スリムクーラー1L




2020年09月30日(水)

ヴァルネラブルな自己開示

人をあかずの金庫のようにみて
耳をそばだててかすかな音のちがいで開錠していく人間がいる
突破していく人間がいる
開けられた人は
人の解像度が低い
わたしは何も表出していないと思い込んでいる

ならどんな関係がいい
わたしが鍵番号を言うのが9割
開錠が1割ぐらいがいい
いやどちらともつかないのが1割ぐらいほしい

きづついたひとがいる
昔金庫を開けられた
解像度のひくい人だ
狭めの時期に入る
解像度を恥じて
解像度を助けてくれるひとがいるともしらず
狭めの時期に入る
かたくなに信じている
奇異にうつる
主観的にどう見えているのか

見えないが
ねじれた解像度が伝わっていないことだけがわかる



のどぼとけと猫感

2020年09月29日(火)

最近はMark Kozelekとニッポンの社長の辻に、なんか憧れてる。生得的なのどぼとけ感をもつ人に憧れる。ないならないでそれ以外を探さなきゃなのだが、でもなきゃってこともねーだろ、憧れてたっていーだろぉよ、ともおもうのだった。

生得的なのどぼとけ感というのは猫感と言い換えてもいいかもしれない。その人の理路が体を癒着しきっていて、天気のように許せてしまう。頭だけの回路で、打算的にはじいたものじゃないと信じてしまう。それはそれで失礼なのかもしれないが、でもそんなふうに思ってしまう。

辻さんは中学のときの友達に似ている。彼は朝が弱かったので、彼ベースで出かけるときの時間が決まっていたが、それでむかつくこともなかった。もう体とくっついていて、そういうものだという感じがすごかった。かといってDV男みたいな感じでもなく、でもちょっと社会とは馴染まないのだった。いつも年がら年中こたつがあったような気がしてしまう。彼のエンジンがかかるまでそこに足を突っ込んでぷいぷいをみたりスーファミかセガサターンかプレステか、あるいは漫画を読んで過ごした。たまに彼はまだ完全に起き切っていないが、なんかうまい棒的な駄菓子を渡してくれて、まだもにもにしていたりしていた。

最近また彼と会いたい。今まで別れた人と会いたいと思うようになった。

彼の家のマンションの別の部屋に空きが出ていた。彼はもう20年前ぐらいにそこから一家で出て行って、それ以来、たまに聞く話では家で病養し、最近(2、3年前)ちょっと新聞配達をしていると聞くぐらい。彼は新聞配達を高校で始め(私は同じ面接を受けて落とされた)、コンビニの夜勤をし、それからいつしか病み、そしてまた新聞配達。

少しの調剤なのだといつもおもう。浜ちゃんがお笑いやってるのも、辻さんが芸人やってるのも、ちょっとした調剤で、ちょっとした自我とか相対化によって、芽生えていない人とちがう道を歩くものなのだとおもってしまう。ある種の猫さや我慢の効かなさ、そのまま世間で働いてしまうさを持ちながら、なぜかそうならない醒めた目線も持ち得たり、リアリストのわりに空想に遊んでるボケと一緒にじゃれあえたり、批評したりのっかったりできる余裕も持ち合わせている。

最近そのへんの分かれ道のことを考えていると、やはり中学の友達のことばかり考えてしまうのだ。

あのころの核のようなものを一直線にぶつけたら破壊されてしまうし、くるんだら埋もれて忘れて現実をみてしまうのに、なぜか持ち続けながら共存できた人というのは、北海道や東北の厳しさをヨークサックにして粘り腰の夢追いをするのとは少し違うように考えていて、とくに京都という環境は、そのような粘り腰の土壌はよわいとおもっている。

そうではなくて、あのころの夢の毒のようなものを乗り越えた人、分割できた人、生業のふりをしながら生業のふりをせずに済んだようにみせられる人、書いてておもったのは、つまりソラニン的なものだな、ああいうものに潰されなかった人も、ただ、飛んだか、飛ばなかったかだけの差なのだろうか?

もうあのとき飛ばなかったからにはわからないのだが。

あのとき、ゲーセンの階段の踊り場にスタアオーディションという、筐体の目の前でギャグをしたりしたらセンスを見てくれて才能を印刷してくれるゲームがあった。

それをよくやった。

ふたりでいきった顔で写真をとり、コンビ名を決めて、たしか、写真にオーラをつけてくれたのだったかな、写真の周りに緑とか黄色のオーラがついて、星5だと才能があるとかいって、おそらく診断メーカーみたいなもので、結局何も判定なんかしちゃいないのだが、わかっていてもやめられなかった。それを送るとオーディションを受けたりできたのだが、送ったことはなかった。

最初から怖くて、そのようなことは考えられなかった。たまに友人は俺が落ちたらおまえも(高校)辞めて芸人なろうと言っていたが、私は高校に通い、友人は定時制に通った。たぶん誘っても、友人はもちまえの猫感で先に辞めていた気がする。つらいもの(精神的に負荷のかかるもの)が嫌いなのだ。

そう、ふんばりどころみたいなものがなかった。だから好きだった。

そのふんばりどころのなさのようなものを持ちながら生き残ってきた人というのを、すごく物珍しくみてしまう。やりたいようにやって成功してきた人、という意味ではないし、感性のままにやってきた人という意味でもない。



家系のことをしらない

2020年09月28日(月)

