スリムクーラー1L



oya

2020年06月23日(火)

問題化



わたしの実家は父の母、つまり父方の祖母の土地に建てられた家であるが、現在は母がひとりで住んでいる。両親は離婚していないが、まず父がいなくなり、弟が働きに出て、さいごにわたし(当時35)が出ていった。食卓の四人がけは一度も揃った記憶がない。かといって親が忙しかったとかそれでわたしたちがさびしいということもなかった。ただなんとなく揃ったことがなく、なんとなく揃わなかったな、とおもうだけだ。いなくなった席の、椅子の背にジャンバーやマフラーや帽子、紙袋や折ったビニール袋を押し込み、それが当たり前になっていた。椅子とも思っておらず、ふとしたとき椅子だったと思い、さらに今書いていて、あれは家族四人で座るものだったのだと驚いているのだ。

ものごころついたときから母が父のことをどう思っているのかよくわからなかった。うすうす嫌っているのだろうとおもっていた。父は母のことを好きだった。そう言っていた気がする。台所で何かを刻んでいる母の後ろから父が抱きしめて腰を押しあてているのをみて、少し嫌なきもちだったのを憶えている。それは、父がそんなことをしてくるのを母が嫌だったからだとおもっているが、同時にわたしは、そんな母のことも嫌だったのだ。

そんなふうにずっと「おもいながら」過ごしていた、今も過ごしている気がする。

祖母の土地に建てられた家そのものは一軒家で、2階建てだったが、私の家は二階部分だけだった。階段部分の上に板で蓋をして、その上に冷蔵庫を置いて、下には別の人(高齢の女性)が住んでいた。わたしが小学校5、6年のころ、一階に住んでいた高齢女性が死んだ。すると、祖母と親族とうちの両親のあいだに話し合いがもたれ、何百万か(3〜400万?)で一階を買い取り、リフォームして(白くして)、やっと一軒家として、繋げて住むことになった。そこは元々祖母の土地だった。一階と二階は借家であり、両親は毎月祖母に家賃(良心価格らしい)を支払っていたのだが、このことを知るのは祖母が少しぼけ始めてから。私が二十歳をすぎてからの話だ。

今まで冷蔵庫の置いてあった床を開けると、一階への木の階段があった。冷蔵庫は、てかてかした、リノリウムのような質感の緑色だった記憶がある。テレビは枠が木でできていて、画面の両脇に黒いルーバーのような部品がついているイメージ。画面の横には、細長い銀色のチャンネルのボタンが、縦に並んでいた。とても浅くて、効きの悪いボタンがいくつかあった。そんな家電も、一階が繋がったときに買い替えて、なくなった。これらの家電の昭和らしさと、それがなくなって二階と一階が繋がったのが、ちょうど私にとっての「平成」の始まりの気がする。

二階だけの頃の間取りを思い出してみると、一応1LDKである気がする。一軒家の二階の横にドアを取り付け、階段を延ばして玄関をつくる。そこから入るとまず左手に引き戸の便所があり、便所の壁の右隣には物干し台に続く板張りの廊下がある。この廊下は、一階の瓦屋根の上にあり、物干し台と一緒に骨組みで固定してあったがいつもギシギシ軋んでいた。トイレの扉のすぐ右には、掃き出し窓があった(トイレのドアを開ける=右側に引くと、掃き出し窓の左端の裏にトイレの木のドアが出る構造だった)。掃き出し窓を開けると錆びた黒い手すりがあり、周りの家々の物干し台やアンテナや屋根瓦などの、家の内側ばかりが見える景色があり、さらに下を覗き込むと、一階の日が差さない中庭を見下ろすことができた。父は悪いことをすると、わたしたちを抱えて振り子のようにしてそこから外に投げるふりをした。一瞬窓の外に体を放り出されると、よく泣いた。

トイレには鍵がなかった。あおり止めの跡があったが、どちらかが抜け落ちていて、鍵をかけられなかった。とても狭く、勢いよく大をひねると水が流れっぱなしになるので、スニーカーの紐でタンクの中の浮きを縛って、水がたまらないようにしていた。最初はバケツをトイレの外に置いて流していたが、そのうち一階の便所が出来ると、二階は小専用となり、誰も流さなくなった。小専用の便壺は石灰化したり有機的な凸凹したり、さんごのようになったり、壊疽した皮膚のようになったりした。わずかな水(ほぼ尿であるが)も、季節によって変な色(茶色から白へなり、とろけてまた赤茶色になるといったような)になった。においはひどいとも思わなくなっていった。二階の玄関から階段が撤去されると、家の一番奥にある水の流せない二階の便所の存在感は急速に喪われていった。

4枚ある掃き出しのアルミサッシ窓のうち、左は物干し台の廊下へのドアを兼ね、右は物置のドアを兼ねていた(真ん中の二枚の先には手すり、下は一階の家のじめっとした中庭)。物置の壁は半透明のトタンで熱がこもった。ここに季節柄使わないものやレジャー用品、工具をしまっていた。ミシンや加湿器もここだった気がする。レジャー用品は、特に一度使うと二度と使わないことが多かった。スプラトゥーンで使ってるような水鉄砲だとか、マジックテープのぼーるがくっつくラケットとか、蛍光色のプラスチック製品がよくここに押し込まれ、数年で消えていくサイクルがあった。釣具などもここにあった。わたしたちは根がインドアにできてるのだ。

