てくてくミーハー道場
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2007年05月25日(金) |
『五月大歌舞伎』(新橋演舞場) |
絶対行きたかったので早朝出勤してがんばったんですが、結局昼までかかってしまい、泣く泣く「鳴神」を諦めました。
「鬼平犯科帳 大川の隠居」
これ! (◎_◎;)わっ、何何?
これです! 今月(というより、「今年」と言い切ってしまうぞ)のNo.1舞台!!!!!←これまた独断的断言
長谷川平蔵以外は皆様おなじみのテレビシリーズとキャストが全く違いますが、そこは歌舞伎役者の底力。
一切違和感なし、というより、こっちの方が本物っぽくね? とこれまた独断的断言。
いや、やっぱ久栄は多岐川裕美かもしれんが(いーじゃないかそーいうことは!)
他にも岸井左馬之助はじめ佐嶋、酒井、そして木村忠吾などテレビシリーズでおなじみの面々がまさにイメージ通りで、ウキウキさせられる。
特筆すべきは(テレビでは確か大滝秀治が演った)友蔵を演じた歌六丈。
これまたすんばらしい(T△T)
演者全てがパーフェクトとしか言いようがありませんが、その中でもやはり特に完璧以上に完璧だったのが(←興奮しすぎて意味不明)
二代目中村吉右衛門その人であります( ̄− ̄ )だってテレビシリーズの本人だろ、というのはあさはか(暴言)
故池波正太郎先生も認める当代随一の鬼平役者・・・どころか、鬼平そのもの(断言)
たたずまいが、仕草が、口跡が、全て完全に鬼平。(って、お前本物の鬼平に会ったことねぇだろ)
作り物(書き割りとか)の舞台の上に、「本物の江戸時代」が存在している。
これぞ舞台の醍醐味だと思った。
だが、最も素晴らしかったのはやはり台本すなわち原作。
「罪を憎んで人を憎まず」の精神が、これほどまでに清々しく表現されたドラマを、私は今まで観たことがあっただろうか?(反語)
ともすれば自分の境遇に負けて、甘えて、楽な方へと流されてしまう人間の弱さを、これほどまでに潔く戒めたものがたりが、あっただろうか?
いや、ない。
この作品は、犯罪に走りそうになっている人たちもだが、むしろ全ての警察関係者、司法関係者に観てもらいたい。
自分たちの役目は、「人を罰する」ことなのではなく、「犯罪を撲滅する」ことなのだということを、学んでいただきたい!
と、わたくしは思うのであります。(何の演説だ?)
いやーもう、観られて良かった。
頑張って仕事終わらせたオレ、お手柄(自己満足かよ!)
「釣女」
で、全ての観劇エネルギーを使い果たしてしまったぼくですが、今月の播磨屋は元気元気。
醜女役でご登場。
なにしろ今月は昼夜4本(しかも夜は通し狂言!)にほとんど主役でご出演。
なぜそんなに元気なの播磨屋さん?!
何ともカワイらしい醜女(矛盾しとるがな)に心身ともに癒されました。
「妹背山婦女庭訓 御殿」
この幕にも播磨屋は鱶七という大きな役で出ておられますが、この幕の主役はなんつってもお三輪(福助)鱶七の入りから演れば、また違うのだが
フクのお三輪は二、三回観たことがあります。お三輪ってすごく虐められる役なんだけど、決して「よよよ(泣)」という少女ではなく、一途な恋に燃え上がっている“奇跡を起こす”娘なので、フクには合っていると思う。
他にはジャック様、玉さん、時蔵丈などで観たことがありますが、その燃え上がりっぷりはフクが一番かなと思う。他の人の場合、なんか「かわいそう」って感じが強くて(オイ、福助をほめてねぇぞ)いえ、そういうことじゃなくてね(しどろもどろ)
「目八分」のあたりなんか見てると、お三輪ってなんかどんくさいじゃん、と思ってしまうのだが、この時お三輪は求女のことが気になってしょうがなくて、そんなことやってる気分じゃないのだ、とか、何だかんだ言って、田舎の娘だからね、というところを出したりとか、演る方によって色々工夫されているようです。
でも、実はお三輪の一番かわいそうなところは、官女たちにいじめられるところじゃなく、自分が死ぬことが愛する男の役に立つことだ、と納得して死んでしまうところ。
「自己犠牲」でまるく収まっちゃう日本人独特の考え方に、この少女の命が翻弄されてしまうところが哀しいなとぼくは思ってしまいますね。
そういう考え方が一旦この国を滅ぼしてますからね(おや、小難しいこと言い出そうとしてる?)