たまにインタビューとかで何代も代々どういう家で……とか言ってる人みると、いつ家族とそんな話するのかとおもう。昔からそういうことに興味がなく、祖母がよく話す○○(地名)のおっちゃん、○○(地名)のおばさん、おやえちゃん、おたみちゃんとかの急に前説もなく名前から始まる人のこととかがまったく意味がわからなかった。誰やねんとも思わず、物心ついたころからスルーしていた。たまにおやえちゃんてだれぇ?と盛山みたいに尋ねたことも、あるかもしれないが覚えてない。たぶん地名のおっちゃんもおばちゃんも、もう死んでるだろう。あのひとたちはいったい誰だったのだろう。あと祖母は今も生きてるのだろうか。もう97とかになる計算だがまったく聞かない。

そのおたみちゃんとかの系統も、サザエさんのおかるさんみたいなやつよりはもうちょっと眷属圏内のひとびとだとはおもうのだが、祖母の家には、いつも古い振り子の時計があって、振り子のある空間の内壁にクローバー状の持ち手のついた鍵が挿してあった。仏壇があった。仏壇に備える用のちっちゃいごはん盛るやつを2個いつも盛っていた。

そういうのをしながら、祖母は話してくれていた。わたしはそういうのを聞きながら電気のひもをねりちゃぎに憧れながら蹴っていてなにも聞いてなかったり、551をもらいにいくために子供アニメ大会を見に行ったりするために祖母の家に行って、アルマイトのかなだらいで551のドライアイスを水につけて煙を眺めたりとかしてまったく聞く要素がなかった。

祖母の話で覚えているのは(満洲から)引き揚げてきたこととか5代ぐらい前は福井のでぇく(大工)だったらしいことで、そこになんかすこし遊女のニュアンスを記憶しているのは、なぜだかおもいだせない。これもひきこもってたころ日記に書いているからで、祖母が話していたうちの0.0000001%ぐらいだと思う。

わたしはもともと脳のよわい人だった。ここ5年?10年からは特にそれを痛感する。脳がよわいというより相互で外部記憶することの意味とか重要性に無頓着だった。昔からそういうGPU的な、それを専用で処理する領域がなかった。だからそういうのを持ってる人をみると別腹でそういうのを処理する領域を持ってることに気づき劣等感をもった。

わたしは今、じぶんが地名のおっちゃんだとおもうのだが、たぶん周りの眷属には語られてないとおもう。もうそういう人は最初から語られない時代に突入してるとおもう。弟ももう、おれはひとりっこだと自分の子供に言い聞かせていて、妻にも兄は死んだと言ってるかまたは死んで欲しいとピロートークで言ってるとおもう。

家族とか眷属公式イベントにはもう20年近くでていない。最初はひきこもっていて祖母の怪力で引っ張られながらぶちぎれて部屋に逃げ帰っていた(親戚が来たときの祖母の引っ張り強さは異常だった)が、そのうち親戚が来るという時代がオワコン化して、なくなってきて、なんかいっぺんだけか、街中の華僑みたいな中華料理屋に一族が集合して食べたことが一度あり、そのとき親父もなんか見かけていちおう生きているということでよかったよかったと思ったが、眷属確認会食みたいなことはそれ以来、行われているのかも定かではない。

わたしはもう戦力外通告をとっくに受けたか、呼ぶとチェーンソーを持ってきてヴィーンとかしそうなので呼ばれないとか、なんかそういうのがあるような気がする。

あと眷属公式イベントでおもいだしたが、わたしは誰の結婚式にも行ったことがない。あとディズニーもUSJにも行ったことがない。やはりわたしは脳がよわかったのだとおもう。


孤独に死ぬことについて、孤独者開放の必須条件

2020年09月27日(日)

シロクマさんのはてなで独りで死ねる世の中にについて書いてあった。なぜ独りで死にたいのか、なぜ人と繋がらないのかと考えてみると、あいつらの礎になりたくないというワードが浮かんだ。あいつらというのはなんだろう。けっこう昔に分岐したはずだ。

あいつらは弁をもっていて、情動の交歓を行いながら、確実にこちらから情動を毟り取り、養分にして、すくすく育つ。

あいつらにやるぐらいなら、断交し、地産地消してやる。そういったサイレントテロ、セルフネグレクトの汽水域で生きている。

もともと独りが性に合っている人というのがいる。独りで生きることがしっくりとくる人(う〜ん、孤独を愛する、飄々とした人?)。そういう人はなんだかんだで昔に何かあたたかいものが地脈のように流れて続けていて、触れ合うと偏屈なりにも、なにかあたたかいものが通底するような気がする。だから、独りで生きる権利というのは、こういう人のためにあるように思う。

こういう人にはなりたくても、私はなれない。

私は、そうじゃないタイプの人(コンプレックスにまみれた、あいつらの礎になりたくない人)だ。あえなくこうなってしまった。嫌な思いをして、こうなってしまった。パチンコで釘に弾かれているうちに、こうなってしまった。私は、シロクマさんの書かれているとおり、スマートウォッチ的な、死んでるかわかる装置の取付が必須となる。染みにならないように撤去され、日本もいずれはシェイプオブウォーターの人が住んでいたような、古い味あるマンションにひとりで住み、たまには魚人を匿うような住環境になればよいと思う。糞新築など滅びればいい。



でも、と思う。手首にはめたスマートウォッチをすすす〜と首にまでスライドさせてほしい。DSSチョーカーだ。 いや、Taming Partyだ。

そう、ボトルネックはあくまで(うまいやつによる)情動の一方的な交歓なのだから、そのやりくちの汚さや一方通行さを制電によって制御してくれるのならば、独りになる必要がない人はかなり居るのではないだろうか。

誰もが、尼崎や北九州の事件のようなものを、個々の人間も(犯罪にならないていどに)小さく小さく小分けにして、バランスよく起こしている。そのなかで、情動のわるいものは溜まる一方、いいものは減る一方の人間を生み出している。

