スリムクーラー1L




2020年07月27日(月)

中国でたまに屋台で、揚げパンみたいなやつをすごいスピードで袋に入れて袋の端をすごいスピードでくるくる巻いてまるで芸のように見える売り子の動画をテレビのびっくり動画集みたいなやつで見たことがある気がする。

たまに標準化による個人芸の解体は、不器用な人がコミュニケーションによって、猿が森林から追われたときの気持ちで、または氷河期のときの哺乳類の気持ちで執り行っている大きな間違いなのではないかと思うことがある。

ウーバーイーツかクワウドワークスの文字起こしか。私にできる副業はFFでいえばあるジョブのLV1の能力で出来ることである。FF5はすっぴんが最強だった。

誰でもできる、と言いながら揚げパンのスピードの極まり方とか、あるいはだだっぴろい倉庫で緩衝材を巻いたような円柱のでっかいやつを投げて二段目に載せる人とか、なんかああいうのをそのままの給料でやることと、中村修二さんの青色発光ダイオードが徳島の会社にふつうに安く買い切られたのが不当であると、みんながガンガン応援してくれる世の流れは、後者が前者を何気なく毀損し続けていて、ある職業内における身ひとつの速さには時給が設定され、思いつくことや発明することは青天井であるというような価値観、それは自分自身(つまり私たち)をも茹でガエルにしていっている論理のように思える。そしてここまで言うとコミュニケーションが「じゃあ…」と言い始めるのだ。





エアポーカーと科学的管理法

嘘喰いの名勝負といえばエアポーカーで、連載中にハラハラしながら読み、単行本になってからもやはり面白い。ただ、私の仕事とよく似ている。つまりWikipediaで「科学的管理法」を調べたときにあるこのような一文

`生産計画を現場から分離し、計画立案と管理の専任部署を作った。つまり「計画と執行(実行)の分離」を行った。

嘘喰いはビッチペインという、脳に直接電気信号を送り込み、拷問を追体験させるアイアンメイデン型の機械で計画側に罰が降るようになっているが、私の職場ではこの仕組みがない。ただひたすら私たちは数字の刻まれた金属板でポーカーを行いながら、同時に役も作っている。しかも水の中から、ですよ。

じゃあ上では何をしているのかという話である。上は決断をしているということになっている。決めることの価値の算出は未来に後回しであるし、人間性を尊重し、社長も専務もいい人ぶって、ゆる〜く啓蒙しながらビッチペインに入らないくせのある人にやんわりと手をこまねきながら自らの冷静さや粘り腰(へたれっぷり)に悦に逝っている。

かと思えば現場は大量の在庫や生産計画と人員の噛み合わなさを製造側ですべてカバーしている状況である。大量の在庫は製造現場に置かれ、もし地震がありこの在庫のために我々が避難できなかったときにどう責任をとるのだろうか。やんわりと手をこまねく社長や専務というのは、未来において「人を殺している」。起こらないからという理由で今を続けさせることに負け続けているのに、負けていることにすら気づかないのである。

エアポーカーでいえば、生産計画の数字とシフト人員を合わせることが私たちにとって金属板の数字(生産計画)と実際のトランプの絵柄(シフト人員)を合わせて毎日役を作っているのが、なぜか私たちなのだ(そして、人員が足りないときに生産数に合わせて駆り出され、残業するのも私たちである)。

水中でBiosを吸いながら、ビッチペインにも入っている。

じゃああの計画部門は紫苑なのか? 紫苑らは社長と専務だろう。とすれば、あの計画部門は??? あのパノプティコンの監視塔のどこに存在しているのか?

そも、存在しなくていいのではないか?

コロナとか戦争とか以前の問題として、周りの人間はほんとうに「人を殺している」なあと思う。昔わたしもアルバイトでひとつひとつの作業のスピードの限界を試していた。どうやれば最速になるのか、ひとつワークを左手に取るたび手感で向きを合わせて右の部品と合わせながらねじこんでシームが揃うように、となんちゃって管理職になるまえはそんなことを考えてやっていた。あのときは楽しかった。なんとかの法則みたいに、ほんらい自分はそこで留まっていたほうが楽しかったのかもしれないが、最近思うのは出世とか、上がるとかいうよりこの不器用になっていく身を決断にスライドさせて価値を吊り上げる動きから逃れたいという気持ちが強まっている。


ミュート

2020年07月26日(日)

500いいね以上のツイートは誰経由のリツイートも非表示になるよう設定できないだろうか(いや100以上でもいい)。一番今の自分のストレスになっているものがそれだと思うからだ。
あと、先週は知り合いというか、リアルで見知っている人を4、5人ミュートした。政治的なことにリツイートをばんばん飛ばすか、寂しいひとりごとや決意をこちょこちょ書き漏らすので鬱陶しくなってきたのだった。

だから私がTwitterで見たいものは知り合いではない人の100いいね以内の、たまの、自立した、政治性のない呟き

500いいね以上は嫉妬するというか、表現する人間のエゴが振りまかれているというか、なんかどうであろうと踏み潰しているという事実には変わりないだろうという怒りが芽生えてくる。で、それに群がる人間に対する怒りもある。で、そのスマホをいじる横でネグレクトされてる赤ちゃんの気持ちで「何してるの…(何もしてないのに…)」という気持ちになる。

人の興味にあたいするものを顕現できたラッキーというものに対する殺意があるのだと思う。で、それがそのへんに満ち溢れてたり(すれ違ってたかもしれない、時間的に間に合わなかった、その瞬間そこにカメラを向けてなかった、近所なのに、見逃していた、似たこと書いたのにetc)あとは、どこかのページのどこかの図1だったり挿絵だったりURLだったり引用だったりを無邪気に載せて作者よりもいいねされ作者にも還元され結果「かたいこといいなや」みたいな世界になってること自体にも殺意がある。なんか享受した罪でがっつり裁かれてほしいと思う。

