スリムクーラー1L



ハイウェイとシガテラで10年生きれたのか

2020年08月30日(日)

風呂で奇跡を聞いていて、いつからかこういうくるりを許すというと大上段だがそんな気になってジーンとする機会が増えたなとおもった。

なぜそんな大上段なのかというと
そもそも私がくるりの詞をノンフィクションに聞きすぎたせいだったり、シンクロニシティが高まりまくっていたせいなのだが、ここ10年、私も歳をとり、もっと音楽って音韻やん?リズムやん?すてきやんの流れができ、
単純に細かすぎて伝わらない選手権の若すぎてわかりすぎる選手権に出場していたのが凡退して引退してしまったので必然的にわかってきたのであった。

つまり東京のはやくいそがなきゃのみものを買いに行くや染色工場のマッド感などや僕が旅に出る理由などをパーペキに文学的にとろうとするのではなく、もっと音韻上の要請とのせめぎあいの所産であるとわかりはじめてきた。つまりフィクションであるし、またノンフィクションでもあるのだが、その捉え方がお風呂で湯太郎がひっくり返るようにひっくり返って、ノンフィクションは私の中のリズムと音韻に結着し、フィクションは文学に結着したことで、私の中でくるりが国名を連呼してるのとかを許せるようになったのだった。

くるりの旅感、冒険感、渡り鳥感は音楽的好奇心とメンバーたちとでドラマを感じるが、最近のツドイを見ているとそれだけじゃないのかなと思うのだが、等身大にみえてきてまた好きになるのだった。それもあのころの等身大とは違う。あの「俺もはやくいそがなきゃと思いながら飲み物を買いに行くし、ジンジャーエールをこんな味だっけなと思うし、あんなに近づいたのに遠くなってくよ」と思ってたのに、その縦軸と横軸が水車のように回転して縦軸と横軸の間に挟まってたわだかまりがばっしゃーんとどうでもいいことのようになった。とはいえくるりの歌詞はずっと変奏されてずっと味方だとか言ってたり、ずっと言ってることがあり、それが本心なのかなんなのかはさっぱりわからないけれども、ああつづいているんだなあという感じは曲のふしぶしに感じ(あとグライダーの言い方の感じ(節回し?)とかも使い回すというと語弊だが、いろんなところで使ってて、それの意味について考えたりする。音として歌い方としての気持ちよさ、嗜好性と、それが、それの断片が、聞いてる人たちのクロニクルというかピッケルというかまたやったはるわーというか、そういう感興をよぶ?)、だがそれがもうなんの要請であるかは特に問わずに受け入れられる姿勢になるまで生きた自分について考える。



ここ10年、いや私の00年代、いや05、03〜012ぐらいまでか? まあ00年代か。それはシガテラとハイウェイだった気がする。両方生きさせてくれた。

ハイウェイは甘いキスがあとからついてくるというし、シガテラはおまえは毒をふりまいてるというし、そのどちらもが実感を伴ってシンクロしてほんとそうだなあと思いながらあの10年生きていた。

わたしなりの谷脇がいて、わたしなりの南雲さんがいて、あとからついてくるやさしさとか甘いキスとかを信じながら、たまにわたしなりの高井にセックスなんかしちゃったよと夜の鴨川に無言報告していたのかもしれない。



2020年。またからっぽになってもどってきた。いやもどってきたっていう感覚はなんなんだろう。端的に言えばそれはインターネットに書く時間がもどってきたってことなんだろうが、逆に言えばすべてをうしなったともいえ、また何かを掴むには…

そう、今までのものをよりあげるような人生を

送らなきゃではないか?と思いつつ、また私はヒドラのような精神的な手でだれも手放してしまった。かといってまた支配と繋がれるのだろうか。今度はそのゲートをくぐらずに会いたい何もかもとぐずつく日を過ごしている。




たまってたものガーっと

2020年08月29日(土)

トイレで知性は死なないのなかほどにある海外版の平成年表をみててなぜか教会のことを思い出した。小学校の3年か4年の頃、1年か2年ほど毎週日曜礼拝に行ったりキャンプに行ったりしてた。

礼拝堂は天井が高く壁が白く木が黒く冷たく、それと似た小児科が教会と同じ通りの1km東にあった。そこは白い板張り(下見板張り?)の医院で、ポーチがあり、支える柱の木の先が腐って尖っていて沓石に刺さってない(ちょっと浮いてる?)ような感じで、狭い裏庭のスペースには芙蓉がいっぱい咲いていた気がしている。
そこの診察室も礼拝堂のようだった。書き割りというか小津というか、左右対象というか、礼拝堂で自分が右に座り、左に福田さん、先生がいて、いつも小さく丸く固めた脱脂綿をピンセットでつまんで(銀色のウツボカズラのような薬を貯めたふたつきの容器が、フレームだけの場所に少し傾けて掛けてあって、いくつも並んでいた?)、いつも甘い黄色いやつを湿したのをのどの奥にピンセットでちょんちょん、としてくれて、その甘いのは好きなのだけど、受付でもらう小さいプラスチックの小瓶ににが甘い舌触りもあまりよくない薬は好きでなかった。(場所は)今はローソンとマンションのある、バス停のあるあたりだったかと思う。

受付で吐いた気もするし、下痢もした気がする。下痢がかつおだしのにおいがする記憶も、この小児科の記憶と紐づく。

あの通りに、そういう古い建築の、天井の高い吹き抜けた白い、黒い木張りの、ひんやりした足の、すっすっすと靴下で滑りながら歩ける空間があった。あの荘厳さを覚えていられないけど、あったなと思う。

子供の頃はすっすっすと滑れるところは滑っていたし、今も滑るときは滑っている気がする。昔から落ち着きがなかった。生まれてすぐ首を切り、もうすこしすると転落して頭を打ち、悟空の初期じゃないが大怪我をやたらして、急に人見知りして、思春期でバグって、ファミコンがプーっと鳴ったまま画面が動かない。

今思えばそういった家(白い鎧戸のような、ルーバーのような、ガンダムの通風孔のような家)、まだ疎水ゾイに一件ある気もするし、そういう建築様式の導入には「知」が要り、知のような家がいくらか残っていて、それらが少しずつ歿楽しながら、ねこじゃらしが繁茂したりしていくのを見る。まだ残っているものもあり、その二階のガラス窓に書生というか漱石がいそうな家があったり(それは日本家屋だけど)があったりする。そういうとこは相場的に1億超えていて、私には住めない。あー。(その)思い思いに知が家を建てられた時代に、なんとなくわかり始めている。そういうものは優しかった。ああいうのが、個人的には左翼というものではなかったか。左翼は建物だった。今は建物も人も見えないから、左翼もクソもないような気がしている。