このような「暴力(斎藤環さんのコロナnoteにあった『暴力』)」による不平等からの退却が(私にとっての)独りという状況の原因だったように思う。これはプライドが高かった、といってもいいのかもしれないが、どうしても盗られるほうが多かった。そこに早生まれや11歳までまったく笑わず、ほとんど喋らなかった母(11歳で急に笑うようになった気持ち悪い母でもある)等によって、コミュニケーションによる情動の交歓、パワーゲーム、「暴力」の楽しさや悲しさを肯定する気力を失ったのだ。

だから私は、いくらでも関係においてけつを割ってやろうと思いながら生きている。仕事だろうがプライベートだろうが関係ない。自分が生き切れるのならなんぼでもけつを割ってやろうと思う。というか世の中をよくするには、さっき言ったDSSチョーカーによる情動交歓の平準化とけつを割っても誰も困らない世の中(信頼関係の破綻)が必須だと思う。逆にそれさえ叶えばかなりの孤独者は外に出られるだろう。

手首にはめるより首にはめたほうがよっぽど手っ取り早い、まだ気づかないのだろうか。



デジタルレーニン主義という言葉を知った。まあそんなきわきわまでいかへんから、と人間は能力の3割(1割?)しか使わない、人間の「脳は」?やっけ?わからへんけど、そう、支配のわてらそんなきわきわまでいかれへんわ〜えぇ〜?っていう無防備さでリベラルや左翼や知識人の癪にガンガン障っていこうという気分でもある。それが「暴力」にも向いていて、暴力には「お上」が対応し、暴力はしんなりし、知識人は管理支配に負け、どこにもいけなかった俺たちは端っこに触れることなく、アイアムアヒーローの2ちゃんねるみたいな気持ちでぷぎゃーして、

しあわせなのか?

となるとやはり相克する必要がでてくる。というか、乗り越えるというより、飲み込むというか呑み下す必要はある。あんなころもあったねっていう歩をすすめる必要はある。時間はこんなにいっぱいあるないんだから、いろんなものが抑え付けられているんだから、こんなに闊歩しやすく制御されだしたんだから、ちょっとぐらい雨がかかっても、いま庇から飛び出て、すこしでも早く駅に着いたほうが得なのかもしれない。






なぜけつをわるのか

2020年09月26日(土)

おまえらがとってくるからだ


キングオブコント2020雑感(0927に登録)

2020年09月25日(金)

キングオブコント2020

昔からコントというのは、ごっつええ感じのコントと、東京の個性のない人が2〜3人でがんばってやること(コント)の、二種類があるものだと思っていて、キングオブコントは後者のコンテストだと思っていた。

だから、毎年、優勝者をどこかのテレビかネットで知って、ふーん。それから、その人がちょいちょいとテレビに出はじめるのをみるぐらいだった。

うまくできていて面白い(ギミックおもろい)のと、突沸してしまう腹の底から空気が生まれて笑わされてしまう笑いは違うと思っていて、キングオブコントは前者のコンテストだと思っていた。

今年はじめて全編見た。三村さん

まあ三村さんは置いておきましょう。

まあ、いいじゃないですか

三村、きさまぁ!

まあ、いいじゃにです

いやしかし、パラビ入れたら月額1000円ってブチ切れですよ、2週間無料体験で歴代KOF全部みようとおもったけど、今はまだコンセントレーションと永い休暇がないからやめておきます。

だから、前者の笑いでいうと、空気階段とニッシャ以外はすべて前者の笑いだったのでほぼ笑わなかった。

私はここ1年でほとんど文字が読めてるのか読めてないのか、自分では判別がつかなくなった。その代わり、とても情動で笑えるようになった。つまり、ギミック笑いは構造笑いでは笑えなくなり、人間の味がするものや、突発的なものに反応しやすくなった。

だから空気階段はよかった。ほえほえした霊媒師の聞き取れなさそうで聞き取れる声の感じや言葉のチョイス(ご当地FM?なんかそういう意味合いの言葉)、そういうぎりぎりのところを信頼して投げてきてくれることが嬉しかったし、キャラそのものがおもしろかった。

ニッシャはブォーー!と真面目な歌の応酬で突沸してしまったが、最後のほうはちょっと神話みたいで不覚にもしんみり哀しくなってしまった。本編には多いに笑ったが、頭とお尻はなんかちょっとつらいなぁと古いなぁが同居していた。頭のつらい古いは、いじめとか差別に対する紋切り型かつ軽い触れ方であり、お尻のつらい古いは同情と寓話性であって、おもろーという感じではなかった。つまり風呂敷の端と端があまりよくなかったといえるかもしれない。その点では三村さんの点も納得かもしれない。いや、納得できないのだが。送迎がうまくいってなかったのかもしれない。真ん中、旅の途中は完璧におもしろかった。

あと今思ったのが、あれは嘘喰いのファラリスの雄牛の要素がたっぷり詰まっていた。ケツが郁斗で辻が中世の拷問器具である、と。


noteに投げるのをやめたもの

2020年09月22日(火)

enpituの書き心地が良すぎて最近はずっとそっちに書いている。ネットの土地勘で言えば、あそこは駅から徒歩30分ぐらいのベッドタウンかニュータウンの雰囲気がある。阪急か京阪で大阪行くときにみる、山際にいっぱいあるやつみたいな感じである。そこの人になる検索も、SUUMOでたまにする。