見知った人のツイートはほぼ無意味で無力なのでむかつく。言葉も節々が変なところで折れ曲がっているのが目につき、それにもかかわらず書いているということに腹が立ってくる。


落ち度を贈与とよばれたよララバイ

2020年07月21日(火)

ハンバートハンバートの虎ばっか聞いて
おれもならんでしんでもらいかの
落ち度を贈与とよばれたよララバイ
クラムボンimag
おれもならんでしんでもいらいかの
いいかな
明美を揚げているからね あと少しで
アイツの短針 柚餅子の瓶 あと少しで
東海剤の匂い
ハイン
ハイン
ハイツ二階のベランダ
突っ張り棒 外れてる
おんもののなまのましいシャツ 倒壊しづけた
いちじかんスマホで暗闇をみた、孤独じゃない
青すこしで
ベッドを降りてイヤホンを取りに行きたい
そうする必要もない
最果タヒは魔貫光殺砲だろうか
そもそもあのまつすぐの光線はいいとして、外側のねじねじはなんだろう?
ピッコロは何をおもい
鳥山明も何を思っていただろうか
固いものを貫くのはねじねじだな!と思ったのだろうか……
あのねじねじは一体なんなのだろうか。
あの外側のねじねじのせいで魔貫光殺砲を僕は
80になってもWhen I’,m…笑み。

ホウセンカ
弾けた口蓋を拾い集めている
ひる郵便局へ
ひざすが
あたかった
ヒトテマは定休日、ますたにへ
お腹も満たされると
さらに気持ちよくなり空っぽになって
なにか不安ごとを思い出そうとした

大黒屋の前で
アンダースローは2/4にみとけばゃかった
帰宅して夕方まで昼寝
いったん起き、マットレスを180度横転回し
また寝る
腰にあたるバネのひとつが新鮮になる
16時過ぎもそもそ起き
出かけ
会社、folkloreを聴きながらひとりですこし仕事
おもったよりやはく終り、
時間をもてあまし、歩く
たれそかれそで
顔を見てしまう、知り合いと思いそうになる
イートインみたいな心があふれてた
降りる駅も乗る駅も言えない人生がある
いらないなら裏返したコップのすいぶんの
しみたてねぐいの水まで吸いきろ
三月書房で現代詩手帳2月と通勤電車で読む詩集を買った
鈴木志郎康さんの終電車の風景が
どんな感じに載ってるのか
(そのまんま載ってるんだよ!)気になって。
シンシンドウで読む
死ぬまでに私はどこそこの電車に乗る、
と書きたいなとおもう。
そのカッターで切り傷がないと不機嫌なホモソーシャル

ばす
キッズウォーの副題
ざけんなよは
〜で囲むほどのことだったか
と思いながら鍵をあける
コンビニのパスタとピザまん
現代詩手帖が難しすぎたりして
論考?どれもよくわからない
雰囲気でよむ
0時前、ぐーすかを3粒飲んでふとんにもぐる
新人欄はネットで名前を見る人とかも
いるんだな、とおもう

ポランティアとポテスタス?
踊る大捜査線2の地図を書き込んでいくシーンは
どっちなんだろう
キッチンのドアのとこで
明日話すことを少しおもった
reなみだとほほえむ


バス

2020年07月20日(月)

バス停はだいたい斜に立っている。のってて、とまったとき、なんとなく目をあけて反対をみると、降りてる人が見えたりする。降りてあるいてる人をみると歩幅でばらっとなりながら、まだ同じ道をあるいてる。そこに見えてない人というか、いない人の割合を考える。暗数のことを考える。その暗数、暗渠になる日を考える。ひきこもってる人とか死んだ人とか追い落とされた人とか競り負けた人とかいろいろあるが、効率でみると(効率でみても、というべきか)、日本は歩留まりが悪いなといつも思う。殺して生きてる、剪定して整枝して。そこに行って、そこに行った人の膨大さ(21エモンのゼロ次元)、最後までそことここが繋がりながら通信したまま終われる場所について考える。


コロナ覚書

2020年07月17日(金)

ローカルの日記はつけてるが、もう少しながスパンでコロナという観点からまとめて振り返ってピックアップしておく。

仕事は週3〜4日になった。
21日出勤9日休みだったのが、15日出勤15日休みになった。
給与は政府の補助金によって補償された。
4月ごろのものにも遡って適用が効いたため、そちらも事後的に補填されることとなった。
出勤体制も半分になったが、出荷も低調なために、なんとかなっている。
仕事はずっとこのままでいいと思ってしまう。
また以前の出勤体制になったときのストレスが心配。

メンタルについて
コロナで緊急事態宣言が出て世界が変わる、元には戻らないと喧伝されていた頃には
クライドワークスに登録してみたものの、気後れしたのとスキルのなさに絶望したのもあって、結局本を読む時間に充てた。昔よめてなかった本(東浩紀の編集してる雑誌、ゲンロンとか思想地図とかそういうの)臆面もなく読む時間に使った。
物資の枯渇についてはどっしりと気構えたつもりだったが、事後的にはやはりテンパってたとしか言いようがなかった。買い溜めこそしなかったがホットクック、iPad mini、ヨーグルトメーカーなど、家ごもり仕様の装備を整えた。
消耗品は1〜2ヶ月は保つように揃えていた。スコッティ(トイレットペーパー)の75m4ロールがまったく入荷されないので50m6ロールで妥協してしまったりした。
元にはもどらないとして、かといって心境的には先にも進めないといったところ。
つまりダブルインカムのために忠実に労働に体を売る方向はまっぴらだと考えている。だったら最悪お金にならなくていいから、クラウドワークスのときと同じく、できた時間を好きなことを充てよう、そうやって何かと繋がろうという方向に向かいつつはあるかもしれない。
働き方というより、本来何がしたかったかという役割の見直しのほうに焦点が向かい始めている。
あとはもう一回ぐらい緊急事態宣言になってもいいと思ってしまう。なんかいろいろなことが「これぐらいでちょうどいいのでは」と思ってしまう。それはあまりに人の人数が見えていないのかもしれないが、この日本で日本の人数をはっきりと意識下に置いている人などまずいないだろうし、余分に思いを馳せることでそういう発言にブレーキをかけているのだろう。わたしも余分に想いを馳せるなら、そう言うだろう。でも本音はもっと人は…。

