2020年08月30日(日)
風呂で奇跡を聞いていて、いつからかこういうくるりを許すというと大上段だがそんな気になってジーンとする機会が増えたなとおもった。
なぜそんな大上段なのかというと そもそも私がくるりの詞をノンフィクションに聞きすぎたせいだったり、シンクロニシティが高まりまくっていたせいなのだが、ここ10年、私も歳をとり、もっと音楽って音韻やん?リズムやん?すてきやんの流れができ、 単純に細かすぎて伝わらない選手権の若すぎてわかりすぎる選手権に出場していたのが凡退して引退してしまったので必然的にわかってきたのであった。
つまり東京のはやくいそがなきゃのみものを買いに行くや染色工場のマッド感などや僕が旅に出る理由などをパーペキに文学的にとろうとするのではなく、もっと音韻上の要請とのせめぎあいの所産であるとわかりはじめてきた。つまりフィクションであるし、またノンフィクションでもあるのだが、その捉え方がお風呂で湯太郎がひっくり返るようにひっくり返って、ノンフィクションは私の中のリズムと音韻に結着し、フィクションは文学に結着したことで、私の中でくるりが国名を連呼してるのとかを許せるようになったのだった。
くるりの旅感、冒険感、渡り鳥感は音楽的好奇心とメンバーたちとでドラマを感じるが、最近のツドイを見ているとそれだけじゃないのかなと思うのだが、等身大にみえてきてまた好きになるのだった。それもあのころの等身大とは違う。あの「俺もはやくいそがなきゃと思いながら飲み物を買いに行くし、ジンジャーエールをこんな味だっけなと思うし、あんなに近づいたのに遠くなってくよ」と思ってたのに、その縦軸と横軸が水車のように回転して縦軸と横軸の間に挟まってたわだかまりがばっしゃーんとどうでもいいことのようになった。とはいえくるりの歌詞はずっと変奏されてずっと味方だとか言ってたり、ずっと言ってることがあり、それが本心なのかなんなのかはさっぱりわからないけれども、ああつづいているんだなあという感じは曲のふしぶしに感じ(あとグライダーの言い方の感じ(節回し?)とかも使い回すというと語弊だが、いろんなところで使ってて、それの意味について考えたりする。音として歌い方としての気持ちよさ、嗜好性と、それが、それの断片が、聞いてる人たちのクロニクルというかピッケルというかまたやったはるわーというか、そういう感興をよぶ?)、だがそれがもうなんの要請であるかは特に問わずに受け入れられる姿勢になるまで生きた自分について考える。
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ここ10年、いや私の00年代、いや05、03〜012ぐらいまでか? まあ00年代か。それはシガテラとハイウェイだった気がする。両方生きさせてくれた。
ハイウェイは甘いキスがあとからついてくるというし、シガテラはおまえは毒をふりまいてるというし、そのどちらもが実感を伴ってシンクロしてほんとそうだなあと思いながらあの10年生きていた。
わたしなりの谷脇がいて、わたしなりの南雲さんがいて、あとからついてくるやさしさとか甘いキスとかを信じながら、たまにわたしなりの高井にセックスなんかしちゃったよと夜の鴨川に無言報告していたのかもしれない。
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2020年。またからっぽになってもどってきた。いやもどってきたっていう感覚はなんなんだろう。端的に言えばそれはインターネットに書く時間がもどってきたってことなんだろうが、逆に言えばすべてをうしなったともいえ、また何かを掴むには…
そう、今までのものをよりあげるような人生を
送らなきゃではないか?と思いつつ、また私はヒドラのような精神的な手でだれも手放してしまった。かといってまた支配と繋がれるのだろうか。今度はそのゲートをくぐらずに会いたい何もかもとぐずつく日を過ごしている。
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