| 2022年01月25日(火) |
伊藤詩織さんと山口敬之氏の二審、伊藤詩織さんの勝訴とのニュースが流れる。それと共に、何人かの被害者仲間から「嬉しい!よかった!」と声が届く。黙ってじっとその声を聴いていた。どう返事していいのか正直分からずに。 私は。 そんなふうに一心不乱に喜ぶことができない。
私が被害に遭った頃。性的合意なんていう概念も言葉も、なかった。被害者が声を上げる、その声を誰かが聴く、なんてことも、あり得なかった。性的被害はただただ、恥、だった。少なくとも、私の周囲にいた大勢の大人たちは、被害を恥としか受け止めてくれなかった。痛みや傷としてさえ、受け止めてもらえなかった。被害に遭った女が悪い。端的に言えば、そういう時代だった。 当時は被害をなかったことにしてやり過ごすことが、唯一、できることのようだった。でも私は、被害をなかったことにだけはできなかった。恥だろうが何だろうが、あったことをなかったことにはできないと思った。だからあからさまに声を上げた。 それによってどれだけ土礫を投げられたろう。どれほどのひとたちが離れていったろう。どれほどの。数え出したらきりがない。 途中、命を断つ友たちもいた。もうこれ以上生きてはいかれない、と飛んだ友、首を吊った友、薬を飲んだ友。私はそんな彼らの間で、結局死に切れもせず、生き残った。 生き残った私にできることはただ、なかったことにはしない、というその一点をどんなになっても守り通すことくらいだった。 そうして五年、十年、十五年…と時が経つにつれ、いろんな言葉が生まれた。地位利用型性暴力や性的同意、セカンドレイプやら何やらといった言葉も、その途中で多く見聞きするようになった。そういった新しい言葉に出会うたび、新しい概念に出会うたび、私は時代の経過を痛感した。時代は変わるのだ、変わっているのだ、と。 伊藤詩織さんのこの件が、二審にまで進み、しかも勝訴と報道されるのを少し離れたところからじっと見つめていて、じわじわと湧いてくるのだ。悲しみや怒りが。どうしてもっと早く、どうしてもっと早くこういう時代が来てくれなかったのか、と。 いや、まだまだ全然十分じゃない、不満だ、というひともいる。そりゃあそうだろう。でも。 いくつもの友の命を見送った私からしたら、これは、凄まじい変化なんだ。 分かっている。私のこの思いは私の勝手な思いであって、それ以上でもそれ以下でもないということ。痛いほど分かっている。どうして素直に喜べないのかと自分でも思う。でも。 あまりに幾つもの命を見送り過ぎてしまった。 そういった命の上に、この結果が今ここに在る、としか、私には思えない。
Sよ、Mよ、Yよ、Tよ。あなたたちは今、何処にいる? 今このニュースをあなたたちはどう見ている? あなたたちがどうか、涙していないことを私はただ、祈るほかにない。もし涙していたとしても、それは悲しみの涙じゃないことを、ただただ、祈るほかに、ない。
そして私は。27日に被害の日をまた、迎える。27年経つのか、と思うと正直途方に暮れもする。長かったような、あっという間だったような。よく分からない27年。ひとひとり成人するのに十分な時間が経ってしまっているのだと思うと愕然とする。信じられない。 ここまで生きて来るのに、ただ毎日、必死だった。言葉通りまさに、必死の毎日だった。いつ死んでもおかしくない日々だった。 それでも。私は今、生きている。今ここを、今ここに、生きて、在る。 |
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