最近おもいだすもの
ズートピアの未公開映像のTaming Party
子熊がそれとしらずに威嚇防止用の制電首輪をよろこんで取り付けられるというシーン。(この設定の)ズートピアの世界では、様々な動物が共存しているが、そのために肉食動物には本能暴発防止用に首輪がつけられ、威嚇動作を行うと電流が流れるようになっている。
これを人間の世界に置換すると、防犯カメラやSNSもそこそここれに近い効果を持ち始めている。
そもそもは放逸への恨みだったようにも思う。そのクラファンが達成され、現代2020年が出来上がっている。監督万歳の喧嘩セックスみたいなことが出来なくなってきている。
よわい人にとっちゃ、いい時代っちゃいい時代だが、自分たちはそこまで届かないし、っていうタイプの見限りが繁茂しすぎて伸び方が最初っから剪定されすぎてるから人の伸びしろの淘汰、デジタル化が進んでる気がする。だから弱い人とクマ的な人とのあいだにいる漁夫の利的な人ばかりがグーンと暴利を貪っているが、ひとあたりがよすぎてそのへんみえてこないっていう、どっからも開けられない箱みたいなひとがでてきはじめている。終わりの始まり感。


21エモンのゼロ次元の恐怖
夏休みの再放送で見た記憶があるが、体から目と口だけを飛ばして生きていける技術をもった星があって、体はAIが管理してくれたが、ある日AIが「体いらんやんけ」と判定して、全員の顔のない体(椅子に座ってる)をベルコンでゼロ次元というブラックホールみたいなところに送り込み始めてそれをエモンが食い止める…みたいな話だったかと思う。最初のうち目と口だけの人が「体に目と口つけてやんの遅れてんな」ぷげらしててあとからエモンに頼る感じとか情けなかったが、現代社会のSNSってこれみたいだなと思う。さっきの話と同じで、ようは自分たちはそこまで届かないっていう放棄というのか、願望のネグレクト?放逸のネグレクト?のようなものがあって、管理に対する従順さと抵触しない高さへの信頼感、今後抵触する高さの変動の管理をされるという将来への見通しまでは勘定に入れなくとも死にきれるという謎の自信や安定感。



生活のルーティン
5時半〜6時起きる朝飯食う
7時風呂入る
8時出勤
9時〜18時仕事
19時帰宅飯食う
19〜22、スマホ(Youtube)パソコン(日記、ネット)布団(本)
22時就寝

おもんなっ!


概況
4月ごろは人が少なくてほんとよかった。毎日土曜日感があって開放感があった。出勤してる感覚もなく、下り坂で自転車をほっといてシャーンと走りきったりできた。6月の途中からワッと制服が満ち溢れ、一気に現実に引き戻された。6〜7月は日照時間のせいか気分の落ち込みがあって、だんだん人が怖くなってきた。睡眠時間も少し減った。ZINEというか、個人誌をつくろうとしている。そのために?iMacも買った。

今年は凶区を全巻揃えたい。今朝数えたら創刊号、9号、18号以外は揃っているので、のこりを収蔵している図書館に出向くか複写依頼をかけるように調べを進めていく。


今年の目標
1個人誌の発行
2凶区をそろえる

今年〜来年の目標
3家を買う(店にもできそうな場所をえらぶ)


こんな感じでやっていきたい。
店は教会の告解室のようなところにリソグラフを置き、
対人恐怖症の人でも出版が楽しめるというような店にしたい。
基本はパンフ置き家で、そこでコーヒーがちょっと飲める
壁際に一枚板の机があり、一蘭システムのしきりがつけられ
脇見恐怖の人はベニア、しゃべりたい人はアクリルを渡す。
店長であるわたしはねこちぐらを被っていて
前面はマジックミラーになっている





すー

2020年07月11日(土)

深夜起きbetcover!!のインタビューを読み、小袋成彬のWikipediaを読み、中高野球部だったと読み、野球部って人間ES細胞だなとおもった。
街ですれ違うサラリーマンにしろ、以外と体格のいい人の率が多い気がして、率でいうと、わたしみたいな小さなひょろっこい人間の数年後は暗数として街にいない気がしてしまう。なんらかの故障が生じたりして、みんな暗渠に流れていってしまって、バスの窓から見る、対向車線のバスから降りる人も、暗数があるのだと最近よく思うようになった。その数の多さは小池百合子が勝つのにじゅうぶんで山本太郎が負けるのにじゅうぶんな暗数でもありTwitterで何かが変わるかもとか投票所の列を写メってた人間のあさはかさを思い知るのにじゅうぶんな暗数でありすずさんの終戦の怒りと宮沢賢治の修羅程度でありそんなものを怒りだと思っていたあなたたちへの暗数であり暗渠であり
暗渠暗数にそのうちいく人として、21エモンのゼロ次元みたいな場所?に眼も鼻も口もつけたまま?
風呂につかった。排水溝の毛の上に使い捨てひげそりのプラスチックカバーが落ちていた。実家の風呂はつかるとよくあふれて、排水溝のけむけげんが浮き上がって風呂の壁沿いをシャーンと走っていって、コーナーをまたシャーンと曲がっておもしろかった。
ああ、タイトル。小袋成彬を聞いてもう始まった瞬間にすーをさしあげますと思った、と書こうとして変な方向に書いた。
暗数の話にもどると、かといってそこが外からみての暗渠であって、暗渠を肯定的に捉えるかフラットに捉えるかで、いつか「伏しやすいように」という詩句があった。そのようにおもえるようになって「おきたい」。