フースーヤとコウテイの違いみたいのをYoutubeのコメ欄でみてて、フースーヤはボンボンみたいだなと思い、自分の中の涸れた水路に水が通るような感覚がフースーヤにはないような気がして、コウテイとかランジャタイにはなんか設定むちゃくちゃで破天荒だが涸れた水路に水は通ってくような感覚がある。押し付けられているか、自分の中にあるものを利活用あるいは賦活されているかの感覚であり、あちらから向かってくるものと、こちらからも向かうものがあって、その割合がフースーヤの場合100:0(百ゼロ)で向こうからくるものばかりなので、それがボンボン感を与えるのかもしれない。その過失割合だと、こっちがよっぽど虚にならないかぎり(侵襲的に)染み入ってこないんじゃないか、みたいなことを考えていた。それは結局谷川俊太郎おっしゃる「自分の中の他者をみつけること」に通じるものがある。つまり破天荒でわけのわからないものでも、「そうきたらこうきますよね」っていう水路を曲がったり通じたりすることで自分と相手の中で共感のゲージが高まってそのエネルギーでさらに複雑な設定(高み)に向かってフライハイできるのだがフースーヤはずっと飛べずに地べたにいるような苦しさを思ってしまう。安水稔和の鳥という詩で飛べない鳥の部分があるがそれに近い。コメ欄にもこのままずっと皮膚が衰えてもずっとこのままやっていてくれたら面白くなるみたいなのが多く、そのことと飛べない鳥が飛べないまま走り続けることはとても「面白くなる」という直感、むずかしくてつらいことだが、そう思われる、そう要るパワーの総量の見当のつかなさ加減、

鳥が夢をみた。
いつおわるともしれぬ
ながいながい夢をみた。
いつまでたっても飛びたてぬ
飛びたとうと羽ばたいて
けんめいに走るのだが
いつまでたっても
土の上を走っている
砂をけちらし
水たまりにふみこみ
なりふりかまわず走るのだがいつまでたっても土から離れられぬ
にがいにがい夢をみた
(改行はあとで文学全集で修正する予定)



うみのちかがTwitterでぬか漬けをやってるといってチャック袋のぬか床の写真をあげてた。私も先々週にメタ床を読んだ後無印にぬか床を買いに行こうとして、その手前のスーパーでもっと安いのがあるかもと機転が効いて、そのスーパーが広すぎて全然見つからず、そこのインフォメーションみたいな人に尋ねて500円ぐらいのうみのちかと同じようなチャック袋のぬか床を購入した。あとパンコーナーの一角に志津屋が卸していたのでカルネを買った。やっぱカルネはうまいね。塩味のバターと玉ねぎとハムとかったいパンと…。

で、ぬか漬けだが、きゅうり、なす、パプリカと漬け込んできて、最近なんとなくやったアボカドのぬか漬けが美味しいので、アボカドを買いまくっている。3個だけど。

アボカドのぬか漬けはうまい。毎回買い忘れるが、ズッキーニもやってみたい。ズッキーニはただ単に焼いたやつに塩を振ったやつ、みたいなやつもやってみたい。

Book&Appsで「ホリエモンが野菜はうめーんだよバカ」みたいな記事があって、それ読んで以来、野菜に興味ある。そしてゲンロン10のメタ床でぬか床にも興味が出て、なんかぬか漬けとズッキーニ焼いたやつとか野菜に興味ある。そんなかんじ。おい衰えるまでに真の野菜のうまみとか菌を生かしたりしたい。



そもそもが今年の1〜2月に、コロナまったく関係なく体調をくずした。機能性ディスペプシアという病気だった。昔でいう慢性胃炎、ストレス性胃炎みたいなものらしい。しかし、胃が荒れてないのに胃炎とはこれいかに?みたいな議論があったかなかったか、それで機能性ディスペプシアに改名したらしい。

この機能性ディスペプシアで言いたいことは、胃の機能がバグるのと知覚が過敏になってバグるのと、二重のバグでめちゃくちゃ苦しむということである。

これはあくまで私の場合の機能性ディスペプシアであることを断っておくが、食べ物の量や内容を問わず、少し食べると15分後に胃がどくどく脈打ち、みぞおちから胸のあたりにかけて塩酸が揮発する湯気で胃膜が溶かされてるような痛みと拍動が連動して、その苦痛以外何も考えられない状態になる。

これで夜中に歩いて病院まで行って点滴してもらったり、胃キャメラ、血液検査、MRIなど受けたが、胃はふつう(平常運転)であるとのことだった。結局、胃の動きや胃酸の感じ方が過敏になるという症状らしい。

んなあほなというほど苦痛である。医者の呑気さにぶちたくなるぐらい落差が激しいので、これはこれで胃は大丈夫とか知らんし、今痛いことに対する、共感するケアみたいなものがほしいと切実におもった。でもそういうのは尺的にもとれ高的にもアンペイドワーク的な意味でも無意味とされてるというか、どうにもならんしそういうのは家でやって的な現代社会のすげない「あーこれはにっぽん滅びますわーあーなるほどなるほdー」みたいな感じで呪詛めいていたのだが、そのままコロナ禍がやってきて、会社の休みが増えるうちにだんだん元気になっていって機能性ディスペプシアは収まっていった。

薬で胃の機能(胃酸の量などを)抑えながら、感じ方も忘れながら、規則正しい生活を心がけた。

どれがどれだけの効果を示したのか判然としないが、やったこととして

胃を刺激するものをとらない
脂っこいものをとらない(とれない、死ぬ)
睡眠をとる(iPhoneのマイクで集音して睡眠分析してくれるやつとヘルスケアアプリを併用して週間の睡眠時間を示すバーの長さを週間、月間で見通すとリズムの崩れがよくわかるのでオススメ)
よくかむ
やわらかいものをたべる(これはあまり効果はないが、気持ち的に)
かたいものをたべない(胃がどんどこなる気がする)
量をへらす
たべて結果がよかったものを覚えておく
寝る前に食べない
ストレスから離れる

かなり「胃のイメージ」が左右する。私の場合は、胃の底のカーブ(腸に向かうほうとは逆にあるなだらかなほう)に少量の食べ物が置かれ、それらと胃酸が化学反応的に揮発する有毒ガス(腐食性があるイメージ)が立ち上り、胃上部、特にみぞおちから胸の上のあたりに焼けつく痛みを生じさせている、というイメージだった。

これが消化が終わる(イメージの)5時間、ずっと続く。寝相で(胃を)転がしたり、四つん這いになったりして、痛みをいっとき紛らわしたりすることもあったが、変えた姿勢にもすぐ痛みが追いついてくるので、5時間はひたすら苦悶の時間である。

量には相関性があるように思う。脂やカフェインはないにこしたことはない。かたいとかやわらかいは特に関係がなかった。一食がおかゆのレトルト半分だったりした。

過敏であるから気分次第であるとか、気の持ちようであるかといえば、それは違う。寝ていて、胃がどこどこなってるときに起きて「あっ」ということが何度もあるので、胃自体もおかしいのだと思う。あくまでそれは動きであって、胃酸過多というわけではない(過多であれば胃壁に異変がみられるのだと思う。それがなく、ただひたすらに苦痛に反比例するように医者がすげないので余計つらい)。



