ささやかな日々

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2023年03月28日(火) 
カルガリが無事咲いた。生まれたての花弁は半透明の白だったのが、徐々に徐々にくっきりとした白色になっていった。その隣でムスカリが凛々と咲いている。紫と白のハーモニー。ネモフィラは今まさに花盛りで、ビオラを凌駕する勢い。ラナンキュラスの蕾がぷっくらと肥って来た。この子は何色の花弁を見せてくれるんだろう、と楽しみがどんどん膨らむ。

数日前、恩師から電話があった。呂律が巧く回らなくなった先生の語りはいくら受話器に耳を澄ましても聞き取りきれず、それが悔しくてならない。先生は今秋に九十三になられる。今リハビリを始めたんだ、と先生は仰っていたけれど、どこまで回復できるだろう。補聴器を直しにいってだいぶおまえの声が聞こえるようになった、と笑っていたけれど、その補聴器もいつまでもつだろう。
歳を取るというのはこういうことなのだな、と、先生と接していると思い知る。私の父母はたぶん希少なんだと思う。八十半ばを越えてもふたりで慎ましく暮らしを成り立たせてくれている。ありがたい以外の何者でもない。

薬丸岳著「罪の境界」を読み終えてしばらく経つが、頭の片隅でずっと、考えている。この一線を越えるか越えないか。その隔たりたるやどれほどの深淵か。でも、目に見えるところはほんの少しの差異に違いないのだ。レール一本分くらいの太さしかないに違いないのだ。でも。この一線を越えるか越えないか、が、そのひととなりを語るのだろう。
そして、加害者となってしまってから、被害者となってしまってからのその後をどう歩くのか、どう生きるのか。被害/加害は点だ。ほんの一瞬の出来事だ。が、その点はその後を一変させる。もののみごとに丸呑みにしてしまう。だからこそ、その後をどう歩むのか、が、問われているのだと思う。私達それぞれが。

朝出会った文言「どんなに良い人でもきちんと頑張っていれば誰かの物語では悪役になる。」。出会った瞬間、頭をかーんと打たれた気がした。でも一瞬何が何だか分からなくて、もう一度読み直した。読み直して、理解した、その時、すっと納得せずにはいられない自分がいた。
嫌われたらいけない、と思っていた頃があった。なのに八方美人にもなりきれず全てが中途半端になった。いろんなものをひとを、その結果失った。そうして、大切なものが何なのかを突き詰めて漸く納得できた。もう嫌われることを恐れることはない、たとえ数にしたらこれっぽっちとしても自分が本当に大事にしたいひとやものをこそ愛していけばいい、と。
この歳になって、年の若い友達たちに時々言われる。強いですね、と。最近は笑って流すけれど、でも思うのだ。最初から強い人間なんていないし強いだけの人間もまた、いない、と。唯一、弱いことをこれでもかってほど自覚しているというだけだ。弱いから、助けてと言える数少ない友の手をちゃんと握っていようとそう思って生きているだけだ。
助けて、と言うには一握りの勇気が要ったりすると私は思っている。自分のしがらみやどうでもいいプライドみたいなものをひょいっとかなぐり捨てて、まっすぐに助けてと声にする。それはたとえば、知らない、分からない、と告白することにも通じている気がする。自分はまだそれを知りません、それが分かりません、助けてください、教えてください等々。自分を露呈する言葉を素直に口にできるようになること。大事なことだと改めて思う。


浅岡忍 HOMEMAIL

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