ふきぬけ

2020年07月08日(水)

祖母宅の台所は吹き抜けだった。台所に向かうと左上から明り取りの窓の光があり、真上にも明り取りがあった。上の明り取りは透明のトタンだった。換気扇のひもをつたってねずみが出入りしていた。

午前中無人の祖母宅に行くとその光のあたりかたと静けさがよかった。細く渡してあるビニール撚り紐に手ぬぐいが何枚か干してあった。床は緑色に白や青いい筋が斜めに走ったリノリウム状のタイル(30cm四方)で張り合わされ、ところどころたわんで浮いていた。後ろの柱にはほおづきなどを挿す細長い花生けがあった。お寿司についてくるような飾りのプラスチックの梅の花と枝みたいなものもずっとささっていた気がする。柱にフックが刺さっていて、穴の片方が引っ掛けられて開いたままになっているはさみが掛かっていた。すりカラスの戸棚(となだ)があり、たまにお菓子が入っていた。

黒電話があった。いつからか壁掛けになったが、もとは靴箱兼工具棚の上にあった。途中から時計が横に来た。百式みたいな金色のプラスチック製で、原器を覆うような透明のカップを被せられた時計の下の部分には、旋回するカップ式の風速計のような飾りがくるくると、360度を回りきった反動でゆっくりとまた反回転し続けるといった具合になっていた。その時計の土台は臙脂色のプラスチックで、時計の隣のスペースに受話器の凸部分をちょうどおける部分がスイッチ式にへこむようになっていて、そこに受話器を置くとイエスタデイの単音の電子メロディが相手方に聞こえるようになっていた。そのうち時計と電話は分離し、土台は消えた。時計はテレビの横に行き、黒電話は壁に掛かった。

ねずみはたまにねずみの粘着シートに引っかかっていた。片面がびっちりつき、歯をむき出しにしているねずみを、祖母は青い取っ手付きの、花火の火を消すようのバケツに水を張って沈めていた。


グレープフルーツ

2020年07月07日(火)

祖母にはブームがあった。祖父母宅の平べったい引き出しのふたつある木机、高さは80cm程度、幅は120cm程度、奥行きは40cm程度だったかと思う。それが壁に取り付けられた給湯器の下に、壁沿いに置いてあり、その机の右がシンク。いつもべこべこの金盥(直径35〜40cm)のものがあり、うすく水が張られていた。シンクのふちにはアルマイトのコップがあり、そこに入れ歯が洗浄剤の水に漬かっていた。机は、内寸高さ10cm程度の引き出しが2つ横に並んだもので、中には包装紙を切ったような紙が敷いてあり、箸やスプーンやストローが入るような感じだった。その机の引き出しの下はいつも陰があり、そこにはキッチンハイターやたわしとぬか漬けのぬか床があった。ぬか床がいつの間にか終わり、ヨーグルトきのこブームになり、グレープフルーツブームがきて、キシリクリスタルブームがきて、バナナブームがきて、だんだん食べ物をダメにしはじめて、特養に送られた。
グレープフルーツをやたら買ってきて食べ方を教えると言われ、何度もレクチャーしてくるので「知ってる知ってる」というと「知らへん知らへん」と言われた。食べ方といっても、真っ二つにして、断面に砂糖をふって先割れスプーンで皮のすぐ内側からざすざす円く削っていき、身と皮を切り離してから、一口ずつ食べるだけなので、そんなに何度も教わることでもなかった。
あとキシリクリスタルブームのときは、ハーブの飴のあいだにミルク味が挟まっているものをやたらと買ってきて「ねぶるか」「ねぶりや」と言われた。祖母がそんな科学みたいなやつを好んで食べるのが少し幻滅した。
祖母はよくひとりごとをしゃべった。ずいきを買ってきて「切ったらかわいそやな、あ、でもこっち切ったあるから別にええんか」とかひとりで台所で言ったりしていた。
祖母はいつもあっぱっぱを着ていた。老人会かなにかの「れせぶしょん」で阿闍梨餅をもらってきて、あゆを買ってきて、水無月を買ってきて、551を買ってきて、551はいつも持って帰る時間を長めに告げて、ドライアイスをもらってきてくれた。そのドライアイスを金盥に入れてもわもわするのを好きだった。吸うと薄い酸素の酸味のようなにおいがした。もやを手で払って、煙のたまった白い泡を眺めたりした。薄いドライアイスが走りだしたり、スプーンかなにかで押さえつけて反発するような感じになるのを楽しんだ気がする。
祖母は戸棚をとなだと言って、となだにおまんはいってるえとか言った。親戚がくるとバヤリースだった。送り火のときは護摩木を炊いた。路地に草木を植えていた。山椒、都忘れ、くちなし、ヒメヒオウギ、あとはカラなんとかいうのを植えていた気がするがおもいだせない。あとは記憶にないのも色々植えていた。山椒以外、収穫できるようなものは植えていなかった気がする。くちなしのあった頃は土の中にスズメガのさなぎがよく入っていた。よく掘り起こして虫眼鏡で焼いたりスコップの先で割れない程度に力を集中して律動するのをみていた。あのころはなんでも焼いていた。クモもアリもダンゴムシもヤスデも虫眼鏡で焼いていた。何歳か思い出せないが、15歳〜25歳までのいずれかの時期で焼いていた。あの頃はなぜか殺意でいっぱいだった。言葉で出てくるものはすべておどけているのに、していることは虫を焼くことばかりだった。しゃがんで焼いていると、日差しで後頭部がやけてきて、余計に朦朧とした。
祖母はこんな優秀なあなたを(社会が?会社が?)見つけないのはおかしいとか、そういうことをよく言っていた。ということは、ひきこもってた頃だ。その優秀というのもチャンネルを押し間違ってビデオ2とかになって真っ黒になったのを戻したとか、そういうレベルのことでそういうことを言った。
小さい頃、祖母にいきなり「ぼく力めっちゃ強なったんやで」と言って背中を思いっきり拳で叩いたことがあり、それで祖母が痛い顔のまま口を開いて止まってしまった。その晩、うすぐらい部屋で座椅子に座った祖母がギョロミーバ(蛍光緑のスライム状のおもちゃ)を口からだらだら吐いているのを見て怖くなった。




hiki

2020年07月06日(月)