この流れで発酵に興味をもち、アイリスオーヤマのヨーグルトメーカーを買った。そしてコロナ禍の流れで、おうち時間を過ごそう(あと10万も入るし)と思って悪いなのび太1人用のホットクックを買った。

ホットクックには低温調理というのがあり、それで米麹とあずきを買って、発酵あずきを作るようになった。あずきにしたのは、甘味への飢え・渇望であり、甘味がほしいのだけど、ガチンコの甘みはちょっと…(胃にさわる)という判断があったのだと思う。たしか。

そして7月にはぬか床を始めた。

身の回りを発酵させまくっているのである。なんでこんなに発酵なのだろうか。

最近頭にうかぶのが、マリーアントワネット風に「人に頼れなければ、菌に頼ればいいじゃない」というセリフである。

もう人はうんざりなのである。菌はなんか勝手に高い小さい声でみゃーとか言いながらなんかやってくれてる感があり、とても初いやつである。

最後に、機能性ディスペプシアにおける人対策であるが、ちょっともう強引で申し訳ないのだが、

スマホを機内モードにしつづける(たまに解除して連絡をみる。あらゆる連絡を強制的に非同期にする)
社内メールのしょうもない件、気に入らない件、わけのわからない件には返信しない
既読のマーク(了解しましたとかいいねとか)もつけない
宛先からも抜ける(じゅうぶんまわる)
内線をとらない
余計な気遣いや挨拶をしない

これに尽きた。最低限ふわっとしておく感じで十分だった。生活習慣が全方位不全だったものを剪定してすっきりさせていくと楽になる。あとは忘れること。あの胃の苦しみはあるときはあんなにつらかったのに、もう忘れている。そしてあの長さもたった2ヶ月、いや2ヶ月もなかったのだ。そのことに驚いてしまう。人間なんてほんと不義理なものだと思う。そのかわりにアンペイドワークさえできないとしたら、血筋以外に育てる理由も見出せないとしたら、情けない人類になったものだなあと思う、日本人は。


早生まれと人造人間 41号から8っちゃんまで

2020年08月20日(木)

早生まれは非認知能力が育ちにくいというニュースがあり、なんとなくわかる気持ちで通勤電車に揺られるうちに「AKIRAの金田と鉄雄」のことを考えていた。

鉄雄は早生まれっぽいな

けど意外と金田も早生まれっぽい

山形とか、愛憎ではなく憎だけでシンプルに鉄雄に向かってくやつのほうがまだなんだか遅生まれっぽい。金田と鉄雄はなんか団地かどこかに遅めに引っ越してきたなじめない同士の腐れ縁のような関係だが、あれを生まれた時期に換算するとふたりともある意味で早生まれだったのかもしれない。というか早生まれ、遅生まれ、先にいるか、後から来るかというのはずっと世界の中の大きい対立軸なのだろう。やすとものラジオでの姉妹ならではの話も、笑いながら胸の奥で笑える以外に、過去になにかうずくものがある。

そこから、鉄雄って41号だった?…ような気がしたのだが確かめるには時間がなく、そのまま仕事して帰ってWikipediaをみるとやっぱり41号だった。4と1。4月1日。早生まれであるななんだってー

アキラは鉄人28号から28号、2月8日。ほかのタカシやチヨコらも26、27とかそこらへん。みやこが10番台。AKIRAの世界では一桁台の人はおらず、(私の妄想理論では)みな早生まれである。

ドラゴンボールもドクターゲロが20号で、16がモヒカン、17が男、18が女、19がキムジョンイル。20号は2月0日ではなく、ゲロ自身の誕生日でやっといてほしい。なんとなくゲロって9〜11月生まれっぽい。

やはり人造人間は全員早生まれである。だが忘れてはならない。ドラゴンボールには一桁台のハッチャンというフランケンシュタインのような人造人間もいるのだ。レッドリボン軍の雪国の塔に幽閉されていた優しい彼である。まだあの丸っこい描線のころのドラゴンボールの絵である。雪国のムラに引き取られた優しい人造人間である。

終盤、元気玉徴収シーンで「孫悟空だスノ!」と初期設定になかった語尾になっていたが、あれを鳥山明のヤジロベーを背表紙に2回描く感じのノリではなく、ムラに受け入れられるうちに身についた「方言」だと捉えると、かなり変わってくるのではないか(何が?)

一桁台の8号は誕生日換算できない。エヴァも0、1、2と一桁からすすむ。旧劇が途中から量産型で9機ぐらいいたので13号機、新劇場版もなんだかんだで13号機まできているので、ここまでくると早生まれである。そして新劇場版には新たに8+2というのも出てきてこうなると一桁台同士で遅生まれになることも可能である。

ナンバリングということは管理対象であり、管理されるということはむかつくということである。つまりずっと早生まれはむかついているということである。これは遅生まれの「なんでそんなモタモタしてんねん」的なむかつきとは違う。そう思われることに対するむかつきである。
つまり、早生まれというのは、生まれつき計画に対する憎悪をもっている、ということである。

ARMSはオリジナルとアドバンスドという概念があり、キースは色分けであり、早生まれや遅生まれという概念よりはポケモン金銀とかそういう概念に近い。それでも先に書いたような葛藤は生まれる。

金田一の孫が昔なるほど日本語塾とかいう教育テレビの番組で時間は長いというのは時間を線のようなものに例えるからそういえるのであって、実際の時間というのはもっと捉えようのないものだと言ってた。

そういった捉えようのなさで捉えれば、それぞれの子供たちは、なんとなく接してる感じで、ちょっとはやいかなあとかもうそろそろええやろみたいな感じで次のステップにほうりこまれてく。時間の長いとか短いとか、日付とかいう区切れる発想でみられると、どんだけちっさくてもランドセルしょわされ、容赦なく学校にほうりこまれ悲喜交交する。区切られたことで発生する割り算の余りのような悲喜交交の非とか否をもちかえる子供に、親が与えるもののことを思う。私にはそれがなかったなー。それがなかったというより、それがじゅくじゅくのまま乾いた感じにならない。

思い出すと祖母、母、私と早生まれである。早生まれが3代続くと滅ぶのだろうか。そのほうがいい。自己否定感の固めるテンプルである。

所詮この世は固めるテンプル。所詮この世は(否定感の)生態濃縮。

世界も早生まれ、遅生まれである。4月1日に日本が生まれ、4月2日にアメリカが生まれた気がする。


ぬか床生活

2020年08月18日(火)