いらない(とてもきれいなリノベのマンションで、いいじゃん安いじゃんと思いながら周辺環境のタブを押すと、魚の焼き網か、初期のパソコンの回路かといったような団地特有の路面図が出てきて、マイナスをくっく、と押していくとやっと駅か高速の入り口のくるっとしたとこがみえてきて、そこでなんか疲れてきて、諦めてしまう。これは大阪ぐらいになるとよくあるパターン。)はたまた、京都の淀とか八幡とか向日市の感じだと、)いらな

築40年前後で、お風呂はなんか浴槽の横とか下に隙間があって、室内やなんか配管が若干剥き出しになってるけど内装はまあそこそこきれいな全和室の3LDK、900万円のペット可物件である。これをリノベーションして1200万ぐらいで売ったりして、きれいだけど遠いみたいな感じのやつを最近よくSUUMOで眺める。電車にさえ乗れば30分で着くようである。でも…

独り身で(中心から)離れててもよくて、ペットと暮らしたいならもってこいだが、車必須であり、安月給の工場従事者にはちとつらい。しかも元チー牛の現KKOのおっさんが独りでこのマンションの中庭にいたら嫌だろうな、とも思う。ネットには中庭がなくてほんとに良い。幽体で居るようなこの感覚、この感覚で妻とか嫁とかパートナーとか相方とか言って属性だけとってだしできる環境に甘んじている人って、今の日本に何人ぐらいいるのだろう。そういう人のことも妻を愛しているとかいいながら所詮トロフィーワイフの亜種じゃねーかと思うので、そういう人はツーショットの写真をTwitterのヘッダーに載せてから書かないと誠実とは言えない。

話が逸れた。私は中心部のちっちゃい工場で働くから、物理的に手で触らなければならないものが集約された中心部に向かわないと能力を発揮できない(しかも代替可能性が高い)。そんな仕事に従事しながら、妙に遠くに住んでしまうと、ある日突然Creepのギターみたいに給料をガゴッと下げられたり、雇い止めでつらいことになる。

私は爬虫類がずっと見てるとかわいく見えてくる感じで周囲と馴染んだ人なので、ここを辞めてしまうと次がないような気がしながら、いっそのこと手を放した時に発現する能力を夢見てもいる。だが現在はとても精神的に不安定で、左にハンドルを切れば右に滑り、右に切れば左に滑るという感じの躁鬱の波が(人には見えないかもしれないが)ある。この状態でなかなか飛ぼうとは思えない。せめて手を放すときはある程度の、勝算ではなくてもいいが、肯定的な気持ちぐらいはもってから飛びたいなとは思うのだ。

最近社長もコロナをかさに評価制度を厳しくすると言っているが、その前にやっておいてくれたら、意味わからん管理職にバチボコにブチ切れて降格させまくってたら、もう少し信頼できたのにな、とは思う。そもそもウイルスに乗っかってなんかする人間というのは信頼に値しないような気もする。だから全人類は昔から信頼に値しない。そうなのかもしれない。

私自身は現在中心部の狭くていつでも手放せる賃貸に住むしかなく、そんな中、ある程度年齢がいって、ある程度の広さにペットの飼えるところに住みたいと思うようになった。

賃貸に住みたくなったのはプリンセスメゾンを読んでそういう気力が湧いたからで、今はシェイプオブウォーターでああいうふうにああいう年齢で毎日オナれる古いマンションに住みたいなと思ったからだ。ああいう海外の長期優良住宅なのかなんなのか知らないが、魚人を飼うような極秘研究所の事務員でも住める良物件が海外にはあるが、日本にはくそない。


これはもう、くそ高い物件、明らかにオーバースペックな、3LDKで11万みたいな部屋探しをするしかなくなってしまい、そうなってくると、もうほぼ結婚しなさいと菅さんに幻聴でささやかれつづけているようなもんである。

まあenpituはそんなところ(私にとって)ではあるが、4000円ぐらい先に払うと半永住権がもらえる。ローンを先に完済できるのでとてもいい。そしていちいち競争させられたり有名な人と比べなくていいのでとてもいい。もうそういう感じで機能はしていない。というか、そういうのを機能させたい人はバナーを引っ張ってきて、ランキングを調達してきているから、私は気にせずやっている。ここは必ず巻き込まれる。そしてたぶんここはアルゴリズム的に浮沈するようにできているので、基本阿漕である。富めるものが雪だるま式に富むシステムである。健全なものがより健全になり、リトルフラワーの爆発以上のオーラで手を保護できる者がすべてをかっさらう出来レースのワナビーである。深夜にやってるバンド特集の親のことを考えるとたぶんワナビーの思い出作りの一環として深夜のバンド特集というのは行われており、親の年収が出るような深夜のバンド特集があればとてもおもしろいなと思う。いつでも帰れる人が夢を追ってると思うと、不思議と私たちにも、帰れる場所があるような気がしてくるのだ。


足場やろうの広告GIFを押せない

2020年09月21日(月)

足場やろうという漫画があるらしく、なんかスマホで記事を読んでると、広告スペースに顔に横線が入ったヘルメット被った人が「は?やれっつってんだろ」みたいな感じのやつがぱっぱっぱと切り替わって、たまに禿頭の人がそいつをキリッとした目で問い詰めているやつがあったりする。

けっこう気にはなってるのだが、押すと負けな気がして読めない。こういうのはここが山場なので、あとはこのGIFのあいだの「つなぎ」を読むような感じになるだけなのが経験上わかっているからだ。

昔、飛び込んでみようと思って、インスタにトイプードルをブランドものにガムテープでくくりつけて写真をアップしている女の漫画を買ったらそうでもなかったという経験があり、これは完全に溜飲下げの漫画であるから、この系の漫画は、このゲート(広告)から出会ってしまうともうふつうに読めないというデメリットがある。