ひきこもってた時期がある。いつかみた定義では「立ちすくみ型」「享楽型」に分類されるようだったが、主観的にはひきこもりだった。毎日パソコンで日記をつけ、ネットを見ていた。
無限回廊やサイコドクターあばれ旅や汎適所属や詩のサイトや2chやアングラその周縁を見ていた。テレホーダイにより昼夜逆転していた。タブブラウザでテレホが終わるまでに読みたいサイトを開きまくり、オフラインで読み耽ることが多かった。
2chではマカ板、ひきこもり板、ソフトウェア板、ヲチ板、実況chをよく見てた気がするが、そのつど興味のある板を見に行ったりもした。基本ROMだった。
ひきこもり板はよく見た。ひきこもり板といっても論争というかあおりあいというのか、スレが紛糾することはままあった。そういうのが終わるのがなんだかんだいって明け方ごろで、そのころになると、その紛糾になじめなかった人たちが「.」とか「a」とか書き込み始めるのをみて、ROMの私は嫉妬していた。板のななしのデフォルトが「(‐_‐)」こういう顔文字付きなので、みんなこういう表情で書いてるイメージに思えてきてしまうのだが、この顔で書き込まれる「.」とか「a」も、人間味のようなものが感じられて、嫉妬した。たまにスレの流れと関係なく田舎の高校生がラブホではじめてセックスして事後に寝ながら一緒に撮ったツーショット写メみたいなやつが流れてくると「(‐_‐)」が「こういうのすき」と書いていて、その素朴さに嫉妬した。
ちょうどNHKか教育テレビでひきこもりサポートキャンペーンがあった。上山和樹さんや斎藤環さんがテレビに出ていた。にんげんゆうゆうのオープニングがグッチ裕三で、たまに泣けた。母は長田の本を買っていたり、どこかの作業所に行って箸置きをもらってきてそれをチャック袋に入れて食卓に置いていたりしたが、そのことについては何も言わなかった。失望した。
関西では毎週火曜日か水曜日の深夜にスタートレックヴォイジャーが放映されていた。ジェインウェイ艦長とセブン・オブ・ナインのやりとりを見ていると自分を見ているようでつらかった。途中から見たり、寝てしまったりで、全話見ることはできなかったが、U.S.Sというあらすじが紹介されているサイトで台詞を読み直したりした。セブンが艦長に「なぜ私を束縛するのか? 私をおそれているのだろう?」と言って、艦長が「そう思ってなさい」と突き放すシーンが特に記憶に残っている。
40年経って、もう孫がいて縁側にいる状態になりたいとよく思った。自分がどうやって面接を受けて会社に行って金をもらって生活していくのか、まったく見当がつかなかった。死のうと思ったことはなかった気がする。祖母の家にあった少年少女世界文学全集を読んだりした。あとは家庭の医学の1000ページあたりから、つまり性のあたりからをよく読んだりした。
包茎関連のサイトをよく読んだ。武藤だか衛藤だかいう人がよい子という名前になっていい人になっていくのをみた。自分でも包茎リングを作ってバージョン3ぐらいまで作った。
Tclockスレをよく見ていた。HSPやデスクトップカスタマイズ、HTMLやCSSなども。とほほさんや徳保さんの趣味のWEBデザインを読んだりした。
めざましTVのいってらっしゃいでいっていかず、とくダネを見て、つっかいエッブリディをみて(男が喋りでどこが悪いねんが好きだった)関西青少年育成事業団やあらったくんやかおりちゃんやレイシエスモンや美粧館やKIDSやKYKのCMをみて昼前のニュースを見ていいともを見てぷいぷいをみて夕方5時25分ぐらいからハイジやフランダースの犬をみてゴールデンタイムは見ずにパソコンしてずっとそのまま深夜の映画をみてエロいシーンがあればしこり(タイトルであたりをつけて待機)明け方に寝る、基本そういうルーチンだった。ひとひらの雪やくノ一忍法帖や内田裕也が焼却炉に背中を押し付けられて死ぬやつとかヒ素のお香で殺すやつはエロかった。シッピング・ニュースも最初の一瞬だけエロかった。あとは3人ぐらい黒服が連続で犯して最後の奴が犯した女の髪の毛を切って膣に押し込むやつや子どもが木の箱に乗って馬とやって、やったあとなんか爪のあいだのごみをいじってるようなやつやライカ犬のやつはなんか健全なエロさだった。エロ基軸でしか映画は見なかった。ギャビーというやつは障害者同士がペッティングするシーンがあったりして、愛と青春の日々という映画はタイトルでエロいと思ったらいっこもセックスするシーンがなかったりした。



つづき

2020年07月05日(日)