ぬか床デビューした。野菜を買いすぎていて、とりあえずおなすときゅうりとゴーヤだけ今朝切って小皿に移した。パプリカがあるのだが、これは明日漬けよう。

美味しいけどまだ癖はない。きゅうりとなすなんか食べたの数年ぶりな気がする。

5年?10年? じゃあ何食べてきたんだって話だが、おもいだせない。

夜中は台所に置いて、日中は冷蔵庫に入れとくのがいいかなとおもっている。

補充用のぬかも発注した。日曜に届く予定。

Twitterのトレンドに早生まれというのがあってなにごとかと思えば早生まれは遅生まれと比べ非認知能力が低くなり偏差値や所得にも差が出ると東大の教授が論文で仰ったみたいなことだった。なんか今まで生きてきた感触としてすごいわかりますという感じで、肯定感のスパイラルみたいなやつを意識的に親がてこいれしないとけっこうダメになると思う。すくなくともうちはそうだった。なんか仕事で疲れたのと、こういう記事を読んだときの憤激みたいなものも相まって疲れた。パソコン閉じよう。


オープンダイアローグぬか床つらつら

2020年08月17日(月)

うつになったらいけないの?という対談本を読んでいる。最近はシロクマさんのででなある(健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて)も読んでいて、結局わたしはそろそろ自分が社会から剥離しそうなことにうすうす感づいていて、自分が伏しやすい場所を探してるのだという気がする。

うつになったら…の終章はオープンダイアローグの番宣みたいな感じではあるが、2000年ごろからなんとなくぼんやりと精神的なことや社会的なことを車窓のようにながめ追いかけてきた身からすると、薬とかエビデンスといったかたいものが溶けていき、また神秘のような不安なものに戻っていっているようにみえながら実はそうでないというか、人間はARMSに負けないみたいな部分にまた戻ってきているのはとても不思議な感触だった。いや、ODはエビデンスもあるのだが、確か。

日本には(私には)なんとなく「そんな悠長なことやってられるか」という心がまだ残っていて、ODに対してもなんだかそんな目でみてしまうのだが、たまに組合活動で仕事を抜け出して学校なんかに出向くと、ああ就業時間中なのに、こういう時間の流れ方をする場所があるし、こういう場所に自分がいるんだなあと不思議な感覚があって、その不思議な感覚からすると、いくらでもそういう悠長さは捻出、いや捻出すらしなくてもたんまりとあるのだろうと予感ぐらいはできるのだ。

なんというか、ゲームボーイやりたいから親戚のおばちゃんに会いたくないみたいな感じの時間とか、ああいう(ゲーム)越したからなんやねんみたいなやつバーサス親戚のおばちゃんとしゃべったからなんやねんみたいな対立が、戦後日本のけっこう大きな問題のような気がする。それは人間との接し方、楽しみ方、あと優先順位のつけかた、うまみの絞り方、好きなことをすることとか、折り合いというか、おばちゃんからお小遣いを受託収賄するおかんの存在とか、会わなくてももらえるという制度疲労の問題、時間の割り振りが極端に他者に向かわず、アメリカもそうなんでしょ?みたいな感じの感じがえぐい感じが日本である。そしてお中元や敬語の問題。毎年夏になると水深1.5cmぐらいの薄いゼリーのアソートを送ってきたり、敬語による配慮をしながら能力主義の配役としての上下もこなすといった部分など。こう、したのほうだけ掴まれたまま上だけねじってるから結局それがチュロスなのかチュロキーなのかといった問題などである。

あと、不安(不確定性)についても、オープンダイアローグをぬか床だと考えれば、何が含まれてるかわからないが漬け込むとなんかできてるという細菌叢のネットワークの有機的な蠢きや趨勢によって、あるいは浸透圧によって調整機能によって良い感じに発酵するというふうに捉えれば、素手でかきまぜることを怠らなければ不安でもないのだ。そして、この素手というところの比喩に、シロクマさんのででなあるの清潔とか、関わりを寸断したまま再配置ばかりを目指す社会構造の問題があり、ここには自らの素手の力を毀損しているという自虐・自嘲的な気分の醸成(清潔に腐敗すること)すら含まれているように思う。

手にある常在菌を「どのような関係にも必ず含まれる暴力」のように捉えた場合、その手によってかきまぜるぬか床(=人やものや世界)は切り分けられないというジレンマがある。で、日本はそのジレンマの弁の、退却方向にするっと1995あたりで抜けてしまったという気はする。この場合、ビニ手をするというのはネットということかもしれない。正直、コロナによって退却が肯定された空気はとても棲み良かった。水かと思った。でも、ということなのだろう。問題はその切り分けられないところ(手にどうしてもついてくる常在菌)をどうやって自他共に共感的に接することができるのか。しかしこの常在菌を認めると、一気にKKOとかおっさんとかいう叢のいぎたなさも解き放たれるような気がする。若い人との資本主義的アドバンテージも相対化される。コロナが打った楔の深さと、18禁ののれんの奥に見えなくなるばかりのおじさんの解放、暴力のヒューリスティックな仕分け方と対話。よくわからないが、先輩後輩みたいなものをなくし、配慮としての形骸的な敬語を用いながら(以下同文)

…というわけでずっとAmazonでぬか床セットをみてたのだが、部屋をでて、不確実性に耐えて、ぬか床買ってくる。


n

2020年08月16日(日)

n対n
n次創作
n項行く友よ



2020年08月14日(金)

最近スマホ版のシムシティにハマっていて、感覚的にはほぼ摘み取ってるばかりであり、体感的にはほぼほぼサンシャイン牧場なのだが、とにかく時間を切り売りして都市を発展させている。

動画広告を見ると、お野菜や鉱物の生産が促成されたりする。CM動画は城郭からマシンガンを四方八方乱射して膨大な量の群がるゾンビを打ちまくるアプリのCMと泥だらけの紳士が蛇口の前に佇んでいて汚物と水道水を遮っているかんぬきの順番を間違って蛇口から汚物が吐き出され紳士がウェップ!みたいになる動画をよく見せられる。ゾンビを撃つゲームでも、序盤はなぜか無人島の浜辺にものすごいスピードで漂着して、家を建てて、シムシティ的要素から何故か構造物が地面から芽生え、そこにひきこもりゾンビを乱射するフェーズに発展していて、主旨のよくわからないゲームだなーと思いながら眺めている。このCMを我慢して見ると、お野菜や鉱物が即時収穫できたり、3つの木箱からひとつを選ばされて小さい鍵や監視カメラやお金がもらえる。

鈴木志郎康「おじいさんおばあさん」が届いた。表紙の裏に帯が挟まれてて、そこでこの本がルポなのだと気づいた。てっきり「手と手をこするとあつくなる」同様に絵本だと思い込んでいたのだが、これは鈴木志郎康さんのおじいさんおばあさんルポ&インタビュー集なのだった。そういやどこかのエッセーで無人島のおじいさんにインタビューした話があったなと思い出した。

Youtubeで"中川家の寄席"を見ていてあるあるのところと俺やってるけどなのところがあって、どこかにある中流というか、昔の漫才の動画で客席にめちゃくちゃむすっとしたおばさんとかやっぱりいて、なんかそのへんのことを考えていた。

生活の違い、生活習慣、生活遍歴のパッチワーク、この違いに質的な違い(金の多寡)とルート的な違いがある。

最近のみんなバラバラ感すらもう自分だけなのかみんなもそうなのかよくわからない。番組で家族の人が出てて、その人の家族の写真が出てるとかを見てると今も連綿と続くそういうのがあるような気もするが、私にはもうわからない。