この系の漫画はラーメン屋に廉価版の体裁(美味しんぼの海原雄山だけまとめた400ページぐらいのやつとか、あるかは知らんけど)で置いてあるときに読むときが一番楽しい。あとは外道のやつとか死役所とか弟が兄のふりをして手を払い除けてどうなるのっ?みたいな漫画とかは、すごいきっちりしてるけど、すごいきっちりしすぎてて、最終的には溜飲下げであって、なんかここのここが見たいとか、あの一連の流れが読みたいみたいな嗜癖に乏しいから、追従されて視界に入ってこられても、意地でも読みたくない気分にさせられてしまう。広告に出るということはある種の保証であって、その保証が保証しているのは(白米のように研いで研いで殆ど構成だけになった)一時的な溜飲下げの物語であり、それは逆にいうと、複雑さや嗜癖のなさである。で、その複雑さや嗜癖というのは何度噛んでも味がするということである。あのやりとりが読みたい、あの展開、あのバトル、あの絵が読みたい。そういったものをすべて捨てて生きているわけではないのに、広告に選定されるということは、そう認定されてしまっていることとほぼ同義に近いから、そういうことはしないで欲しいとは思う。私が決めるはずのことが、こういう出方をしている時点で決まってしまっている。

広告を押さないということは、それらを瞬時に、ぼんやりと読み取っているということな気がする。この先にはない。





後ろ気にして靴紐結べないララバイ

2020年09月20日(日)

なんか、いつも、自分用にとってる尺(時間)が(少)なくて、後ろからくる人のために(≒せいで)、手がびしょぬれだったり、靴紐を結べてなかったり、かかとが履けてなかったり、カウンターの台の上でカバンの手を持ち直せなかったり、お皿をタレのやつを上にしたり、側溝の雑草を見て生きとし生きるものを愛してるふうを装ったりしてきました。

あとは工場の角で屁をこいたらすぐに人がやってきて怒りが湧いてきたり、工場のエレベーターで小躍りしてたら急に止まって乗り込んできた人に怒りが湧いてきたり、工場で鼻くそほじった指をぴんぴん弾いて「なかなか飛ばないな…」と思ってたら急に角から人が現れて怒りが湧いてきたりしました。

私は今でもなにも悪くないと思っています。いくらでもけつは割ります。けつを割るために生まれてきたとすら考えています。

でも、あなたは



2020年09月15日(火)

http://sociology.jugem.jp/?eid=991

もともとTwitterで社会学のことを怒っていた人のブログを読んでいて、「浜ちゃんありがとう」に似ていると思った。

浜ちゃんありがとうとは、私がたまに思うことで、浜ちゃんみたいな人はお笑いに理解を示さず、アホかとか言ってふつうに世間で消費されてしまうはずだったのにお笑いの世界に足を踏み入れてくれてありがとう、の略である。

文化資本とか社会資本というと非常に悲しい話になるが、お笑いというのはけっこう特異点だと最近よく思う。ダイアンとかBUCK-TICKとかもそうだが、なんか本来なら別の職業としてそのへんでやっててもおかしくなさそうな人が、なんの因果かその世界に入り、そうなることについて。あとはそうなれない人との差について、たまに考える。北海道の人が漫画家になる(荒川弘)とか、なんかそういう。そういうのはなぜなんだろうと。

音楽(ロック)とか漫画とかお笑いとかゲームというのは世の中にばら撒かれてあれになろうやという契機になるが、それ以前にアホかっていいそうな人がそれになってるとすごい面白いなと思う。そういう人はわざわざ職として、それをやっていることになると思うからだ。それを思うと背筋がぞくぞくして泣きそうになる。漫才コンビだとどちらかが才能か憧れをもち、もうひとりはアホかと言いながらもう親を継ぐの確定だったのにお笑いに足を踏み入れて職業としてお笑いをやっている。この人の心の闇(仕事観)って、いったいどんな感じなのだろう。

美術、音楽(クラシック)、スポーツとかの素養とかしょっぱなの置いてあるものとか位置関係とかがけっこう起因するような、入り口のよくわからない微妙なやつはいかにもそれっていう入り口があるからもうそういうのが積むように土台ができていてそれはそれでいい。

自己規定のうだつというか、そういうのが上がる人と上がらない人がいて、お笑いは自己規定のうだつを文化的には上げずに職業として上げていく感じなのがすごい微妙で不思議だなと思う。そこに浜ちゃんが奇跡的にすべりこんでいるように思えてときどきなんともいえず感動してしまう。

そんなことを思った。





2020年09月09日(水)

ゲンロン0は家族の章へきた。
毎日忘れてるが、一応読んでいるらしい。
私自身誰とも縁が切れている。
誰も家族とおもっていない。
おそらくおもわれてもいない。
今は母がひとりで父の家に住み、父も弟も私も、書いた順に家から出ていった。
母に対する憐れみのようなものを三人とももっているからこそ
家は母に、となったのだろう。
たまたまなのだが、そうなるということはそうなのだろう。
動けない人に、と。
(かといって、母は誰とも住みそうにない)
それが居残る人として強み、あるいは執着のようにみえるが
母は家族の中でもっともそれがないように思えた。
少なくとも私はそう思っていた。
「一番考えが進んでいる」人だと、子供のころからぼんやりと思っていた。
今は嫌いだ。
昔好きだったのかといえば、それもよくわからない。
ランドセルは親戚のおさがりのぺしゃんこのものをずっと使っていた。
ひびわれて灰色に見えるランドセルで、3年の頃からは
スペアポケットのような、紙挿しのような薄いスペースから穴があいてきて、内部と繋がって、わたしは手を突っ込んで笑っていたが、果たしてあのとき楽しかったのか。
悲しかったのではないかとかいうと精神分析の悪しき遡及的親訴えモードやないか(からし蓮根風)になりそうなので、そこまではいかない。
単純あのときのわたしはそんなことおもわなかった。考えもしなかった。