応接を抜けると食卓がある。台所と背中合わせで、台所の角に冷蔵庫があり、冷蔵庫とコンロの隙間にペダル式のゴミ箱があった。コンロは途中から火がすかなくなり、ガスをすかした状態で、毎回チャッカマンでつけるようになった。ボンッと軽く爆発したようになるので、知り合いからは怖がられた。食卓の裏側には階段と、階段の下の斜めの天井があり、そこには低い棚(CDや薬箱と大量の古い宝くじと写真や古いたまごっちや精密ドライバーやなにかの部品があった)とラジカセが置いてあり、毎週日曜日にはFM802がかかっていた。その左には食器棚があった。食器棚の上にはゴミ袋に包まれたミキサーとホットプレートや寿司桶や鍋の具を置く水切りのある大きな容器があった。その左にはトースターやコーヒーサイフォン、電子ジャー、計量機能つきの米びつを兼ねたラックがあった。米びつの左にマグネット式の戸棚があり、ここにエンゼルパイといった菓子類があった。その左にはうちわや映画のパンフレットを差し込むフック状の紙差しが引っかけてあって、いつもほこりをかぶっていた。その下の床には紙袋だけを差す紙袋があった。その左にはスリッパがあり、そこから一段上がると「こたつの部屋」があった。こたつの部屋には畳敷きで、リバーシブル天板のこたつ机が中央にあり、座椅子が2つか3つあった。背もたれのない人はそこに座り、残りの2人は背中にあるタンスや壁にもたれてテレビを見た。ここが事実上の「茶の間」で、ゴールデンタイムになると、ここで世界まる見えや若者のすべてや王様のレストランや古畑を見た。世界まる見えでセックス特集があったときに、両親が「こんなん放送してええん?」と動揺していたのを憶えている。弟はまだ意味がわからず「おにいなんでしゃべらへんの〜?」と言っていた。わたしは黙って勃起していた。これは今ならXVIDEOSでCOME INSIDEで検索すると出てくる番組であるが、これ以降まんこ側とちんこ側にカメラをつけて撮影するというエロがほとんど刷新されていないことをどう考えればいいのだろうか。

わたしは若者のすべてを見ながら、遠山景織子のことを小島奈津子に似ていると母に言って、母に「どこがにてんの」と言われてたが、まだこの頃はフラットで、ふつうだった。何もかもよかった(気にならなかった)。

不景気はあるのかもしれない。父がバブル崩壊後にデザイン事務所から独立し、そのときの同僚とふたりで有限会社をおこしたものの、(内実は知らないが)うまくいかなかったため、母は父をよく詰っていた記憶もある。小さな声で「…どうすんの」ばかりが障子越しに聞こえる。

夏休みには毎年母の田舎に家族で帰省して二週間ほど過ごした。ある夏、帰ってくると父が財布がないと言い出して、大騒ぎし始めた。部屋が荒らされたように見えたらしく、泥棒が入ったのかもしれないと動揺し、母に怒鳴り散らし、部屋をうろうろしながら「警察よばなあかんかぁ?」と漏らしていた。もうしばらく家族で部屋を捜索すると、父が棚の裏に滑り落ちていた財布を発見し「あった!」と心底安堵した顔で家族に報告したが、このあたりが決定打だった気がする。自分の家族にオリセンがあるとしたら、ここだと思う。

ただ父も、今こうやって書き出してみるととても被害妄想的になっていて、おかしくなっていた気がする。この前後に父は母に何を言われても電話先の取引先と喋るように大きなハキハキした声で「ハイッ」「ハイッ」「かしこまりましたぁ!」と返事するようになったり、かと思えば急に何も喋らなくなって、ドアの締め方や歩く音がキツくなる時期を繰り返していた。この頃はとても不安だった(急に殺されたりしないか)。そのことについて、弟とも母とも何も話した記憶がない。どうしていたのだろう。

母は専業主婦モデルによりかかりすぎていた。父に経済的な問題をすべてなげた(とはいっても、そんなに専業主婦であれた時期は長くなかった)。父は楽天的でストレス耐性がなく、今思えば暴力は振るわないものの、話し合う素養がなかった。言葉がでてこないタイプだった。夫婦には話し合う習慣がなかった。お互いがいたわり交渉でものごとが決まるようなところをみたことがなかった。いつも何かが決まっていて、いつも母が父を詰り、父はおかしくなり、わたしは不安だった。父は母が好きであるが言葉がなかった。このころ、黒いおしっこが2回出て、朝、急に息が吸えなくなって父に背中を押されながら走って、物干し台で空を見た瞬間に治るようなことが2回あった。黒いおしっこのうち一回は父とお風呂に入っているときに排水溝に向かってしたらその色だったので驚かれた。ある日曜日の昼間、父がスーパーファミコンをしていることがあった。父がゲームをしていること自体が珍しかった。父は、わたしが友人から借りたGS美神を一心不乱にプレイしていた。その背中をみて、ひとことも話しかけられなかった。

家が二階だけだったころ、母はファミコンをやり込んでいた。記憶では、ボンバーマンのポンタン(時間切れになると出てくる最強の敵キャラ)を、最弱の状態ですべて倒したりしていた気がする(微レ存だが記憶ではこうなっている)。母はボンバーマンが異常にうまいという記憶しかない。わたしはホッターマンの地底探検をクリアできないままだった。家にあったファミコンソフトを思い出せない。ボンバーマン、スーパーマリオブラザース、ホッターマンの地底探検しかなかったと思えるほど、それ以外の記憶がない。当時ファミコンは友達の家をはしごして遊ぶもので、飽きると走って次の家に行って、途中からおにごっこや高鬼になって必ずしもゲーム=TVゲームというわけでもなく、そのときどきの集団の気の振れ方で、夕方まで走り回っていた。友人の家にはスーパーチャイニーズ、グーニーズ、コナミワイワイワールド、ダックハント、怒りのキングコング、マリオブラザーズ、いっきがあった。少し進んだ家にはパソコンのスーパーマリオブラザーズ2があった。学校ではドラゴンクエスト、ファイナルファンタジー、ドラゴンボール、とんねるずの話が、日をまたいで継続する話題だった記憶がある。わたしは7時半に寝る生活を送っていたので、とんねるずがわからなかった。ドラゴンボールはたまに買うジャンプとテレビでかろうじて話がわかったが、DQとFFはまったくわからなかった。DQ3は遊んだのだが、装備の横につくEの意味と装備の概念がわからなくて、おそらく素っ裸のまま行けるところまで行って死んでやめてしまった。大陸間をワープするところまでは行けたが、ストーリーがまったくわからず、途中でやらなくなった。人の家で見るドラクエは不思議なところまで進んでいて、みんな島の名前を決めるとか言っていた。悔しい気持ちも劣った感情もなかった。少しするとアーケードゲームが置かれるようになる。小学生だったので、繁華街の、不良や青年がたまるゲーセンという概念はしらず、小さなおもちゃ屋の前に数台置かれるものをたまに友達と遊んでいた。お金をつぎ込むことはなく、硬貨一枚でゲームオーバーになるまで遊んだ。

