| 2022年04月22日(金) |
昨日のことはほぼ何も憶えていない。思い出そうにも何も出てこない。空白。そういう夜もある、と、自分を宥めてみる。 ホールに入るまでは、調子が良かったはずなんだ。朝いつものように出掛け、珈琲屋で原稿を書いたりチェックしたりして過ごしていた、その間はまったくもって元気だった。新宿で待ち合わせた友人を待っているそのあたりから、少しずつ何かがズレ始めた。気持ちが棘々、苛々し始めた。これからS君の舞台を友人らと鑑賞することになっている。ホールに向かう道中、光が眩しすぎてくらっと体が揺れた。Cちゃんに「眩しいね、なんかすごく眩しいね」と言うと、Cちゃんはきょとんとした顔で、でも私に合わせるように、陽射しが強いですもんね、と言った。 ホールの座席に座る頃には、こめかみがぎりりと軋んでいた。頭痛薬を飲んでしまおうかと一瞬迷ったが、我慢し、水だけを口に含む。 舞台が始まり、ほどなく私は、解離した。ここから、昨日を憶えていない。私は昨日の記憶を失ってしまった。
今日は通院日。いつものように電車に乗るも、事故だとかでたびたび電車が止まってしまう。その度乗っている人の数が増え、いつの間にかぎゅうぎゅう詰めになっている。私はたまたま空いた目の前の席に、急いで座る。目の前のぎゅうぎゅう詰めを見ないで済むよう視線を落とし、意識を天井に飛ばす。 一体いつになったら駅に着くのだろう。そのくらい長い道のりだった。犇めき合う人々の間からは苛々の湯気が立ち上っており、私は今すぐにでもここから逃げ出したい気持ちにさせられた。この苛々をこれ以上吸い込みたくない、そう悲鳴を上げかけた頃、ようやく最寄り駅に到着、電車を飛び出す。 カウンセリングで何を話したのだろう。今となっては思い出せない。が、一生懸命何かを話していた、そんな記憶の感触だけは残っている。次回カウンセラーに確認しないと、本当に何も思い出せない。 診察は辛うじて、先生の顔を憶えている。いつものようににこやかな先生の表情。眼鏡をかけてかたかたとキーボードを操作する手元。でも音声はなくて。何を話したのだかについてはやっぱり思い出せない。 どうやって帰宅したのか。何故か私はいつもの倍以上の時間がかかって帰宅している。でもその道中のことを何も思い出せない。何故倍以上の時間がかかったのだろう。電車に乗っていただけのはずなのに。 帰宅し、グラノーラにヨーグルトをかけて食べる。食べているうちに少し落ち着いてきたのか、急にぐわんと体が揺れる。気が抜けたのかもしれない。そのくらい全身が強張っていた。でも、ゆっくりグラノーラを食べながら、ヨーグルトの味を感じながら、ようやく大きく呼吸が叶う。大丈夫、私は今家にいる。安全だ。そう、自分に言い聞かす。
電話が鳴っている。慌てて出ると、Aちゃんからで。「今私泣きそうなんです、今電話いいですか?」。もちろんいいよと応えて受話器を持ち直す。 役所に行って、税金の減免手続きをとろうとしたのだが、今年初め弁護士に支払った数十万のせいで担当者から「これだけの額を融通できるのだから、減免できない」と言い渡されたという。でもその弁護士費用は、性被害に遭った為に要した金であり、その後働けなくなった彼女に今、余分な金など一円もない。この担当者の言い分は正論なんだろうが、被害者の現実とはまったくかけ離れている。被害に遭い体と心を壊し、働けなくなった人間に、それでも皆と同じ額の税金を支払え、と。この現実の無情さ。何なんだろう、この無情さ加減。 Aちゃんと電話を繋ぎながら、私はかつての自分のことを少し思い出していた。仕事を半ば辞めさせるかのように追い出されて、でももう何の気力も残っていなかった私は家に引きこもって過ごした、そのせいで金はどんどんなくなり、マイナスに傾くばかりで。一度マイナスに傾くととめどもなくそちらに天秤は傾くばかりで。あの頃、私はもう、一日を生き延びるので精いっぱいだった。一日一日がとてつもなく長く残酷で、ここを超えることさえもう諦めたい気持ちになっていた。今のAちゃんの涙の重さが、だから、痛いほど分かる。 「性被害ってどうしてこんなに容赦ないんでしょう。残酷なんでしょう。被害者ばかりが追いやられる社会って、絶対おかしい。狂ってる。糞ですよ、糞」。Aちゃんの言葉に返す言葉を見つけられず、私は曖昧にほほ笑む。そのくらいしか今、返せるものが、ない。 Aちゃんが帰った後、ワンコの散歩に出掛ける。とぼとぼと歩きながら、思う。被害者に冷たい社会。でも、いつ誰が被害者になり得るかなんて、誰にも分からないことで。今この直後、あなたが被害者になり得るかもしれないのに。 みんな、他人事過ぎて。 きっとその、大勢の人々の「他人事」が凝り固まってできたのが、今のこの、社会なんだろうな、と。そんなことを、思う。 |
|