2023年03月04日(土) |
乾いた夜、久しぶりにカシアを足して珈琲を淹れる。出来上がるのを待つ間に、林檎を薄くくし切りにし、鍋にぱかぱか放り込む。 心と頭がぐるぐる余計なことを考えてしまうような時は、とりあえず料理するのがいいと相場が決まっている。もちろんその相場は私の相場であって、他のひとの場合は知らない。 藤田真央氏のリストやショパンの演奏をBGMに、合計8個の林檎を鍋に入れる。とろ火でことこと。消えちゃうんじゃないかと思えるくらいのちんまい火。そのくらいでちょうど良い。しばらくすると、じんわり林檎から汁が滲み出して来る。放っておくとじきにそれがひたひたになるくらいになる。そこではじめて木べらでかき混ぜ、檸檬やらシナモンやらをたっぷり振りかける。そうしてさらに、ことこと、ことこと煮る。 カシア珈琲は相変わらず美味だ。カシアの香りがちゃんとわかることを確かめる。よし、嗅覚は失われてない、大丈夫。じゃぁ味は? 大丈夫。私はほっと、安心する。 味覚や嗅覚は、私のような人間はすぐ見失ってしまうから、折々に確かめずにはいられない。自分に今どれだけ負荷がかかっているかが一発で分かる。今まだ匂いも味も分かるなら、それがうっすらでも分かるなら、私はまだまだ大丈夫、ということ。
次の個展の準備。のろのろとだけれど何とか進めている。こんなんで間に合うのか、と不安になるのだけれど、今はこのテンポでしか進められそうにない。自分の軸が、どうも、まだ定まらない、定まっていない、そんな感じ。 家人が「テキスト先に書いちゃえば? そしたら軸も定まるかも」と、アドバイスをくれた。なるほど、ということで、方向転換、作品の引き算より先に、テキストに取り掛かってみることにする。 すると、私はまだまだ、N氏との向き合いが足りてないんじゃないかと、そう思わずにはおれなくなってきた。これじゃあ定まる軸も何もあったもんじゃない。私は再び頭を抱える。 そうか、対峙が足りてなかったのかもしれない。覚悟も足りていなかったのかもしれない。 腹を括らねば。改めて自分に喝を入れる。 私が見たくて見たもの、ではなく。私が思わず感じてしまったことたちをまず、もう一度見直そう。
そうしてともかくも書いてみた文章をプリントアウトする。そこに赤入れ。それをまたプリントアウト。再び赤入れ。 このデジタル時代にありながら、私はモニター上だけで赤入れするのがひどく苦手だ。どうしてもプリントアウトして、そこに赤入れせずにはいられない。 こんなこと言うのも変かもしれないが。モニター上の文字と紙にプリントされた文字とでは、感触が、違うのだ。 モニター上の文字はあくまで電気の記号とでもいおうか。私にはそれは、感触の無い、手触りのない、記号なのだ。それがプリントアウトされて紙に落されてはじめて、感触のある、そう、手触りの確かにある意味のある代物になる。 脳味噌が何処まで行ってもアナログなのかな、と我ながら苦笑せずにはいられない。でも、それが私の方法なら、仕方がない、とことんそうして突き詰めてゆく他ない。 書きながら、校正しながら、ちょっと胸がぎゅうとなった。N氏の孤独がじわじわと私を浸食してくるかのようだった。
林檎がくたくたになって、シナモンの色味ですっかり染まる頃、一度火を止める。しばらく味を馴染ませる。林檎の熱がすっかり冷めた頃、再びとろ火にかける。そうして煮詰めたら、私の林檎ジャムの出来上がり。シナモンと檸檬たっぷりの林檎ジャム。じたばた暴走していた心と脳味噌も、少し緩んできたようで。煮る、それもことこととろ火で煮る、という作業はいつだって、私の味方。ありがたや。 さて。ジャムの瓶詰を終えたら一服しよう。もう一杯カシア珈琲を飲みながら。 |
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