母は数年ぶりにパートに出て友達ができて急激に明るくなった。わたしはこの母の変化についていけず、不気味で、怖かった。今思えばこの母が元々であって、わたしが生まれて十年前後の母はずっと疲れていて、落ち込んでいたのだ。

ある日、ベッドにカッターナイフの刃があった。慌てて一階に駆け下りて、こたつの部屋でテレビをみていた父の股ぐらで丸くなった。父は急にあまえたみたいになったわたしを「しゃあないやっちゃなあ」という感じでなでたかもしれない。

中学校以降は、あの家にいたのに、家にいた記憶がない。私はいつも真昼の近所の路上にいて、マンホールを眺めている。マンホールからベータを出せると思い込んでる。ベータを出せるから大丈夫だと言い聞かせている。ベータで全員を焼き殺せるから今を耐えろと訴えかけている。

私は破瓜型の統合失調症になった。というと極端すぎるのかもしれないが、16歳ごろに少しあたまがおかしくなった。教室で、頭から自分の考えが漏れ出ている実感があった。そして周囲がそれ(考えのふきだし)をみて笑うので、わたしはもう授業を受けることができなかった。わたしはあんなに毀れていたのになぜかふつうに過ごしていた。髪の毛をほとんど切らず、冬もTシャツで過ごしていた。メガネは壊れていた。テストや提出物の「書ける場所」はぎっしりと書き込んだ。所感、感想、自由記述欄では書くことが溢れた。英語のテストで死んだhideのことを書きまくって心配されたりしていた。


二階には布団がなくなり、二段ベッドが登場した。その二段ベッドも程なく分解された。



二階だけで暮らしていたのはいつまでだったのだろう。少なくとも北斗の拳の再放送時にはまだ二階で暮らしていた記憶がある。家にいたときの弟の記憶があまりない。

私が精通する頃にはまだ一階はなかった。
小学6年で私設の英語塾に通ったが、そのときには一階はあった。
ということは10歳〜11歳のあいだに一階はできた?

わたしの一家は全員喫煙者だが、誰もお互いにタバコを吸っているところを見たことがない。そして全員やめている。お互い形跡とにおいで事後的に知るばかり。わたしは全員の喫煙歴を知っているが、わたしの喫煙は母しか知らない。そしてわたしは母から喫煙していたことを聞いたことがないのに「タバコやめたほうがええよ。私もやめたんやから」と聞かされたりした。なぜ母は、わたしが母が喫煙していたことを知っていると思ったのだろう。話してはいないけれども、うすうす気づかれているだろう、という前提で、さらに時間が経ってからすこしずつ混ぜながら話してくる母がきらいだった。死ねばいいとすら思う。できれば国に殺処分してほしいとさえおもう。母の、そういった隠し事の形跡をうすく塗り重ねてわたしに気づかせていく行為。それとセットの、あとになってから言語化してくる行為。これのために、幼い神経がいらぬ方向に伸び、そして摩耗した。このような行為をひけらすたびに、母に怒りのようなものがこみ上げた。私が生きることを遅らせた怒りだ。未だに母はゆるせない。男だとか女だとかをかなぐり棄ててでも罵倒して追い込めないものだろうか。寝たきりになっても介助して和解などせず、長男だからという理由で家を直させられることなどあれば、眷属もろとも消滅するように覚悟している。





おーはらおーはら

2020年07月03日(金)

近所にはスーパーマーケットのジャスコがあった。一階が店舗で、その上に10階ぐらいだろうか。マンションになっている。いつか屋上にのぼったことがあった。誰かのコネでそこから大文字をみたけど、エレベーターが怖かった記憶がある。一階の左の角、現在ピザ・リトルパーティーの場所は更科だったろうか。ピザ・リトルパーティーの略称はリトパではなくピリトだと、口角泡を飛ばしながら友人に訴えてかけていたあの夏空の下。右の角には薬局があるが、昔はカメラの現像屋だった気がする。ひさしが黄色かった記憶。あるいはそこからラーメン屋などの飲食店が数店入居する狭い道がL字に続き、ジャスコビルの横に出るのだったか。それはジャスコと駐車場を挟んで右隣のビルだったかもしれなくて、思い出せない。ジャスコから十数メートルのところにかしわ屋があり、いつもショーケースにおがくずがあり、そこに卵が並べてあった記憶があり、そこの店の前には絶対お金を入れたくない細長い古ぼけた自販機があった。