Twitterでランリックのツイートをみて、スレッドにランドセルには
クッション機能もあると読み、結果的に愛がないように思った。

運動神経というか、空間認知能力というか、
モニタリング能力というか、想像力というか、計算力というか
愛というのはそういうものだと思う。
愛はなんか、運動神経とか空間認知能力のように思う。
だからぺしゃんこのランドセルくれる母に端的に愛がないというより、
そのぺしゃんこのランドセルではねられたときのシミュレーターのようなものが働かない母とか父とかいう人間のもとにわたしが生まれて、
そういうふうに生きてきた、という感じだ。
そこから愛があるとかないとか
今ここにこういう理念や気持ち(つまり理由)でお金をかけようとか、
こういう理念や気持ち(つまり理由)かけないでおこうとかいう「計算ができない」ことこそが
愛がないのだと思う。
それをみて、その理由のなさに空っぽを生成していく事が
現代社会においてどういう苦しみをもたらすかを想像できないことこそが
愛がないのだと思う。
それが伝わっていて、きちんと入っているか、確認をとったりしないことこそが
愛がないのだと思う。

だから逆に言えばどうでもいいのだ。
嫌われる勇気とかの気にしなくてもいいのです!いや気になるよ!みたいな感じと、
愛が運動神経とか空間認知能力とか計算力であるじゃあどうでもいいじゃんいや気になるよ!っていうのは同じ雰囲気のやつである。

偶然で誇れない親というのは裏返せないTシャツを心に抱え込んでいるようなもので、どれだけイメージしても、その手をどう動かせば袖が脱げるのかもわからないし、頭が抜けるのかもわからない。その苦しみは肯定しきれない。ということで、これを解消するにはまた偶然によって解消するしかない。
「人はひとりで生きれない」みたいなやつは、私ふうに言い換えると、人はひとりで心の中の私怨Tシャツを脱げないとか、そんなことになる。

ただ、今読んでいて(今p221で手をとめて書いている)、家族だと思えそうなのは昔の友人ばかりだ。おそらく病んでいるであろうその友人と、私が買った(これから買おうと思ってる)中古マンションで猫と一緒に暮らし、そこには特に昨日何食べた的関係もなく、あのころ(幼稚園から高校から二十歳過ぎまで同じだった)の感じで生きれたらいいかなと思いながら、本を開いたまま机に伏せ、考え込んでいた。あとは幼稚園と高校が同じだった人が今カウンセラーをしていることに気づき、その人とも話したいと思っている。私は孤独になったので、昔の地縁から手繰り寄せることになった。

地縁という偶然性、そこしか自分のちからではいけなかった(そのあとを構築できなかった)、というふうに捉えると貧しいな。およそ、現代人じゃねえな、機能を使いこなすとか、役目を果たすとか、律儀に責任を負ってみたり、そういうことは夢見たけど無理だった。誰も無理なんだけど少なくとも張ってみたり、取り繕うことはしている。現代人のエミュレートすらできなかった。すら、とか機能とか、責任とか役目とか、坂本慎太郎からすればそれこそ幻との付き合い方ということなのだろうか。

ミルクボーイのネタにある「叔父」や、山本直樹の「ありがとう」なんかも掠めた。

機能という意味では、共通言語がいくつあるかをスペックとみなした時代を使うという点でミルクボーイは昭和的で少し批判的な気持ちにもなる(賞味期限短い、悪しき共感覚を使いこなしている?)。かまいたちの漫才のいいところは、そういうところをあまり使わないところにある。地産地消というか。比較的長く使えそうなイメージがある。昭和は水たまり

M1は毎回裏テーマに倫理道徳をどうロンダリングして(かいくぐって)世にうって出るかみたいな側面があるような気がしてならない。2018年はゾンビネタの和牛と準決に女殴る金属バットのネタあたりが倫理道徳すれすれにロンダリング(回収)していた。

2016年のやまゆり園にしても、機能することに対し、いつの間にこんなにも厳しくなったのだろうかと思ってしまう。そして批判する人も2手で自分も批判されるような理論で動いているように思えてならない。
詰まない理論がほしくて、話す家族がほしくて、住む家がなくなってもなんとかなる人生がほしくて本を読んでいるのではなかろうか。

機能しないことに対する憐れみを失ってしまったというより、自粛に協力する(すぐ従う)ようなちからとか、自分は絶対そんなことにしない・ならないとか、Twitterの啖呵みたいな個人主義にいいねする2手で詰みそうなリベラルみたいな人たちとか、そういう内面化ばかりして、ああはならないでおこうと思いながら、生き方がよくわからない。

自粛に協力してすぐ従うちからというのは飲み屋で皿を積んで端っこに寄せてタレやドレッシングのやつを上にするとかそういう配慮にも通じる。あれをやるタイプの男女がくっついても死しか待ってない気がするし、誰もやらない世界にも死しか待ってない。美味しんぼの用語を借りればふうわりとそれを全員(ただし全員ではない)がやらないと意味がない。皿積みの人には会話への斥力が働いて会話の人に皿積みの斥力が働くようなストレングスと真逆が働いてなんら痛痒を感じない空気、ようは皿積みが会話にきたとき「おまえみたいな」という空気を発しないことや、会話が皿積みにいっても「ノリ悪」みたいにならない世の中にしていけるよう動いていきます、という気持ち。





pati

2020年09月08日(火)





