| 2022年05月02日(月) |
名無しの権兵衛のプランターの中、わっさわっさと芽が出てきているのだが、誰が誰だかやっぱり分からない。似てるなぁと思っても、次に出て来る葉の形が違っていたり、違ってると思うと今度は似ていたり。だからもう、分からない、というところで括ることにした。誰が誰だか分からないけれども私にとっては誰もが等しく大事で、それでいいじゃない、と。そういうことにした。 ミモザはこそこそと、新しい葉を拡げてきている。知ってるよ気づいてるよ、と思うのだが、どうもこの子らは気づかれるのが好きじゃなさそうというか、知ってるよ気づいてるよに続く言葉を欲していないというか。ラベンダーなどは「をを、お花きれいだね、ありがとうね」と言われるのを好んでいる気がするのだけれど、ミモザは一転、そうじゃない気配を強く感じる。不思議だ。だから、できるだけそれ以上は思わず、そこで止めて、眺めてる。 植物ごときに何を言ってるんだおまえは、と言われるかもしれないが。命あるものの醸し出す気配というのは、ほんとうにひとりひとり異なるもので。その子が望む耳の澄まし方をしないと、枯れてしまったりする。構えばいい、というのとも違う。構い過ぎて枯れてしまう子だってたくさんいるから。適度に適度に、その子に合わせた呼吸の仕方があるのだ、と、そう思いながら見つめている。 それは何も、植物に限ったことではなくて。ひとに対しても、同じようなことが言える気がしている。適度な距離感というか、そのひとそのひと、まったくその距離が違っていたりするものだから。 何事も、適度、というのがあるのだな、と。だから、思うのだ。し過ぎもしなさ過ぎも、よろしくない。適度、が、いい。
久しぶりに早朝、東空が燃えるのに出会った。このところずっと曇天続きで、染まる空の様なんて見ることができていなかったから、何だか久しぶりに恋人に会ったような、そんな気持ちにさせられた。 私はやはり、朝の空が一番、好きなのだな、と思う。はじまりの空、が。
中森明菜さんのライブの様子をテレビで見かけて以来、手持ちの明菜ちゃんの歌をひたすらリピートして聴いている。十代の多感な時期、彼女の歌が傍らにあった。いくつもの記憶に、その都度その都度、彼女の歌が寄り添ってくれている。従兄弟のあにぃにとってそれがかぐや姫だったり雅夢だったりするように、私にとっては中島みゆきやオフコース、中森明菜だったりしたのだろうな、と。歌を聴き返しながら、ぼんやり記憶の海を漂ってしまう。思い出せることはほとんど今もうないのだけれど、でも、みっちり詰まってたな、というそういう感触は覚えているから。だから、それでいいんだと思う。 いや、本当はよくないかもしれない。思い出せたら思い出せたで、それに越したことはないのかもしれない。でも、思い出せないのだからもう、どうしようもない。そのことをあれこれ言っても何もはじまらないし変わらない。だから、もう、諦めの境地というか、そんなところ。私が今思い出せるのは気配だったり色合いだったり感触だったり。そういったものだけ、と言っても過言では、ない。でもだからこそ、大事な芯は、それだけは、ちゃんと残ってくれている、と信じたい。 その僅かな、気配や感触や色合いや音たちを、私は時折取り出しては愛で、憩う。それが、私なのだと思う。
私―――。そう、私は結局、私以外の何者にもなれないんだよな、と、そのことをつくづく思う。不器用というか何というか、そもそも私が私以外になろうとしていないというか、うまく言葉が見つからないのだけれど、でも、そういうことなんだな、と。 これもまた、或る種、諦めの境地というのかもしれないけれども。でも、それは決してネガティブな方向じゃなく。淡々とした、もっとこう、そう、淡々として穏やかな境地。それでいい、とも思う。だって、それが、私なのだから。 |
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