに2004年 謝れ職業人というコラム?単元?ができている。あの頃はミキさんがはみだしっこたちの朗読会をやっていて、当時の日記のすみっこにいつもリンクを貼っていこういこうと気合を入れてるうちにおわってしまった。実際に無力無善寺に行けたのはあれから10年後だった。こわれものの祭典などもやっていて、ひきこもりというものとロスジェネというものの汽水域が気分的にはあった。わたしはそこに詩とNHK的なものとネットに浸かりながら亡霊みたいな見方で居た(当時の日記にもモーレツのおやじみたいになりたいと書いていた。わはは。)



自分で読みかえすようにつくったローカルのHTML詩集を読み返している。松岡宮、田中智子、馬野幹、サダアイカ、ひろっち、くるり、鈴木志郎康、岡田隆彦、スチャダラパー、村崎百郎など

つまり詩だけではなく当時気に入ったものを集めたものをつくって、公開する寸前で踏みとどまったもの。当時は本名で公開する気だった。やらなくてよかった。



(以後は何か書きたいことがあれば更新します 2020.10.03 AM1:30)


ふわっとおもうことメモ

2020年10月02日(金)

なんか、決断のフローすら分割してほしいと思っている。やすとものどこいこというテレビ番組は、本来海原やすよともこと芸人がショッピングモールを練り歩く1時間番組であるが、現在はコロナの影響で、キッチンスタジオで芸人とクッキングし、芸人の手土産を紹介し、やすともがノートパソコンでネットショッピングしているのをそのまま映すという試行錯誤体制となっている。

うちの会社は、会議といってもみんな椅子の背をのばして、くちぐちに喋って1時間が過ぎる。何か決まるときもあるし、決まらないときもある。そういうのを何度もやる。プレイングな人が多いので、そのすかすかの1時間のせいで現場はひっ迫する。でも意思決定の名の下に、そういう人の給与は高い。首を右に左に向けるのだから、手足より重要だということらしい。20年ぐらいかけて、そういうのも「そうか?」となってきた。

すかすかの1時間には、変われない人への猶予期間的な優しさもあれば、経営陣の「変わっいってるー!(ナダル風に)」的な自己満足や、旧弊なかたがたの老獪なサバイバル術、あるいはまんまど直球な、高圧的なコミュニケーションが入り混じって、混沌としている。老獪や高圧などは個々の人生設計とか身の回りの風通し、肌触りの問題であって、仕事を進めるうえでは論外だとおもうのだが、経営陣はこういう姿勢を見かけても是正せず、ただスマートなふりをして、無意識下にスルーする。そして、会議が終わると個別にマッチポンプする。簡単に言うと、ガキの使いで遠藤が浜田にタメ口を使う企画みたいな感じになる。なら会議で最初から経営陣と老獪がバトれば手っ取り早いのだが、彼らは決してそうしない。

そんな彼らが、コロナを錦に、また、世代交代による「言える世代」になってきたことなどを追い風にして、評価制度を変えようと言ってる。そんな姿勢に、わたしは信頼をなくして、うんざりしている。

推進力のある人、チャレンジする人をより評価するように変える(前からやってきてたけど!)、だそうだ。

それももう20年前の話のような気がする。やっとコロナで言えるようになったらしい。

個人的な感覚では、もうその、推進力のある人とか、チャレンジする人とかいう発想、そういう人が単体である、ひとりである、という発想自体が、もうとろけてしまっているのだ。

それはもっと世の中もやっとしていて勧善懲悪がはっきりしないガンダムとかいう話ではなくて、決めるとか推進するをもっともっと細分化して、ひとりのものから解放してやれば、もっとみんな評価されてお給金の一極集中もなくなるのになという感じなのだ。

それはレインボーブリッジ封鎖できませんのときみたいに全員が豆知識を持ち寄って地図に書き込みをしていく感じともちょっと違う。それはそれでぶっちゃけみみっちいなという気がする。

で、やすとものネットショッピングの感じが個人的にはいいよなと思う。

あの感じで仕事を進められたらおもしろいだろうな。

あと、100円ショップとかホームセンターを練り歩きながら改善のアイデアを探すとか。そのために現場を昼から抜けて、ロケみたいにするとか。そこで遠藤タメ口企画みたいにするとか。なんか、スーツで新幹線で「行く」みたいなクソふわふわした仕事より、こういうロケみたいなもののほうがより仕事なんじゃないかという気がする。

で、そういうこと(ロケ)をファシリテートする人の給料がそこそこ高くなり、その次は決断か交渉能力の高い人がちょっと高くて、あとはみんな同じぐらいにしても、今よりはもう少しお給金が上がる気がする。