物置のところで、玄関から続く廊下がどんつきになる。右を向くとリビング?である。四畳半ほどで、外の階段側に板の間があり、床板の上にテレビが置かれ、テレビの右には背の高い、間隔の狭い黒いメタルラックがあり、ここに母の文庫本が収められている。上のほうは小さな恋のものがたり、右にはVHSのテープやVHS-C。その下の段には伊集院静や五木寛之やビートたけしや村上龍や柴門ふみがあったように記憶している。日本経済入門(石ノ森章太郎?)とか、すべての女は消耗品であるとか、背表紙のタイトルをおもいだしていくと、なんだかそのときどきのベストセラーっぽいような気がする。それ以外に雑多な本。のちのち人間交差点とかガラかめの文庫とかも増えた。中段には漫画があった。うちはなぜか途中の巻しかないことが多く、ブラックジャックは2巻(座頭医師?)、アラレちゃんは9巻あたり(とんでハネムーン?)まで、ドラゴンボールは歯医者さんが改築するときにもらったボロボロの2巻を起点として前後をすべて揃えることになる記念碑的漫画作品だった。ここにはクレしんも30巻あたりまで、少年アシベ、ちびまるこちゃんも10巻あたりまでおかれる。最下段は大きく間隔がとられ、そこに昆虫や魚介の図鑑類、ウォーリー、母が嫁ぐさいにもってきた人形のつくりかたの本、アルバムなどがしまわれていた。テレビの左には間がない床柱があり、地袋があり、壁には掛け軸を掛けるスペースがあり、そこに「完走せよ/人生という/長距離を」と達筆で書かれた額縁が飾られていた。誰の書かは知らない。床はビニール製の緑、白、黄色、青を編み込んだゴザのようなものが敷いてあり、すべての端は押しピンでとめてあった。テレビと向かいの壁は大きなタンスが並んで置かれていた。これは母が親にもたされた嫁入り道具だった。このリビングを抜けると引き戸があり、抜けると食卓。ここは2、3畳。小さな窓がある。この頃の食卓は思い出せないが、ガスコンロが窓側にあり、冷蔵庫は部屋の角(一階への階段の上)にあった。椅子はいくつあったのだろう。この先にアコーディオンカーテンがあり、開けると寝室がある。右手に押入れがあり、左手にはタンスや姿見がある。通りに面した東向きの窓がある。寝室にも、さっき言ったビニールのゴザみたいなやつが敷いてある。下は畳で、その上から湿気吸いの紙が敷いてあった。たまに寝転んでその端を見ることがあった。寝る時は、布団が並べた。日曜日の朝は、母が象のような形をした布団乾燥機で布団に空気を送り込んでいた。それを邪魔するというのか、はしゃいでいた記憶がある。全体的にあたたかい印象がある。ここも四畳半ほど。二階しかなかった頃はここに三人で寝ていた。ここに二年後、弟も参入することになる。私が憶えているのは、ここで弟とふたりで寝るようになったこと。父と母はテレビの部屋で寝ていたことになるが、その記憶はない。

弟と寝る時は枕元にラジカセが置かれ、寝るまでテープがかかっていた。聖剣伝説のサントラ、大都会(クリスタルキング)、チャゲアスの僕はこの瞳で嘘をつくなどが有名。選曲には母の好みもあったのかもしれないが、ハモリをさけるチーズのように頭の中で剥がして、こっちのほうだけ聞こうとか、やりながら聞いていた気がする。

つながった一階の間取りはどうだったろう。

もともと一階に住んでいた人はおばあさんだった。リフォーム前におりたときは、土間のある漆喰の古い家だったのだが、母の意向で、壁はすべて白い織物調の壁紙に張り替えられ、玄関は黒い敷石が詰められた。応接間が設けられ、絨毯とソファとトーマス・マックナイトの絵が飾られた。そこは生活空間ではなく、家庭訪問で先生が来るとか友達とゲームをするときに使う場所になった。そして数年後に、わたしが寝泊まりする場所となった。わたしはソファで寝るのは坂田師匠やと友人に言われ、そうか、わたしはアホの坂田といっしょの暮らしをしているのかと思った。今思えば居住空間に理念がないというのか、応接間など必要だったのか、それよりも子ども部屋がほしかった気がするが、両親は弟に部屋を与え(後述する寝室)、わたしにはなかった。

テレビは一階の応接間にブラウン管の大きなもの(といっても、32型ぐらいか?)と、奥の間(通称:こたつの部屋)に小さなものが置かれた。

そういえばテレビでおもいだしたが、一時期テレビ大阪のモニターをすることを条件に、アンテナを設置してもらえるという話が出て、父と私はものすごく敢然と推したのだが母が勝手に断ったことがあり、今でもそこはかとなく根にもっている。当時のテレビ大阪は、電波状況により、映る家と映らない家があった。わたしの家は映らない家だった。テレビ欄にはおとなのえほんやギルガメッシュナイトといった番組が並んでいた。KBSでもおとなのえほんはやっていた気もするが、わたしの家で見られるのはWスポットぐらいであったという記憶しかない。Wスポット(無表情の原先生)とスタートレックヴォイジャー(ジェインウェイ艦長とセブン・オブ・ナインの衝突は他人ごととおもえなかった)はわたしの青春(ひきこもりの)だった。

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