夕方富岡多恵子詩集が届く、最近本がやたらと届くがほぼ読めていない。シムシティをしている。



偽史

2020年08月13日(木)

Youtubeの公式にミルクボーイの新ネタメダルゲームが上がってて朝から笑った。「あるとかないとか…ないんですけども」

それからミルクボーイで検索すると日本お笑い遺産というチャンネルで2010年代のミルクボーイの動画や見参アルチュン(!)の動画が上がってて思わず登録した。

オールザッツの1分ネタをみてても思うが、オールザッツの感じ、小藪がなんか言ってる感じ、客席の後ろの芸人の感じはそのまま(今に続いてる感じ)なのに、この頃のミルクボーイ2人だけはすっぽり抜け落ちて皆の記憶から欠落していたというか、逆に2010年前後にいたけどいなかったような、記念写真で自分のところだけ強烈に違和感を感じるような(編集できる感、あっても(いても)いいのか微妙な感じ)、変な気持ちになる。

歯を磨きながら見てると泣けてきた。





2020年08月12日(水)

ゲンロン10のメタ床を読んでいて、なにもかもぬか床で考えればいいんじゃんと思いながら仕事していた。

ドミニクチェンさんという人がたまたまもらったぬか床から、クリエイティブコモンズや二次創作をぬか床の細菌叢の蠢きや趨勢になぞらえて語っていく感じの論考なのだが、これがとてもおもしろかったのだ。

会社もぬか床だし、現代詩手帖とかも、ある意味ぬか床なのだろう。詩の投稿サイトもぬか床、なんでもぬか床なんだよ状態である。

経済もぬか床。見えざる手というだけあって、見えざる手によって日夜かき混ぜられている。たまにうんこのついた見えざる手ぇによりむっちゃ災禍、まがまがと起こったりもする。

飛来先生の詩の外国航路という短い詩の中に、香水瓶の中で蟲たちが蠢いているのを覗き見るという詩文があり、あれもよく考えればぬか床的な発想だなと思う。

でも香水瓶だったのは、なぜだろう。においが違う。蟲たちが作ったにおいではないということなのか、蟲が作る香水なのだろうか。

あと香水瓶は、井の中の蛙というイメージも思わせる。ぬか床は井の中という感じがしない。筒というほどの形状がなく、水というイメージがなく、常に埋まっていて、蓋がある。それはそれで閉じた自己イメージを持っていて、上昇志向を感じさせないのどかさをどこかぬか床に与えているように思う。

香水瓶のイメージはこれからも考えよう。あとはそれを覗き見る人の気持ちというかまなざしはどういったものだろうか?ということも。

ぬか床は昔祖母がやっていたが、いつからかヨーグルトになった。祖母のヨーグルトはいつもしゃばしゃばで非常に酸いかったので嫌がった。蜂蜜をこれでもかと入れてやっと食べれた。

私も最近発酵あずきとヨーグルトをやりだし、先の論考を読みぬか床もやりたなってんちゃう?という感じでフレスコにぬか床のなにがしかを目で追ってギブミーアチャンスじゃねえやワンモアタイムワンモアチャンス的な今日このごろ(会社いこ




2020年08月11日(火)

遠慮ではなく配慮

効率

敬語、切替、労力

歌うくじら

身分

吉本の先輩後輩

なんかこのへんのことを考えていた。日本に敬語がなく配慮があればもっとよかったのに、、、みたいなこと。だった気がする。めも

日本、「機能しないこと」に対する恐怖心



2020年08月10日(月)

家の応接間のソファーに毛布をかぶってくるまっていると母が予約したからクリニックと言い、動かずに聴いていた。青い合皮ソファーはもうずっと寝ていたので座面から皮が裂けていくつかが垂れ下がっていた。

夜になって、まるいクリニックを調べた。2chだったか地域chだったか。どちらも、どこでもヤブだ、いかにヤブであるかということしか言ってなかった。

それでもぐずりながらその日は母とふたりで行った。先生の記憶は今はヒミズの岡島渚(偽)みたいだったと思う。それからは何回か、ひとりで行った。

少し話し(よくなったかわるくなったか)、薬をもらう。歩く廊下の帰りには少し靴で歩くところより高い灰色の床カーペットの空間が広がっていて、その奥のほうの柱にもたれてフランス人形みたいに腰掛けた女の子が微笑み、その両側にめがねの男子が両手を突きながら女の子に顔を近づけていて、求愛しているようだった。わたしはそれがデイケアだと言われた気がして、それが怖かったので、私は「あっち」には行かないでおこうと決意した。今思えばあんな(サークルクラッシャーのような、非モテコミットのような)ものでも溺れてしまえば結んでしまえばかけがえがなかったのかもしれない、と思い返す。

私はそのころパンフレットだったSADという社会不安障害というものだと言われ、セニランだったか、何かのジェネをもらいのんでいた。飲むと効き、頭が麻痺している感覚で警戒心が落ちてたびたび変な人に絡まれたり変な行為に巻き込まれた。ただ人に対する不安はなく、ただ手の甲がやたらすりむけて髪の毛の色がやたら変わりカバンの底が血でペッカペカになっていたりして、今思えば非常にうんざりする(記憶にない)日々だ。



2020年08月09日(日)

木村はちょっと待ってと言い、マドハンドがでたところでコントローラーの右をセロハンテープでがちがちに固めてからいこか、と言った

大文字が昨日の夜、誰かがライトで勝手に大の字に点灯したらしい

萎んだ恐竜アイスがトタンの上にずっとあった

雪見だいふくの工場に1hほどいたことがある
出来損ないのやつを食べさしてもらった気がする
求肥かアイスの元かをバケツで機械に投入し
風船ヨーヨーのように蛇口からぷくっと出てくるのだった気がする
トッポの工場は折れたやつを無限に食べれると聞き
そこに行きたかった
でも滋賀は吉野かロッテで大抵吉野だった
アロハを着た本当に会社に雇われているのかわからない人が仕切っていて怖かった
あまりのつらさに機械の陰に隠れて3時間ぐらい寝ていた
それでも回っていた
どんな工場やねん

湿気と高く、室温も高かったうえ、昼夜逆転の12時間で
消耗した
教え方も上から降ってくるペットボトルの元みたいなプラッチックのかけらを
別の場所に持っていって、みたいな場所が3〜5箇所あって、
たぶん朦朧として入れるところから出したり、出すところに入れたりとかも
してた気がするが、それでも回っていた
というか基本放置プレイで、誰も注意しなかったので
ずっとわけがわからないままプラッチックのかけらを入れるところに
入れたりしていた
どんな工場やねん


好意的にみる

2020年08月08日(土)

岩瀬敬吾さんのYoutubeチャンネルをみている。広告もきっちりみてまたグッズも買おうとおもう。最近オンラインで人を助けるというか、お金になって少しでも足しになろうという意識がある。身はもう価値がないとでもいわんばかりの、こういう身を助けるのが二者関係なのかもしれないなと思う。

