ささやかな日々

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2023年04月16日(日) 
ラナンキュラスももうだいぶ草臥れてきて、はらはらと薄い花弁が落ち始めた。その隣のプランター、宿根草を二種植えたのだけれど、名前を忘れたその子らが今度は咲き始めた。薄紫色の鈴のような形のお花。弦のようなものをひょいと伸ばしている。はじめて見るその姿にちょっとどきどきしていたりする。でも、その隣の林檎の芽がぐいぐい育ってきてしまっているのも見えて、あちゃ、この子らは一体この先どうなるのだろうとも思っている。
ラベンダーが今年は綺麗に咲いている。薔薇も蕾がたんまりついた。でもこんなについたら樹が疲れてしまうだろうなとも思って、どうしたらいいだろうと思っているのだけれど。私は蕾を切り落とすことなんてできそうにない。とりあえず綻び始めたら切り花にして部屋に飾ろう、と思うことくらいしか。それまで頑張れ、と樹たちに声をかける。

感情と身体の感覚があなたはとても近しいのね、とカウンセリングで言われて以来、ずっと頭の中その言葉がぐるぐる巡っている。感情と身体の感覚は、カウンセラー曰く、もっとそれぞれ分岐しているものだそうで。私にはそちらの方がよく分からない。
その時立て続けにいろんなイメージが浮かんできたのだけれど。その昔私に泳ぎを教えてくれたO先生から卒業時にもらった言葉「おまえは感情の塊だ」とか、私に文は人なりという言葉を最初に教えてくれたS先生からの「あなたの書き言葉はとても正直」など、つつつつつっと、昔々の記憶がイメージとして浮上してきた。そういえば私は小学生の頃、保健室っ子だったなと。ちょっと何か感情が強く揺らぐとすぐ体調を崩して保健室に避難していたな、と。そんなことも思い出した。感情の揺らぎが身体の具合に直結しているのは、だから、昔からだったんだろう。
心と身体の話から、何故か器の話に移行し、私が「誰かの話を真剣に聴く時というのは、自分という器から自分をいったん外に取り出して聴く」という話をしたところ、カウンセラーがちょっと間を置いて言った。「憑依型なのかしらね」と。なるほどそういう言葉で置き換えることができるのだと知った。「それも解離のひとつだわね」と言われて愕然とした。「え、これも解離なのですか?」「そうよ」。
そのことについてカウンセラーが説明をしてくれたのだけれど正直よく覚えていない。ただ、それを聞いていて、私は、ああ、あの活動をしていた頃は、この解離が酷く出ていたのかもしれない、と思った。「そこで解離してしまうと、正常な判断ができなくなる可能性があるわね。たとえば解離していなければそこで「これは自分にとって危険か安全か」を判断できるけれど、解離してしまっているとその判断ができなかったり、ね」、そう言われて、考え巡らし、なるほどなぁと納得せずにはいられなかった。
それがいいとか悪いとか、ではなく。自分にとってあの状態は危険以外の何者でもなかったんだな、と今ならすんなり納得できる。だからこそ、五年が限界だったのかもしれない、とも。

家人の知り合いだという写真家の女の子が取材にやってきた。事前に用意してきたのだろうメモを見ながら、まっすぐに質問をしてくる彼女の横顔を見ながら、かわいいなぁと思ってしまう自分がいた。そういえば私はこういう取材をあまりしたことがないな、とも思った。写真を撮り終え、質問を一通りし終えて、大きな大きな荷物を背負って帰って行く彼女の後姿を見送りながら、一生懸命って素敵だな、と思った。それだけでもう、何かできることをしてあげたくなる。

受刑者のYさんからとUさんからの手紙がほぼ同時に届く。ここ何通か、Uさんからの手紙の、封筒の文字、とても落ち着いてきているなぁと思う。Yさんの字は相変わらず、ペン字の先生のように整っている。彼らはそれぞれ、どんな思いでこの手紙を書いたのだろう。どんな情景の中でこの手紙をしたためたのだろう。
手紙をそっと掌の上に置いて想像する。少しでもあたたかなものが、そこにあってくれますように。


浅岡忍 HOMEMAIL

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