ささやかな日々

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2023年04月21日(金) 
シムフィアンドラ・ザンゼグラ。名前だけ聞くと軍隊か何かかと思うような、でも実際は釣鐘形をした薄紫色の花を咲かせるキキョウ科の宿根草。植えてみたらこれでもかというほど茂って次々花を咲かせている。高温多湿に弱い子と知り北側の玄関口に場を変えてみる。これから暑くなる季節大丈夫かしら、と思っていたら、親しい友から連絡が。その花はとんでもなく強い子だから地べたに植えると他の子たちを駆逐してしまうくらい勢いよく育つのよ、と。吃驚だ。うちはプランターだからそうはならないだろうけれども、そういえば同じプランターに林檎の芽が出てきている。もしかしたらこの子たちは移動させた方がよいのだろうか。しばらく様子を見ることにする。
薔薇が次々花芽をつけてきている。でも、結構な数の樹がうどん粉病になってしまっている。お酢の希釈液を振りかけて何とかその場を凌いでいるのだけれどどうにもならなさそう。花が綻び出したら切り花にして、それと共に大きく枝を切り詰めてやらないと。でも、薔薇の蕾というのはどうしてこう可愛らしいのだろう。愛おしくなる。根元がぷっくら膨らんできて、つんっと天を向いて立つ。潔いことこのうえないその姿。こちらも背筋が伸びるというもの。

「あっけらかんとして見えても、子どもは子どもなりに反省してるもの。大人のように上手に「反省してます」という素振りができないだけ」といった言葉に出会ってはっとした。息子がこの言葉にだぶって見えた。そうだ、大人のように器用にその振りができないだけなんだ、きっと。彼は彼なりの反省を抱いてそこにいるに違いない。もちろん、一度で改善されないことがほとんどで、私や家人は何度も何度も彼に同じことを言い聞かせている。でもそれも、彼の特性なのかもしれない。そう思ったら、何となく、納得するところもある。そうだ、きっと。明日はもうちょっと、わちゃわちゃした息子にやさしくなれるような気がする。

映画「対峙」を観た。改めて、自分に起きた出来事を物語ることの大切さを思った。それは被害者/加害者も、そして被害者家族/加害者家族もみな同じく必要なことなのだ、と。物語り、それを誰かに受け止めてもらえる体験を経ること、それによって膿んでいた傷ははじめて、乾き始め瘡蓋になってくれる。そんな気が、した。
もちろん語らないことを選択するひともいる。実際友人がそうだった。それが間違いだとは思わない。だって彼女にはそれが必要だったから。そのことを私はよく知っている。でもだからこそ、それはそれでとても苦しい選択だったと知ってもいる。
語ることができる場があるのなら。語ることができる相手がいるのなら。語った方がいい。そうして自分の内に溜まった膿を押し出して吐き出して、傷を乾かしてやる方が、ずっと早く傷は治る。
最後の方で被害者の母親が赦しますという言葉を吐く。その言葉を聴いた時、これは宗教がとても深く関係しているに違いないと感じた。キリスト教という教えが、彼らの中に深く根付いていると。それがない私たち日本人に、赦しというのは真の意味であり得るのかどうか。そのことを思った。
それにしても映画「対峙」にしても舞台「対話」にしても、被害者の母親がいっとう先に変革をもたらすのは何故なんだろうう。何が彼女にそうさせ得るのだろう。知りたい。

続けて映画「ロストケア」を翌日家人と鑑賞。こちらも考え込まざるを得ない映画だった。介護というものについて考えたことのある或いは体験したことのある人間には切実な、切羽詰まったものがそこにあった。私たちは、互いに面倒を掛け合う存在だ。面倒を掛け合いながら、関わり合いながら生きるほかにない。それでも。
ぎりぎりのラインというのはあって。私自身祖母や祖父を介護した時、人間の心を保つ限界というのを感じた。その限界を越えないでいられたらいいのだろうけれど、今の社会のシステムだと危ういところがたぶんに在るのも事実。
ロストケア、救いなのです、と繰り返す斯波という人物のその声が、頭の中木霊している。そしてラストの折鶴。それが意味するところがあまりに重くのしかかる。

今日は友人が法廷に立つ。最後の最後に自分の思いを伝えてこようと思うと話していた。彼女のその切実な思いが、そこにいる誰かにほんの少しでもいい届きますように。どれほど苦汁を飲んでも折れずにここまで踏ん張ってきた彼女の切実さが、どうか誰かに届きますように。


浅岡忍 HOMEMAIL

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