岩瀬敬吾さんとかgroup inou(cp)の詞が好きで、ぶっちゃけよくわからないものに興味をもって、興味をもってる自分が好きというのもあるのだが、それ以上にお城の矢を射る穴みたいだなと思っている。中からみるとあんなに外が見えるのに、外から見ると全然みたいな。あとは幻灯機のような、スリットから覗き見るような詞であり、言葉であるがゆえに、それはまったくわけがわからなくなってしまっている。いや、なんとなくしかわからないといったほうが正確かもしれない。

ミスチルの詞がふだんの状態の自分に、あっち(言葉のほう)から来てくれる詞とすると、彼らの詞はこっちから行かないとわからない、行ってもあまりわからない詞である。愛をもって好意的にみないとわからないし、ふだんの状態の自分だと素通りしてしまいそうなわからなさをもっている。

ミスチルの詞はふだんのちょっと疲れた心さえあればいいのだが、彼らの詞はなにがあればいいのかわからないのに、たしかに何かを言っているという確信だけはあるように思う。だから完全に轢断されたバラバラの言葉ではないのだ。

私たちに向け、咀嚼された翻案が送られてくるのではなく、歌われているはずなのに、私たちに向ける前の、話者がみた光景や心象が断片的に、音韻を優先させながらRAW画像的に語られていく。ある程度の方向性を保ちながらそれぞれの人生と照合しながら、その言葉を城の穴のように覗き見て、その周囲の経験との照合で次の言葉とのベン図で意味をぎりぎりに繋いで、そのぎりぎりさに尊さを感じるような味わい方をする。




たまに

2020年08月07日(金)

戦争のことをやっている。Twitterがなんか戦争のことをやっている。忘れてはいけないという。楢山節考のことを考えていて、なんかあの弟?だか婿養子だかもう忘れたが、図々しいふてぶてしい何もかも忘れている人間のほうがふつうなんじゃないかと思って、このTwitterはおかしいなと思っていた。年がら年中参考になるものをいいねして、毎年はてなのポータルみたいなところに新生活の知恵みたいなやつが上がってきてるけど参照できてる人なんかいるのかなみたいな、自分の思想の身固め以外になんらの意味もないなら図々しいほうがいいよなと思った。知らないことはどんどん薄れてもいいというのが最近の気持ちだ。Youtubeは原爆を漫画でやったやつがいっぱいあがってていいなとおもった。あのいつものアリとキリギリスみたいなビフォーアフターみたいなサムネで人間が溶けるとか、地獄とか、骨が透けてるのとか、安っぽく冒涜的に真摯に取り組んでるふうにアップしてあるサムネをみると人間はこうあるべきだと思い、その人間に会って話を聞くとかいうのはなんか違うなと思ってしまう。ツァーリボンバの動画とかをみてなんか思ってるときのほうがいいんじゃないかと思う。だから悲劇を伝えるための人とかそのために絵を描いてるとかいう人がいても、なんかそれはそれでいいけど全然伝わらないということははっきりさせといたほうがいいように思う。その人がいてその人がしゃべると重みがわかるとかいうのはないのだと、そういうのがなんか人間を「ずらしている」という感覚が年々増している。ちびまるこちゃんの「わーい」とか「おじいちゃーん」みたいな感じとか。もう完全に嘘なのにやってる感じのやつに対して、全員そこに対するもがきで現在イライラしているのだと思う。これはその人の価値の選定ではなく、その価値のアンプさせ方やピンチアウトのさせ方がひたすら左翼的にぶっ狂ってる、とそんな話である。だからその人はアンプされずにそこであたたかく価値ある人としてされていればいいのである。これは京アニ事件のドキュメンタリーなどで取り上げるアニメーター目指してる子とかの選定などにも反映されているニュアンスと近い。アニメーター目指してる人かもしらんけど、その人からまっすぐ線引いてっても、京アニとは99.99999%繋がらないのに言葉上の意味だけでテレビマンがこの違和をわかりながら無視して接続しようとすることが間違っているという感覚である。だから、この場合も、このアニメーター目指している人が祈ることは間違ってないし大切なことではあるが、それが京アニと繋がるかといえばまったく別次元で繋がらないということははっきりさせておきましょう、そういう無理やりの尺埋めは誰のためにもなりませんよ、という感覚がある。この違うさと違わなさのはざまの問題を話せる日がくればいいなとおもう。

左翼的なおごりというか、ほんとに体験した人がほんとのことを話せばそれが一番だ!という正しさのおごりのようなものがずっと戦争体験というものにまぶされていて工夫というものや、のべ人口のグラフで人型が半分割れてるような感じの冷たさも搦手として使って戦争を理解していくのならいいとして(ケンバーンズ的なだらだらした歴史のコンテンツに対する耐久力がこちらにも必要ではあるが、需要しきれない人がいることも見越して)、講演だけで乗り切るとか、戦争の悲惨さだから姿勢をただして何時間でも聞くべきではなくて、人間理解に基づいて理解しやすい環境で何をどう聞くべきなのか説明して手短にやってもらってしんどくなったら退出可能にして感想も正直に書かせるべきなんじゃないかと、今そういう教育がどうなってるかも知らずに思う

そういうところ以外から出てくるコンテンツのほうが、まだ人の世として健全にみえてくる。やはり「ずれている」と感じる。無理をさせている(過去に無理をさせられた人が今の人になぜか無理をさせている、なんで?と思ってしまう)

富井副部長の息子と塾っ子が定年退職して子供食堂のはしり的なことをしようとしていた老夫婦が作ったレバーのパテなどにつけたイチャモンと同じタイプの問題のように思う。チープな愉楽に比べて本人というのはそこまで重みがありホンモノであれるのかと。炊き込みご飯のおにぎりになれるのかと。


去年の今頃は

2020年08月06日(木)

去年の今頃は出社するため家を出るのが非常につらかった。いつも逆算してぎりぎりになるよう、時間までソファに横たえ、電気を消し、目薬をさして、ぎりぎりまでpollyの"生活"とか、Red House Paintersの"Void"とか聞きながらじっとしていた。目の中の暗闇で、音をさけちーのように分解するように聴いてみたり、体のどこかが痛くないか探ってみたり、なにかをおもってみたりした。

今年はそのぶんでいうとかなり気楽である。いつかこのツケもくるのかもしれないが、今はまだ大丈夫である。

さっき、2019年のプレイリストを流していて、ひさびさに"生活"が流れた。シューゲイザー版の"ZOO"だな、と思った。なぜだろう。

先月まで2009 lateのiMacの27インチを使っていて、最近21インチに買い換えたのだが、音質が隔世で、デスクトップで音楽を聞く習慣が戻ってきたのだ。

なぜ買い替えたかというと、今でしょ、という気分だったのである。最近ちびちびするのをやめようと思っているのだ。いとようじを全部の紐が切れるまで使うとか、歯磨き粉を新しいのを買ったのに親指でぎゅーっとして何日ももたせるとかいうことに意味が感じられなくなってきたのだ。もう替えたらええやんと思うことが増えてきた。

