ささやかな日々

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2022年03月03日(木) 
34通目の手紙を書き終える。加害者プログラムに参加するみんなに書く手紙ももう34通目なのかと思うとちょっと呆けてしまう。最初はプログラムに出席していたのだった。息子が小学校にあがるのと前後して、夜のプログラムへの参加は控えることにした。息子がもう少し大きくなるまでは、手紙でのやりとりにしようと決めた。以来、昼間のプログラムへの出席と、手紙とのやりとりが続いている。
毎月一通ずつの手紙とはいえ、大勢からの手紙に対しての返事を書くのはエネルギーを要する。ひとりひとりの言葉に対して何処まで向き合ってゆけるのか。いつも自分との耐久戦みたいになる。時々、もうこのくらいでいいじゃないか、という気持ちが過ぎる。その度、いやいやそれをして後悔するのは自分だ、と自分に言い聞かす。深呼吸を幾つかして、気持ちを切り替え、もう一度向き合う。その繰り返し。
そこまでして何故やるのか、と問うひともいるのかもしれない。でも、それは私がやりたいからやるのだ。それ以外にない。
誰かと向き合うことは、いつだって膨大なエネルギーを要するものだ。それが加害者だろうと被害者だろうと、そうでなかろうと。それがたまたまここでは加害者だったというだけの話。

先日のカウンセリングで、境界線の話が出た。共感性が強いあなたの境界線はとても曖昧になりやすい、という話。その境界線をしっかり引けるようになるといいね、と。カウンセラーが言っていた。
その時は、そうだよなぁと思ったのだけれど。ふと、今日になって、「本当に私は境界線をそんなにもくっきり引きたいのだろうか?」という疑問が湧いてきた。私は本当にそれを望んでいるのだろうか?
確かに、境界線が曖昧であるが故に、誰かと共振してしまいやすくて、侵入されやすくて、それに振り回されることも多々、ある。そのせいで不必要な罪悪感や自罰感に苛まれることも多くある。
でも。
共感性が強くて境界線が少し緩いが故に、見えている世界もあるんじゃなかろうか、と。今日ふと、思ったのだ。
私はそんな世界のことが実は、嫌いじゃないのかもしれない、と。

間違いなくこれまでの私は、それ故に見えている世界・感じられる世界の中で生きてきたわけで。それは確かに他人から見たら、しんどくて楽ではない世界なのかもしれないけれど、少なくともこれまで私はそれが当たり前と思って生きてきているわけで。
必要のない罪悪感やら自罰感やらに苛まれもしてきたけれど、でも、そうでなければ気づけなかった、味わえなかったことたちもたくさんあったわけで。
そんなに私はそうしたものが嫌いだったのか?と。改めて問いたくなってしまった。
実はそんなに嫌いじゃぁなかったのかもしれない、と。
そう、思えたのだ。

Yさんから、あなたは境界線を引くことがうまくコントロールできてるよね、と言われた。最初それが冷たいと思えてた、とも。でも今は、分かる、とも。
ちょっと考え込んでしまった。私は果たしてコントロールできているのか? できていないからカウンセラーに指摘されたのだ。もうちょっとくっきり引かないと自分が壊れちゃうわよ、と。必要のないものまで背負い込んで、どんどん辛くなるわよ、と。もっと生き易くなっていいと思うわよ、と。そのためにも、境界線をもっと明確に引いて、区切れるようになるといい、と。
考え込んでしまった。今更なのだけれども。私はどうしたいのだろう?と。どう生きていきたいのだろうこれから。
そもそも、生き易いって、どういう状態? よく分からない。生き辛さがお友達みたいなものだったから、生き易い状態というのが分からない。
みんな、そんなに生き易い状態で生きているものなの? もはや首を傾げるしかできない。


浅岡忍 HOMEMAIL

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