CR牙狼シリーズなどにみられるパチンコ機の「暗転」と同一化の作用は、いったいどのようになっているのだろうか。物質としての銀玉とその動きを規定する釘、さらに液晶があり、その上に役物のレイヤーや透過液晶、メイン液晶以外の周縁の小型液晶やデジタル、盤面に仕込まれた照明の類など、パチンコ機のもつスクリーンや物理層の複雑さは、経験上、「逆に何ももたらなさい」気がするが、あれはあれでものすごく複雑な作用(強烈な序列?)をもたらしているように思う。

あとはあらかじめ結果が決まっているものに対して入力を行うという性質もあり、こちらも気になるし、盤面の外に牙狼の顔が完成するというのも、誇示という性質なのだろうか。そういう意味では着メロも誇示か。となると、偶然性による結果を殊更に示威できる機能を発展させた、という意味では奥地の派手な鳥のような進化を遂げている。

また半面、内規による規定との鬩ぎ合いが水面下では行われている。いかに規定をすべてクリアしたうえで出玉感をだすか。

正村ゲージがあり、規定されたランダムがあり、大筋の確率(1K何回転かでわかる回転率)があり、これの調整により糞釘良釘がある。いつになったら封入式になるのだろうか。

物理的に射出される「人生」のこもごもを自動打ち出しによるハンドル(老人にも回せるような)をひねることにより無意識に時間を過ごすことができる。画面に影響を与えられるのは、ヘソか電チューに入った玉か、センサーを通過した玉だけである。

これらが毎回決まった確率で抽選され、決まった結果にむけた演出を行う。



2020年09月06日(日)

今日はずっと家ですごした。いや、14時ごろ少しポストを覗きにいった。シュガーベイブのベストをTSUTAYA DISCUSで頼んでそろそろかなとおもって
あとマイブラのラブレスも
なんかこの2つはApple Musicになくて、ないやつは基本買ってたのだが
それはMark kozelekのアルバムだけで、ほかのは買おうと思わなかった。

天気はもちこたえて、ずっと曇りだった。台風10号が九州をかすめるらしい。

ウーバーイーツ(の注文するほう)にアカウントを作った。色とりどりの料理が真上からきれいに撮ってあって逆に頼めなかった。でもお腹は減るのでアボカドを切って1/4だけ食べた。残りはあしたの朝ごはんとわさび醤油で食べる予定。

最近やけにお腹が空くし、食道がしゃばしゃばしてくる。




STEAMで気になってたtownscaperというソフトがMacでも遊べるようになっていたのでやってみた。楽しい。

ゲンロン0は郵便的マルチチュード(関西弁ならまるっちゅーど?)という言葉がでてきて、ネットワークに関する用語、スケールフリーとスモールワールドがでてきて、べき乗則(べき乗分布?)というのをみていたらその漸近線に「人間っぽい希望」と思った。くちではないない!全然ないとか言っときながら心の中では思ってる可能性って、ちょうどこれくらいの感じよな、みたいな。

正規分布と指数分布より裾がもちあがってて、それがなんかつくづく人間らしさのように思えた。人間は死ぬまでにぜったいに運命の人に出会える的な吉本隆明がどこかで言ってたらしいような信念っぽいやつのことをおもった。えもくはならないが、そうやって思ってきたし、これからもそう思うだろうなと思う。プラネテスでこういう感じのおもいだけはゼロにできないとか言ってた気もする。

でも結果は残酷なほうに向かってるようにも思う。図は希望に見えるが、ネットワークとしての法則性(成長と優先的選択)は残酷(というか私が嫌いな?)な方向に向いていて、それが両方とも人間らしさであり、玄野の「おれってそういうところあるよなぁ」みたいな感じである。



2020年09月03日(木)

数年前から休みたがっている。あれは3月のライオンの何巻だか
島田さんが登山で人を籠絡する人と戦って、あの人はしょいこをいっぱいにするまで帰ってくんなと山形でそこそこジャージの野生児だったので、その登山の人の落石落盤とかも、ひょいひょいとかわして、山のくぼみみたいなところで一息ついているという将棋の盤面のイメージ(ミスター味っこで食べると爆発が起こったりするようなことです)があって、確か、しょいこをかたわらに置いてそこにひじをつきおーいお茶的なものを飲んでいるジャージ島田やれやれみたいな絵だったのだと思うが、それを見た瞬間ずっきゅーんと、ああ、おれもこんなふうに休みたい!と渇望し始めたのだった。

その渇望がもうかれこれ3年つづき、コロナの中でしばし擬似的に得られたのではあったが、かといって、ガチに休もうと思うとこれからおうちを買いたいのに、そんなことはとてもできないと思ってしまう。

山、というのは仕事というか人生というか、ずっと登り続けなきゃいけないもののことである。一定のクオリティを保ちながらしょいこを背負ってずっとずっと登らなきゃならない。一息つくことも許されない。ずるっと下がることも許されない。

いや、目的地について、車をしめて、一瞬そこで先に走り出す人を後ろにみてじんわりとよかったな、と思うというような満足は随所随所、要所要所にあって、
でも私にとってそれは結局しんどいのであった。

それは結局まわす、つまり水車のような、ハムスターの回し車のようなものが、勢いの頂点で止まりかけ、またその頂点にある重りのおかげでまた勢いよく、回り出すようなものであって、それはそもそも勢いの頂点で止まりかけたのも重りのせいだし、勢いよく回り出すのも重りのせいである。ただ、回る方向だけは少しだけ常に、逆に回らないようにだけ気をつけなければならない。もし逆に回ることがあれば、そうなるとあとはずっと、その反対側の頂点から少しずつ下がったところ、またその反対の頂点からさらに少し下がったところへと、反復を繰り返し、まもなく真ん中のそこで留まってしまう。