真面目が一番とか、もったいないとか、順番やでとか、なんでやねんと思うようになってきた。これじたい中年期危機なのか、それともちゃんとした考えなのか、ホルモンバランスなのか、老化なのかよくわからない。

ただAmazonの購入履歴を見ると「あれ、これが3ヶ月前!?もっと前かと思った」みたいなことが増えてきている。90年代、00年代に比べると、考えてから行動するスピードは上がりまくっている気がする。そのぶんうわついているとも思う。そもそも私は2006年ごろまで消費の主体でもなかった。

"生活"は音読みが特徴的だ。雨の愴(ソウ)、白夜の光(コウ)といった読み方をする。ハマっているところと、ん?というところが混じっているが、この音との溶かし加減には、この音読みと「です」の羅列がちょうどいいのかもなと思う。

iMacでZINEを作りたいとおもっていたのだった。また意欲が薄れ始めている。ZINEというより、チャップブックなのかもしれない。いや、なんでもいい。今読んでいるのは『チャップ・ブックの世界 近代イギリス庶民と廉価本』という文庫本だが、ヨーロッパの庶民が仕事を終えて家で汲々と本を読んでいる姿を思い浮かべると愛くるしくなるのと、スマホで意味を調べながら本を読み進める私は似ている気がする。

読みながら、チャップブックは今で言うとなんだろうなと思う。ネット広告の漫画だろうか。それともYoutubeの漫画、Youtubeの広告の早口漫画、FANZAの同人誌。すくなくとも文化芸術系の人がつくる丁寧な小冊子のたぐいではないことだけは確かで、庶民に寄り添い使い捨てられ真偽や審美とはまた別の用を成すものであり、それが愛しくおもえ、またそうではないものをつくってわかりあっている層のようなものにほのかに憎しみを抱くような気分にもなるのだ。つまりわたしが作りたいものはまずその層を弾くように作りたいと思うのだ。下品で下世話で用を成し、人間の美的感覚や無意識にはひとつも訴えないようなもの。もっている自分がうっとりするようなものではまったくないようなものがいいのだ。

そうやって作ろう、などと思わずにまず始めたくてぼんやりしている。用すら成さないものなので、スカムブックとかでもいいのかもしれない。鈴木志郎康さんが言うところの「読者限定公開無用雑誌」このへんのもっとくだらなさ、とりとめなさ、また急に意識しだしたり、離脱、脱線、弛緩するさまをそのままOKする本をつくりたい。


諦念と自由と詩的許容

2020年08月05日(水)

吉田拓郎の流星を聴いていて意味わからんなとは思うが、なんか響くものもある。これを詩的許容(poetic lisence)といっていいのかは微妙だが、これとはまた別の詩的許容のことを考えている。いや、むしろダダ漏れ、垂れ流しの文章のだらしなさや諦念のことを詩的許容の考え方で「許す」というか。これだけ書く人がいる世の中で「まだ響かせないといけないのか」という枷から逃れたい一心、という意味合いの詩的許容について考えている。

つまり芸術文化への造詣がないか、とても浅いが、そういうものがあること自体は知っていて、にも関わらず箸にも棒にもかからないものを書く(書いてしまう)ためのコアとしての詩的許容、とでもいおうか。

それは本来詩的許容が肩代わりするものではなくて、関係があれば関係が果たす役目なのだろうが、あいにく私には今いくべき関係ももどるべき関係もない。

ある効果のために語法の逸脱が優先することが詩的許容であり、その効果の部分に「できない私」とか「私だけが知ってること」とかを載せることもまた詩的許容のひとつだと考えられないか。効果に届かない「逸脱」も詩的許容とする考え方。黙殺や唾棄に気づきながら続ける方法論としての詩的許容。

効果の部分が読者ではなく、作者に比重がある場合、作者に応対する誰かがいてはじめて用を成すような言葉は、宛名をつけて送ったり合評会で顔を突き合わせてやったほうが本来の効果を果たすような気もする。とくにインターネットでは、ほとんど効果を果たさないか、効果を果たすとしても、その呟きや咆哮は、非常に迂遠なものになる。




立ち向かい場所

2020年08月04日(火)

返礼はReturnである。富岡多恵子の第一詩集も返礼(禮)である。リターン漫才といえばミルクボーイである。身上話という詩がある

みんなが残念がったので
男の子になってやった
すると
みんながほめてくれたので
女の子になってやった
すると
みんながいじめるので
男の子になってやった

年頃になって
恋人が男の子なので
仕方なく女の子になった
すると
恋人の他のみんなが
女の子になったというので
恋人の他のものには
男の子になってやった
恋人にも残念なので
男の子になったら
一緒に寝ないというので
女の子になってやった

(富岡多恵子『身上話』部分 新書館/現代詩の鑑賞101から引きました)

なんとなくミルクボーイである。ミルクボーイは正解があってのリターン漫才だが、この詩は本人(というか話者)が男や女に「なってやる」のであるから、らんまの世界ならいざ知らず、そういえば頭にお湯をかけるのってどうなんだろうか。
「なってやった」という言葉そのものは上からっぽいのに、なることそのものには無給感が漂っている。アンペイドワーク満開である。なってやる理由がいつも他人からの評判や行為や言葉で動かされ、それなのに「動力」は自分持ちなので、損した気分になる。よかれあしかれその要求に対応しているという態度が「つらい」「悔しい」「たのしくない」と感じさせてしまう。らんまなら、呪い的泉に落ちたんだからしかたねーだろで済む話だが、そういう行き止まりがない場合、これは自分で止めるしかないのである。
ミルクボーイの漫才を止めるのは「おとん」であり、それはそれでもう2020年だからもう何も言わないが、そうやって問題設定そのものをどっちらけにしようとする姿勢には断固反対しそうな気配がある。その感じの鬱陶しさ、その感じの痛快さ、馴染みのあるもののように思う。富岡多恵子と言う人をよく知らないので言うのだが、なんか文学賞めった斬りの人っぽい類系の最初の人っていう感じがする。なんかオンナって書きそうなんである。文学によって、表現によって支えられた矍鑠や凛であるというか、立ち向かう方向が入り組んできた最初のほう、だから始められるというややこしさを感じる。最初からそれ自体が虚、とどこかで思いながらやっておかないと炭鉱が崩れるような支え方をしている。


基礎童話

2020年08月03日(月)

ブランキージェットシティを聞いていると、底のほうに基礎童話がありそうだと思う。基盤にメルヘンがありそうである。あくまでありそうである。

基礎童話とは個人的な造語(心の中でしか使わない概念)である。これは池辺葵の『どぶがわ』という作品で、アパートにひとりで住んでいる老女の本棚にあった本のラインナップをみて思いついた概念である。(同著者の『夕焼けカーニバル』という短編に出てくる少女の部屋にも似たようなラインナップの本棚が出てくる。私は40男だが、この話を読みギャン泣きしたことがある)

