昼食に誰かを待つ日は

2020年08月22日(土) 幸福な映画

土曜日。恋人は今日ひとりで金沢に行ってしまった。どうして誘ってくれなかったのだろう、と泣いた昨晩。トイレで、台所で、マットレスの上で、椅子の上で、場所を変えてはさめざめ泣いた。この二週間は彼の様子はおかしくて、黄泉の国へ行きかけたとか、BADに入って戻ってこれなくなりそうだとか、そんな報告ばかりが来ていた。そこから這い出るための手段として、ひとりでどこかへ出かけたかったのだろう。ここはぐっと堪えるところだと、さっさと眠って、そして今日を迎えた。気持ちは落ち着いていた。ウエルベックの「プラットフォーム」を読み終えてしまったので、買ったまま放置していたジュルジュ・バタイユの「青空」を読み始める。アル中、放蕩、孤独、死。舞台はイギリス。テムズ河の黒々とした奔流に沿うように、酒、女、男の苦悩がつらつらと描かれる。男って、なんだか生きにくそう。と最近よく思う。女よりうんと、厄介だ。女は落ち込むことは落ち込むけれど、切り替えが早い。私もそうだ。でもなんだか男の人は、病んでいる自分から逃れるための手段として酒や女やセックスを選んだとしても、結局それが己を苦しめ、己に閉じ込められ、ますますひどくなっていく。女でよかった、と思う一方で、そのような人間らしさを抱えた男のことも愛おしくてたまらないという気持ちも、ある。そんなこんなで本を読んで、夕方ごろ有楽町に出向いて映画館に行き、「海の上のピアニスト」と「真夏の夜のジャズ」の2本を立て続けに見て、どちらも音楽が素晴らしく、胸いっぱいお腹いっぱいの状態。映画館で観るべき映画というのがあるけれど、紛れもなく、この2本は映画館で観るべき映画だった。これだけでいいんだよ……という目一杯の気持ちが広がり、あらゆる悩みや不安が彼方に消えていった。そんな単純な自分に度々救われる。

あの町には、終わりがあるのかい? 終わりが見えない場所で、どうやって生きていったらいいんだ。

船の中でしか暮らしたことのない1900が、初めて船から降りることを決意し、船と地上を結ぶ階段を降りている途中、ピタッと足が止まる。広大な街が1900の前に映る。彼は長いこと立ち止まって、それから何かを決意したかのようにかぶっていた帽子を海に投げ捨て、階段を上って船に戻る。
彼には「見えないもの」がみえてしまった。
見えないもの、とは果てしなく広がる街の、終わり。終わりが見えないということが、はっきり見えてしまった。

限られた場所でしか生きられない彼は「船の上のピアニスト」としての宿命を背負っていたのだろうが、それは非常にシンプルなことのようにも思える。この世には選択肢があまりにも多く、選ぶ行為にほとほと疲れることがある。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があるが、同じ場所でずっと根を生やし続けること、花を咲かせることさえ難しい世の中だ。でも私は改めて「選択肢の多さ」が自分にとってストレスである事を再確認できた。ということで、当面はシンプルに生きていこうと決意し、そのことでだいぶ心が軽くなった。

真夏の夜のジャズでは、観客たちがダンスをしながら、キスをしながら、お酒を飲みながら、タバコを吸いながら、各々幸福に満ちた表情で演奏に聴き入っていた。あの場にいられたら、翌日死んでも何も後悔などないだろう。今日は本来ならフジロックにいたのかもしれない。体で音楽を感じるというのは、生きるための原動力になる。だから、絶対に必要なのだ。翌日死んでもいいと思えるのだから。こもった生活に慣れることに抵抗したい。慣れたら楽で、慣れることが進化につながるのかもしれないが、それはロボットに任せて、私たちはもっと楽しむ必要がある。快楽が必要だ。ウエルベックの小説にもあるが、いろんな理由をつけて自分たちを閉じ込めようとしているうちに、快楽までのシンプルな道筋さえ複雑に考え始める。もっと動物的になる必要がある。
頭でっかちになっていた。そうだ、ぼんやりとただ生きている人間、そこに音があれば踊るし、うまいものがあれば美味しいと言って食べ、眠くなったらとことん眠る単純な人間になろう。健全の意味を間違えてはいけない。


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左岸 [MAIL]