昼食に誰かを待つ日は

2021年01月13日(水) 最後の一枚



 尾道で撮った写真を現像。カメラに光が入ってしまったせいか、ほとんど何も写っていなくて悲しくなった。尾道の坂を少し上ったところにある一軒家に5日間滞在し、真下にある小学校から子どもたちの声や、ピアノや太鼓の音が聞こえていた。少し離れたところには瀬戸内海があって、家から船が見えて、ぶおーっという笛の音が聞こえていた。朝はいつも穏やかな光が差し込む。馬車道と一緒に朝食を作って食べて、広いお風呂に浸かる。窓を開けると小さな崖がすぐ側にあり、そこに咲く小さな葉っぱがきらめいて、湯気が立ち上る湯船のなかで、それを眺めていた。そのような一瞬一瞬を忘れたくなくて、シャッターを押していたというのに。
 
 でも、最後の一枚は綺麗にうつっている。それはおととい馬車道を撮ったものだ。竹ペンで、カードに船を書いている姿を収めた。逆光で影のようになってはいるけれど、きちんと撮れていた。この船は、尾道で見たものだ。それが今部屋にあることが嬉しい。

 花はまだ綺麗に咲いていて、暖房をつけていると、春と勘違いするのかものすごい勢いで花びらが開いてゆく。赤と黄色と白い花。ポップで可愛い花。枯れてほしくないな。せっかく馬車道が花瓶に挿してくれたものだから。

 昨晩、私はまたもや馬車道に自分のことばかりを話してしまい、反省した。彼は映画を撮る人で、私の周りにも映画を撮る人がいる。私も映画を撮りたくて、でもそんなことはとても恥ずかしくて言えなくて、それでもやっぱり、尾道でカメラを持っている時に、ああ映画を撮りたいと思っていた。でもこんなことは人には言えることではない。考えるだけで何もできない自分が嫌で、馬車道に色々言いつける。私は自分に足かせをはめて、事を複雑に、難しく考えすぎる。映画のことなんて、まだ何にも知らなかったときに、映画と呼べるかはわからないけれども、でもそれを私は撮った。無知だからできたのだと、今では思う。そうして、今でもそれが一番大切なことであるのだとも。少し堅苦しくなりすぎてしまったな。なんにも知らない、というのが一番強いのに。

 いつになるのかはわからないけれど、私ももう一度何かを作りたいと、昨日は改めて思った。馬車道は、「あなたのやり方を探せばいい。一緒に探そう」と力強いことを言ってくれたので、嬉しかった。

 その前に、仕事で、もうすぐ1冊の本が出来上がる。今日は良いレイアウトがあがってきた。これから赤字の校正作業に取り掛かります。


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左岸 [MAIL]