ジャスコの前は昔から駐輪スペースで、両端は駐車スペースだった気がするが、中央はジャスコの入り口、両端は西に更科と、東にカメラの現像請負だった記憶がある。そしてカメラの前に毎週(あるいは毎日?)大原女がやってきて、つづらとリヤカー、あるいはつづらのようなリヤカーを牽いてきて、リヤカーを引き手をかたむけて置き、そこでなにかを売っていた。なんだろう。野菜だろうか、樒だろうか。当時はなんとも思わなかったが、今思えば相当な距離を歩いてきていたのかもしれない。そのジャスコの横で売るという発想や契約(連綿と続いてきた約束?)のようなものはなんだったのか。話しかけたことはないが、全員が話しかけた気になっているような存在で、母は科学少年センターでもらってきたひよこがにわとりになってうるさすぎたのでその大原女に引き取ってもらったことがある。

青少年科学センターというのが藤森にあって、そこで孵卵器のひよこをもらえるコーナーがあり、ひよこを飼うことになった。誰がほしいと言ったか憶えていないが、わたしではないことだけは確かで、そのひよこは我が家にやってきて10秒で重傷を負った。

親が床にひよこを置くと、ひよこは弟に向かって爆走し、弟はちゃぶ台の上にあがり避難した。そのとき四角いちゃぶ台は桐箪笥にくっつけてあり、箪笥には背もたれ用に30cm×30cmほどのクッションが立て掛けてあったのだが、それが弟の足に当たって倒れ、ひよこの上に倒壊した。クッションを上げるとひよこは「よ…よ…よ…」という感じでまぶたが下からあがって細眼になり、よたよたになっていた。慌てて手のひらにすくい、上だけ開いてるダンボールに敷き詰めたタオルの上に置いてうずくまらせた。デスクライトをダンボールのふちに噛ませ、光を当てて自然治癒力にまかせて数日すると、多少歩きに癖はあるものの元気になった。

そのあとはぐんぐん成長し、鳴きまくり、大原女と契約して持って帰ってもらった。わたしは持って帰ってもらう日が学校だったので、帰ってくるまで待って!と母に言ったが帰ってくると、もういなくなっていた。結局そのあとも大原女に聞いたこともなくにわとりのことは急速に記憶からうすれていった。ときどきそんなこともあった気がするだけで、小松菜をよく食べた気がする。




希硫酸

2020年07月02日(木)

体操がにが点滅している
「赤目はねこもくわんけえ」

毎年夏には田舎に行った。呉やだいたい海で泳ぐと帰りの海沿いの道に魚三昧とかいう山の法面に造られた、コンテナに青いペンキで魚の絵をいっぱい描いた細長い店があって、そこでなんか食べていた気がする。

新幹線に乗って、てんまやのビルのロゴがみえ、心の中で「てんやま、てんまや」と思い、おりて、城跡の石垣をなんとなく不穏な気持ちで通り過ぎてタクシーに乗り、その道の憶えているが新鮮な変な感じを慣れていくのだなと思いながら自由なのに知り合いなので安心している。
いつも「かっわらい」という看板を見ていた気がする。そうするとふたつある家(祖父の店舗兼住居)か叔父や祖母の店舗兼住居に行く。

祖母の眼は青いが理由は知らない。色黒で爪が常に黒いが、料理をされても気にならない。いつも炒りゴマとごはんとマヨネーズを混ぜただけのチャーハンみたいなやつがめちゃくちゃうまかった記憶がある。書いててふとそういうので人惹きつけるのは犯罪じゃないかとおもってしまった。でも子ども心にうまかったし、未だに憶えている。たしかその日、わたしは扇風機の電源コードを包丁でギコギコやって目の前に火柱が見えて(眼前まで火が迫ってきて見えた気がした)祖父に少し怒られた記憶がある。祖父の怒り方はあまりガミガミくどくどしてなかった。祖父はいつもつばつきのカーキ色の帽子をかぶっていて、白いランニングシャツ(タンクトップ)で腹がぽっこり突き出ていた。祖母とはあまり仲が良くないが、たまに祖母も来て、なにか食べ物や荷物を置きに来ていた。

金属バットの友保に似た女性を2回みたことがある。一回は叔父の嫁、もう一回は婚活センターでマッチングした女性だ。どちらも非常にさばさばしていた。嫌いでも好きでもなかった。

呉(ちがったかもしれない)で泳ぐとき、タンカーの真下の影みたいなところの穴場で泳いだのが記憶に残っている。タンカーは真っ黒だった。あとはギザミ(おそらくササノハベラ)を祖父が焼いていた。ギザミはうまいと言っていた。そのギザミという言葉をネットで見つけてやっとベラとギザミがつながって、あのとき食べたのはベラだったのかと気づいた。

大久野島に行ったり、廃校の宿に泊ったりした。朝早く校庭だった場所の輪郭になっている桜の木にカブトムシがいて、それを父に見せに行った記憶がある。そのときはまだ白く霧がかかっていた気がする。

田舎にいるときはいつも6時過ぎには眼が覚めて、勝手に鍵を開けて外を走り回るのが好きだった。視界がすべて少し群青色に染まっている気がして、涼しくて、戻ってこれるかどうかを少し試しながら道を折れて散歩(走ってた気がする)して帰って朝ごはんを食べた。

うちと違うのは、食卓に調味料の一部が常温で置いてあるところだった。ザブみたいな模様のクッションフロアで、部屋の端には梅漬のエキスの漬かった角丸の四角い容器がいくつか床に並んでいた。取っ手付きの蓋で緑とか赤の蓋だった気がする。鳩時計があった。ゲームボーイがあって、ワリオか忍空か夢を見る島をよくやっていた気がする。

田舎から帰るときに夢を見る島で、画面がスクロールする瞬間にセレクトボタンを押して全体マップを表示すると、リンクの位置が一画面ずれるというシンプルな裏技があって、それのやりすぎでソフトが毀れて画面がつかなくなった。それでソフトを開けて、丸電池のところに一円玉をセロハンテープで貼り付けて、それがずっとおもちゃ箱(衣装ケース)の中にあった記憶がある。



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