ささやかな日々

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2023年05月03日(水) 
母ちゃん、あっちの空がすごいよ。ああほんとだ。久しぶりだよね、こういう色。そうだね、ここのところずっと霞んでたもんね。―――午前4時半に起床した息子との会話。彼の言う通り空は美しいピンク色に燃えており。その色が現れるのはほんの一瞬のことで、その一瞬を逃せば追いかけることさえ叶わない。私達はしばし窓際で佇む。
数日前家人が北海道に出掛けて行った。帰るのはGW明け。それまで私と息子の時間。連休だから彼の友達もこぞって家族でお出かけゆえ、遊ぶ相手もほとんどいない。だから今日は私と息子、自転車を連ねて久しぶりに実家へ出掛けることにする。
予定の時刻より早く着いた私達を出迎えてくれた父母は、この間訪れた時より少し、ほんの少し、動作がまたゆっくりになっている。立ち上がるのも、向きを変えるのも、次の動作に移るのも、ほんの僅かだけれど。その僅かな差異に、老いるということの重さを知らされる。
今年は春の種をひとつも蒔かなかったの。母が言う。もうね、世話できないくらい忙しくて。今年はもう無理だわと思って、と。母が種を蒔かないで季節を越えることがあるなんて、その時まで想像もしていなかった自分に気づく。この家に引っ越してきたのは私が小学二年生の終わり、2月のこと。それから彼女はこの庭を耕し続けていた。どんな時も種を蒔き、すべての植物を等しく慈しみ、育て上げ種を摘んだ。そして次の季節には再びその種を蒔く。それが彼女の姿だった。私はいつも、そんな彼女を出窓からこっそり見つめていた。その習慣に終わりが来ることがあると、誰があの頃想像しただろう。
でも、どんなことにもある日突然、終わりは来るのだ。私は心の中のざわつきを悟られないよう、カイドウザクラの枝をぼんやり見やりながら、そうなんだあ、とだけ応えた。彼女の忙しいという言葉が意味するのは、確かに予定があれこれ入っているというのもあるけれど、昔のようにぱたぱた動けなくなったという、そのこと。ひとつの予定から次の予定に切り替えるのに、心も体も昔のようには動かなくなった、と、そういうこと。だからこそ、一日二十四時間が短くて仕方がないのだ。彼女はいつだって、小走りに生きている。老いてなお。
父がやたらに息子に話しかけ、その都度何かを褒めようと頑張っているのに気づく。ああ、この間孫娘ばかりをかわいがっていることに息子が気づいて母にぼそっと呟いたそのことを気にしているのかもしれない、と思って、心の中くすり笑ってしまった。父のその気遣い。でも父が父らしいのはその、下手さ加減。たぶん息子も気づいている。言わないだけで。だから息子は父となかなか目を合わせない。「じいじ無理しなくていいよ」と思っていることが伝わってしまわないように。

ひとはひとりでは生きてゆけない。決してひとりきりで生きてゆくことはできない。肩肘張ろうと何しようと、ひとはただここに居るだけで、誰かと繋がり、関わり、在る。どんなにひとりぼっちに震える夜があろうと、その夜は同じ空の下、誰かと繋がっていたりする。
父と母と、私と。どれほど反発し合い、相手を拒絶し、抗い、罵り合い、としてきただろう。心の底で愛していても、目に見える言葉や仕草に傷つき傷つけてきた。ずたぼろになってもうこんな緒は切れてしまえと思ったこともあった。実際そうして何年も扉を閉ざしたままだった時間もあった。
離れている間に、ひとは誰しも孤独であること、孤独は何も恥じることでも隠すことでも何でもなく、むしろ孤独であることを受け容れ愛することから、世界がもっと拓けることを知った。孤独はひとを成長させるということも。
私と父と母とが、互いに孤独であったとしても、それはつまり、決して間違いでも何でもないのだと、こういう存在の仕方、関わり合い方もあるのだと、ようやく納得できた。こんな家族の形があってもいいのだ、と。やっと受け容れられた。互いに理解し合えない、理解し合えないということをよしとしたところから、始まる関係があるのだ、と、ようやくわかった。互いに年老いて、そうしてようやく、互いを互いに、そのままに、よし、とできるくらいになった。
そこに辿り着くまでに、私たちはたぶん、四十年近い時間を費やした。それを長いと、長過ぎたと云うのか、それともこれでよかったと云うのか、きっとみんなまたそれぞれに違うのだろうけれど。私は、これでよかった、と思っている。昨日でも明日でもだめだった、今日だからこうなれた、と。今だからこうなれたのだ、と。そう、思う。
私たちは今、だから、ひとりぼっちではない。ひとつ屋根の下にいても、みんながみんなひとりぼっちだったあの頃とは違う。互いに互いを気遣い、想い、許している。

夕暮れる前に再び自転車に跨り帰路につく。ふたりとも何故か全速力でペダルを漕いだ。そのおかげでこれまでで一番早く家に辿り着く。風がいつの間にか、ひんやりし始める、そんな頃。


浅岡忍 HOMEMAIL

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