でも一回止めてみたいのである。



と思いながら働いている。さっきiPhoneのFirefoxのタブが80を超えていたので読んでは消してやっと60ぐらいになった。Twitterで風のハルキゲニアさんや斎藤環さんや熊代享さんがリツイートしてるやつを読むことが多い。精神科医の人は読書家でネットに昔からいてなんか政治性とかスタンスがなんか好きなのだ。それは昔からあまりかわらない。

さっき読んでたのはバレーボール界の暴力という、東洋経済オンラインの記事だった。元バレー選手の益子さんと大川さんとライターのかたの3人でZOOM的なもので話したものだと思うのだが、読んでいて途中から仕事のことや昭和のことや半生のこと、自尊心や自己効力感、ミスや自由、自主性、人生設計、目標設定、ライフプラン、指導、さまざまに飛び交った。

うちの会社は業務を引き継ぐとき、指導者が怖くて(そして粘着質で正解がどうとでもとれるような詰問ばかりしてきて)、誰も引き継げなくて頓挫したりとかして上司もそれに手を打たないのでだんだんうんざりした。

あしかけ5年ぐらいかけて、そういった昭和のバレーコーチみたいな人はじょじょに遠ざけられていった。おせえよ。というのがみなさんの本音だし、そういう人の自主性というのは往々にしてサバイブなのであって、基本生ききるための道があり、それを邪魔するものは排除する、芽を摘むという方向か、好好爺ふうの田舎のねちょっとした粘り腰で居続けるような感じがあり、生き方がもろにでて、往々にして仕事をねじる。

それはもう生まれた時期に掲げられたゴールの光だし、私も少しそれを抱えているからわからないでもない。でもどちらかというと私はその世代の中でも(精神的に)遅れているぶん、もう世の中をあまりサバイブだとは思ってはいないのだと思う。つまりサバイブ世代は朝礼スピーチや面談で光学迷彩を纏いだすが、後発はそうでもない。

これはサバイブ世代のミスが社会的な死を意味する時代の処世術で、それが命取りどころかおいしい時代になったのが私たちなので、

単なる思い込みかもしれないが、私たちはそういうことに対するしなないという思いが強い。そしてそういう思い自体が通貨を信じるようにして覆ってくれている。それは社会に大学生が繁茂して仲良くなりやすいのと似ている。私は破瓜型の専門卒なので地縁ではない人間関係の頃は狂っていてほとんど誰とも喋らなかったので、わたしはその、大学生の距離感のつめかたを見ていると、つらくなる。つまりがんばってしゃべっても気付いたら抜かれている。こめた努力よりぞんざいなトークでさらっと超えていく。そして、さっき私ががんばって喋っていたひとも、もっと砕けて大学生の彼とうちとけている。そうそう、これなのよ、といった感じで相好を崩し、破顔している。
>∩(・ω・)∩<
あれは大学生の通貨のようなものが覆ってくれているのだと私は思う。


ニュータブー

サバイブだと思うからサバイブになるというか。仕事をパワーゲームにしたり言質をとったり「言うた」とか「聞いてへん」とか、それこそミスらないように時間をくそほどかけるとか伝統工芸品ならそれでいいがExcelのひとこまにそんな神経をかけて家でExcelの1を消してるんだよ、お父さんはけっして1を消すことを間違わないんだよとか言うのだろうか。そういうところにまず矛盾を感じて新しいことを行って欲しいのだが、なぜかそのへんだけがサバイブする世代にとっては靄がかかるのかあーあーきこえなーいなのか、まあサバイブが換金されさえすれば手段は問わないのだから、それはそうと、最近自分が適応障害なのではないか?すくなくとも半年前はそうだったような気がしてならない。ここのところ適応障害のような気がする。



2020年09月02日(水)

こういうところで書こうとしたら、結局みんなでカイジのTボーンステーキ削ってピンゾロ投げ入れるようなことになるのである。つまり応援である。しかもその作品が超えられなかった、織り込めなかった社会的状況やメタな考え(この場合だと更新されていない男女観、牧歌的な家族観などだろうか)、そして織り込んでしまっている社会状況やベタな発想のほうをこそ愛しく思います!…と、のちのち自分が伏し易くなるよう、あえてたからかに宣言しているのである。作品の外部で相対化して乗り越えておくべき前提のようなものに取り囲まれたりどっぷりつかったりして書かれたものを、進水式を全力でここでは応援するし、私たちもやがて、ここから出ていくのだから(昔書いたものへのつけたしの思いつき)



2020年09月01日(火)

7年ぶりか8年ぶりか、ひさびさにテレビ画面がギトギトしているなと思う。というか、全然変わっていなかったんだなとも思う。安倍政権のあいだ、Twitterばかりみて、このギトギトをみてこなかったが、結局このギトギトはちゃんと存在していた。なにか動いている気がしていたが、なんにも動いちゃいなかった。そんなかんじ。私もギトギトの片鱗をみせはじめているから、ギトギトを伏しやすい場所にしておきたいから、そのように振る舞おうとおもっているが、表向きはひじょうにわかりのいいリベラルなふりをしてじっさいはギトギトが伏しやすい社会を作るように投票などは行なっていきたい。逆にものごとを変えたいといいながら一緒にギトギトをギトギトゆえに排除しようとしているような人びとを堰き止めたいという人生の裏目標・裏目的ができつつあり、これが老化かぁ…などともおもう。もうそろそろ飲み込まれそうだ。

知性は死なないをよみおえ、最近借りたのはゲンロン0、低反発枕草子、文月悠美のエッセイ2冊。最近読んでいるのかもわからないまま読んでいる。

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nemaru [MAIL]

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