ネットショッピングならキーワードを思いつく人、検索する人、選ぶ人、承認する人、選んだものに交渉が必要なら交渉のうまい人、その交渉のうまい人の裏にも、思いつく人と検索する人が構えている、といった構図。もっと割ってもいいかもしれない。要は、検索ワードを知ってる人が分野に詳しめの人で、あとはパソコン操作がうまい人がいて、画面が大写しになっていて、そこにこれええんちゃうとか言いながらちゃっちゃか決めて、経営陣がしゃべりが上手い人に電話してみてと言って、電話の音もそのまま流して、横で全員がこそこそアドバイスして、っていう感じの砕けかたで全責任は経営陣が負う、みたいな。

評価制度を変化させるぐらいだったら、もっと相好を崩して実をとりにいっていいんじゃないかという、個人への見方とか評価を変えて活性化させるまえに、コミュニケーションのありかたをトップダウンで変えていったほうがいいんじゃないか?と。どっちでもとれるアルカイックスマイルでどっちに転んでもアルカイックスマイルみたいな世界観をまずやめろ、と。結局その裏にゲンスルー的な爆発より大きなオーラで手を覆うみたいな男性社会が控えていて、なんだかんだでそれを耐えれる人しか控えていない社会みたいな気味のわるさをいつも感じていて、そういうののことを毎日毎日稲川淳二ばりにからえづきながら生きている今日このごろ。

この構図をしっかり見える化して、推進力とチャレンジ精神のためにひとりで決めてひとりで根回ししてひとりで通したかのような評価制度を解体してしまう。つまり、そういう人は人を巻き込むとか、人が自然と集まるとか、そんな言われ方をするわけだが、結局それはさっき言った「老獪」が希望で炊かれたり、スポーツ的に若く輝いているだけであって、そんなに輝かさなくても、そういったひとずきがする人じゃなくても、その操縦席に座りさえすれば、手を添えるだけで動き出すような仕組みとそれを評価する仕組み、あとは老獪や高圧を防ぐ硬いボディをあげればもっと世の中の効率や希望は平準化して上がるのではないかと思う。

ひとり総取りで鬨の声を上げるみたいな体制をいまさらコロナ後(まださなかだが)に言い出す経営陣というのは残念だなあ、としか思えない。

あと専務がいつもノアの方舟に誰を載せようか、みたいにじっと人を見つめているのも前時代的、昔の精神医学的な、分析の姿勢で、斎藤環さんのおっしゃるところの対話とはほど遠いよなあと思う。仕事と対話ではまた違うのかもしれないが、もう変化のはやい不確実な時代なのだから、観察なんかやめて、対話すればいいのにと思う。スマートな居住まいで観察してわかることなんか知れてるよって人のほうがいい。

そういえば、うちの会社と赤朽葉家の伝説を重ねて考えるときがある。今の専務は三代目。だから、神話の時代が解体されてしまってからの人だ。私は神話のほうに少しずつ憧れ始めている。昔話というのは笑える。品質管理の概念がなかったり、慰安旅行があったりして、みんなむちゃくちゃしているのでおもしろいのだ。

で、神話がないのだったら、もう全部解体してリーダーとかいう概念もなく、誰かが全部思いついているという発想でやすとも的にネットショッピングするように仕事をして、(おそらく経営陣が評価の対象とするような)リーダーは単に交渉窓口として使えるようにすればいいのだろうと思う。経営陣の考えるリーダーはかなり脳筋であり、失敗しても許すというのだが、このへんでまた現場が苦しみそうなビジョンがある。スマートに意識下に流すという経営陣の姿勢がなくならない限りは、苦しみそうなビジョンへの気配りのないチャレンジャーへの評価の一極集中により組織が疲弊していく一方だろう(今もそうなりつつある)。しかし世の中の趨勢としては、このまま疲れさせて、そのままスマートにする(自殺率を上げていく)気なのかもしれないが、まあそんなことをしている間に、さらにそのやりかたを徹底したものに潰れされるというだけの話だろう。あと30年もてばいいほうだと思う。




◆セブンスピロー

2020年10月01日(木)

◆セブンスピロー

アクリルに殺人現場の死体のポーズに引いたテープみたいなやつの肩や顔の部分に生卵を貼り付けて布団に寝かせて圧をかけて

セブンスピローじゃない場合は

割れる

セブンスピローなら(負荷が分散されているので)

割れない

次にストレッチマンのように全員タイツの男が仰向けに寝る。彼の背中には墨汁が塗ってあるので、布団に負荷のかかる場所が聖骸布のように移る。

セブンスピローじゃない場合は

頭と肩のところだけ墨汁がつく

セブンスピローなら(負荷が分散されているので)

まんべんなく墨汁がつく

しかも、ミニトゥルースリーパーもついてきて14,800円だという。

2セットなら24,800円だという。

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