・・・やめとこう。
六月には歌舞伎座の方で「山の段」が出ます妹背山。
雄大な歴史ロマンですよな。
登場人物はみんな江戸時代(作品成立当時)の扮装ですが、実は大化の改新時代のお話。
で、大昔のエピソードと見せかけといて、実は当代の政治批判。
深いです。(今度は何の講義?)
「法界坊」
播磨屋大活躍の巻大詰め。
きったない生臭坊主が主役、ってとこがもう既にすばらしい(笑)本作品ですが、ぼく、この芝居を何回か観ているうちに、この法界坊という男、けっして単なる気の良い三枚目ではない(まぁ、悪党なわけですが)ことに気づいて、慄然とした覚えがあります。
それは実は、播磨屋ではなくてなかむら屋の法界坊(それも串田和美氏演出バージョンの)を観てなんで、今回はその話は詳しくはしませんが。
どっちにしても、この小悪党が正義の味方(甚三さん)に懲らしめられてハイおしまい、という話ではないとうところがミソ。
いろいろ画策しては失敗しつつ、美女に甘いと見せかけてあっさり(?)野分姫を殺しちゃうし、自分も殺されると執念深く亡霊になってお組を追いかけていくし(ま、それは野分姫の霊も合体して要助=吉田松若を追っていくからなわけですが)
逆にそういうところがキャラとして魅力的って気もします。
それはともかく、播磨屋の法界坊は、最初の花道からの出から一瞬にしてコヤ中を諧謔の色に包んでしまう。
野分姫を殺すギリギリまで、この男の「怖さ」は表に出さない。
播磨屋となかむら屋が二人ともに得意としてる役は、この法界坊以外にも「籠釣瓶」の佐野次郎左衛門(この役も、「気の良さ」と「底暗い狂気」が同居した役)などがありますが、この「怖さ」をいつ表に出すかという部分で、二人の芸風には大きな違いがあります。
両方とも好きなぼくとしては、その違いを味わうのも楽しみの一つです。
なんか、うまくまとめようとしてしまったが、肝心なことを書き忘れるとこだった。
なぜか(おい)野分姫に抜擢のソメソメ。
声が!( ̄□ ̄;)
女方の声でないです。
風邪かなんか? と思ったのだが、どうも基本的にこういう声しか出ないらしい(六月の「船弁慶」観て判った)
「鳴神」を一所懸命演ってたらつぶしちゃったのだろうか?
残念なことだ。
「双面」を播磨屋でなくソメソメが踊りまして、その時も声がひどくてまいった(法界坊の声になる時は良かったのだが)
踊りはまぁまぁでした(つうか、どういうのが上手い踊りなのか、ぼくにはまだよく判らん。見巧者じゃないもんで)
とにかく、播磨屋大活躍の五月演舞場でございました。
去年から五月の演舞場は播磨屋が座頭となって、「中村吉右衛門(初代、二代とも)の芸」というものを若い役者、若い観客に伝えていく、といったことになったらしい。
実に嬉しい、ありがたいことです(実は、去年は観られなかったのよ/涙)
こういうありがたい舞台を余さず観に行けるように、これからも仕事を頑張ろうと思いました。(優等生的まとめ)
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