ささやかな日々

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2020年09月13日(日) 
カブトムシの雄が一匹、死んでしまった。息子が身体をつまんだらぽろんと首が落ちた。その呆気なさにその場にいた二人ともが呆然とした。「母ちゃん、死んじゃった」「…そうだね、死んじゃったね」「…」「生きてるモノは必ず死ぬ。だからちゃんとお世話しなくちゃだめなんだよね」「おなかすいて死んじゃったかな?」「ちゃんと餌半分残ってたから、おなかすいて死んだんじゃないと思うよ。寿命じゃなかな。もう秋だ」。
その後息子は家人にもカブトムシが死んだことを報告。「秋だもんね」と家人が言うと、「秋だもんね」と息子が応える。
生き死にを、幼い子供に見せることを躊躇う方は結構いる。私はむしろ、幼い頃に体験させてやりたいと思っていたりする。何のてらいもなく、生き死にをそのまま、あるがままに受け止められるうちから、体験させてやりたい。そう思っている。
いずれ、生き死にに、いろんなものが纏わりついてくる。その命に対しての情や事情といったものが。そうなる前に「命あるものはいずれ必ず、誰もが死ぬのだよ」ということを、そしてまた、死に様、生き様というものがあるということも。見せておきたい。

私にできるのは結局、そうしたものを「見せる」ことくらいだ。私が見せた時、それをどう感じどう受け止めるかは、どれほど言葉を尽くしたとしても結局、その者にかかっている。その者が、悲しいといえばそれは悲しいし、その者が嬉しいとするなら嬉しいのだ。それで、いい。
他人がどうこう操っていいものじゃあないと思うし、操れるものでもないと思うのだ。

私が息子や娘に、何かを見せてゆく、提示してゆくのは、先に生きる者の務めのひとつだと思っている。でも、そこで彼らが何を選択し、何を選択しないか、は、彼ら自身に任せたい。任せるべきだ、と思う。
それが、先に生きる者の、できる、唯一のこと、といっても過言ではない。私はそう思っている。


浅岡忍 HOMEMAIL

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