昼食に誰かを待つ日は

2020年08月20日(木) 衝突と無為



非常に残念でした、というメールの文面。良かれと思ってしたことは、相手にとってそうではない。1つのものを作って大勢の前に差し出さなければならないものだからむずかしい。私はあくまで俯瞰的に、客観的にそれを見て意見を言う立場だ。けれど相手を残念がらせてしまうのは、とても悲しい。言い訳じみたことを言っても無駄で、申し訳ありませんと謝ることしかできない。この仕事をして、何度ひとに謝ったろう。傷つける気があって行ったことなど1度もないが、相手にそう解釈されてしまう場面がこれまでに何度もあった。そういうものなのかもしれないが、メールの文面にて相手の感情が浮き出ているとき、喉や胸の奥になにかがつかえたようになる。


午前中は一度胸がつかえて、同僚の人らが入れてくれた美味しいお茶をひとり別の部屋で飲んだ。あまり落ち着かなかった。しょうがないし、仕方がないと、続けて仕事をする。進むたびに衝突が起こる。進まないと何も起こらず平穏でいられるけれど、時間がただ無為に過ぎていくだけで、むしろ不安になってくる。衝突が起きたということは、どんなに小さくであれ物事が前に向かって進行している証拠。仕事となると、いやでもポジティブな思考に切り替わる。そうでなきゃ、とてもやっていられないからだ。


部屋に帰ってきて、現実から逃げ出す手段の読書タイムに入る。1日の唯一の楽しみだ。ここではない場所に行くことができる。カーメンマクレエのレコードがずっとまわり続けている。桃の缶詰を皿に移してつつく。誰もいない。Iからまた音沙汰がなくなった。元気でいてくれればそれでいい。私があって元気づけてあげる、などと傲慢なことはもう言えない。誘い出した先で疲れさせてしまいそうだから。ひとりで立ち上がれる人だろう。私もそうだ。では互いを支え合うとはどういうことなのだろう。衝突がないまま進むこと、毎日が無為に過ぎていくこと。それらを一緒に認め合いながら、時間だけが進行していくことを無為と呼ぶんではないだろうか。人を通して虚無を知ることもあるのだと、おもう。そんなことは望んでいないのに。





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左岸 [MAIL]