基礎童話があると、表向きはトンガって居るのに、棲息域に持ち込める才能として突出する、みたいな感じになれる。ブランキーはふつうにすごいのだが。

これの対義語が、私の中ではコロコロコミックとかボンボンである。文化吸収のフローラを形成する時期のコロコロとかボンボンは(いざ文化芸術を理解したいと思った時)禍根を残しやすいように思う。



この日記は8月4日のものをわざわざ3日の枠に書いているわけだが、昨日ミルクボーイの煩悩の塊(ABCラジオ)を聴いていて駒場が新幹線のシートをMAXまで倒すというところで「僕ここまでいけますよ」みたいにシートの声をやっていたのを聴いて「駒場さんはなぜ物の声をやたらとやるのだろうか」といったことについて考えていた。

たしか、年明けのオールナイトニッポンで来歴を話していたときにも海原やすよともこに感化されすぎてムートンブーツを履いてくるぶしに蝶のタトゥーを貼っていた時期はトイストーリーのバズライトイヤーがなよなよしたときと同じ、あの心境だったと語っていた。

駒場は自分のつかみやネタを「かわいい」とか「おめかしする」という言い方で人のように扱い、またものに対しては「僕まだやれますよ」とものになって語りかける。この心性はどこからきたのだろうか?というのが、たまの私の考え事のひとつである。余談だが、駒場さんはピクサーのアニメとかで、うち捨てられているロボットの声などをやるととてもハマる気がする。



ラジオでも話していたが、ミルクボーイは『君の名は』がよくわからないらしい。ネタでも『千と千尋』がわけがわからないと話している。

なんとなくポップな消費観を持っていて、世間(30歳代の正規分布?)の平均像を指し示しながらも、やや特異にみえるのがネタやものに対するときの擬人化のような、メルヘンチックな、トイストーリー的な目線の表現である。駒場がよく言う「(奥さんとペアルックで)キキララみたいになりたい」というのも、それらの延長線上にあると言える。

こういった駒場の少しメルヘンな「ひと目線」「もの目線」の話し方は少し変わっているなと思う。そのままで話さずに、ひとやものに入ることで、話すほうはめんどくさかったり、また、男の子っぽい粗雑さでむげにしようとしてくることもあるかもしれないのにな、と思うこともある。カジサックのところでネタの「おめかし」、かまいったーTVでつかみの「かわいい」発言があったが、チームワーク的な雛壇だと、なかなかあのおもしろみは発揮できなさそうだなと思う。



ブランキーのとは少し違うが、駒場にも何か基礎童話的なものが温存されてきているのを感じるのだが、それが何なのかよくわからない。少し女の子っぽいというかEテレっぽさというか教室の隅っこにいる男子2、3人っぽさのある世界が入り混じった不思議なノリになる。そのノリに頓着せずついてこれるのが内海である。

(つづかない)



2020年08月02日(日)

Yahooニュースを見て、気になる記事押して、記事の下にコメントが出てきて、上の3つが大勢かという感じで見て、それが今の感性とそう遠くなければクイズに「当たった」ような、なで下ろし感がある。

それらのコメントのいいねとわるいねの割合で、その文面の賛同を得れてない箇所を推測する。いいねも圧倒的だがわるいねがそこそこある場合、つけたしで書いた部分が若干今的によくない感じのことなのでわるいねがちょっと多い感じになってる。

だいたいはあってる。

最近Yahooの感覚と大きくはずれたのがあって、それが小倉さんというグラビアアイドルが、ラジオ中に降板を直談判したという話。私はとても親近感を覚え、コメントの責任感とか筋を通すとか大人とかいう言葉にすごいしんどさを覚えた。ずっとカードの表を出し続けなければならない大人ならば、みたいな。そこで出してしまう人もいるけど、それも出す出さないの二択で99%の出さないと1%の出すがせめぎ合ってなぜか間違う人ってのもいるよ。

私は卒業式の直前にいつもトイレでしー、しーと言って出なくて座ってからそれが効いてきて式典の最中に走って父兄のあいだをすり抜けていた。あれは二択の99%と1%をいつも間違ってた気もするし、今もとてもすぐ疲れる。みんながしんどすぎるのだ。しんどさの訴えの訴え方、フォーマット、申告、手の伸び具合、ルーレット、規範が身についていないか我慢しすぎて二択を誤って常に清水飛び降り続ける人とかは責めるべきではなく理解すべきだろう。チーフディレクターが激怒したとか聞いてそんな矜恃の古い人間のいるラジオ局はとっとと閉館すればいいとまで思った。

小倉さんの人柄や言動なんかすっ飛ばして、筋を通すという言葉自体が大嫌いなのだ。腰を落とすとか筋を通すとか何を言ってんのか。それは何と何と何なのか。そういう式みたいなやつがあるのか。予定調和のべきをもってる人間に命や自由や生産性をやんわり削られるのが日本なのかなと悲しくもなる。驚くべき速さで決済したんだからいいじゃないかと思う。言われるうちが華とかいう社会人DV御用達の言葉もあることだし。

なんというのか、番組の流れみたいなものに供されているコミュニケーションみたいなものより、もっとだらだらとさっきの話が聞きたかったみたいなことがしょっちゅうある。不気味な世界なのだ。

卒業式の真っ最中におしっこ行きまくったりしてしまうし、なんか途中で泣いてぐずぐずになるパーティーみたいなやつをよく起こしていた身としては、疲れるんだから仕方ないだろう、相談するタイミングとか言うタイミングまで錯乱したら放送中に言うだろう、知るか、信頼とかと思ってしまう。

世間様を裏切らないと死ねない感覚はALS患者の殺人事件でもあって、ああこの王道感覚、きしょくわるいなと思ってしまう。逆に世間様を裏切ればいつでも死ねる用意があるという日本は腐ったなあ、ほんまよう腐ったなあ、ええよええよ、くたばれこの死に損ない国家、という印象。どんな関係の人がいてもねえ、絶対そう思う。

だいたい人間なんて何もかもけつ割るよりに先に意識が遠のいているだけなのだと思う。で、割られたほうが静かだから何も言われてないと思いこんでいるだけで。そういう人間の真逆がヤフコメに油汚れのように浮き上がっているだけなのかもしれない。いや、昔はそっちじゃないほうが浮き上がっていたはずなのに、いつの間にか油戻りして、こっちが増えてきたのかもしれない。

取り消せないところで世間的に悪い結果を生んでしまう人の中で回ってるルーレットみたいなものにとても共感してしまうし、それをプロやらなんやら筋を通すとか予定調和で考えている人はおそらく今まで一度も人を助けた事がないのだと思う。助けたと思っている人も実は助かっておらず、生きていると思っても、おそらくは生きていないのだろう。




大阪ガスのCMの菅

2020年08月01日(土)

大阪ガスのCMの菅はシックスセンスばりに誰とも会ってない気がする

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