昼食に誰かを待つ日は

2020年05月17日(日)

昨晩、とある真理に至ったことでよく眠ることができた。信じられないくらいによく眠れた。その前から襲われていた異常な眠気は、この日のために蓄えられていたのかという程よく眠り、なぜかいるかの大群と一緒に泳ぐ夢まで見る始末だった。私は本来金槌で泳げないのだが、夢の中では悠々と、無数のイルカと共に泳いでいた。気持ちの良い夢ではあったが、夢の中の私は怯えていた。その大群は確かにイルカではあったが、姿が黒いものも混ざり、飲み込まれてしまったら最後戻れないという気がしていたらしい。それなのに泳ぎを止めることはできず、自分の意思に反してただ放り込まれた海の中を駆け巡るようにして泳いでいたのだった。

あの真理にたどり着いたとき、自分を内省することをやめようと思えた。それよりもまず考えなければならないのは外側の関係性についてだった。私が何を思い、何を発したところで、今は意味が何もない。意味がないことに時間を費やしすぎていたことに気がついて、私は自分自身のことを考えることを放棄した。それでいくらか気が楽になった。その答え(というのが正しいのかはわからない)を、今恋人と呼べるのかも曖昧な、Iに深夜メッセージで報告をした。案の定、何の返信もなかったわけだが、彼にはきっと通じる話だと思った。というより、彼以外にこんなことを話せる人はいなかった。あの人は今、何を考えているのだろう、と今ここでまた答えにならないことを考えることをやめようと思ったのに、それでもやはり気になってしまう。どうして彼は沈黙し続けているのだろうか。でももう私は、何の期待もしない。動かない。考えない。私たちの間にある「糸」がどれだけの強度を持っているのか、もろくもそれが途切れてしまうのかは、今はわからない。もしかすると、もうとっくにその糸は切れてしまっているのかもしれない。でもそれを繋ぎ止めようとすることは私にはできない。だから、もう考えないのです。存在しているその糸の行方を、遠い眼差しで見守ること。それは相手がIだけにはとどまらず、私が出会い、また近くにいる人すべてに通じている話。

今日はカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を読み終えた。記憶を曖昧にさせる霧の存在。良いことも悪いことも含めて記憶が薄れていくこと。取り戻したい記憶というのはどれほどあるだろう。良い記憶以上に、悪い記憶のほうが多いこともある。私はなるべく忘れていきたい。忘れられないと、蓄積された記憶に押しつぶされて現実が見えなくなりそうだから。そして現に、驚くほどたくさんのことを忘れている。思い出したいのにおぼろげなことがたくさんあって、時々そのことについて虚しさを覚える。どうして覚えていられなかったのか。だからこうして日記を書いているのかもしれない。


私が覚えていなかったら、あの人のことをを、誰が今後思い出せるというのだろう?
私が死ぬと同時に、あの人を知る人もこの世から葬り去られる。
記憶を抱くというのは重大なんです。

忘れたい、忘れたくない、忘れてほしい、忘れてほしくない。思い出は甘いものだけではない。酸いも甘いも含む思い出とやらに飲み込まれていたくはない。

忘れたい、忘れたくない、という話を、いつかの秋にIと電話で話したことがある。私はすべてを忘れたいと言って、彼はすべてを覚えていたいと確か言っていた。けれども、私たちはちゃんと、あらゆることを忘れていますよ。だって、あの時のあの空気も、あの時のあの感触も、覚えていればこんなことにはなっていない。過去と現在は別個。あなたは確かにあなただけれど、それは過去のあなた。あなたが好きだった私も、今では別の私になっているのかもしれない。そういう微妙な変化のなかでも、一緒に手を取り合っていけたらどれだけよかったろう。そんなことができたのかしら。

またこうして答えのないことを考え始める。もうやめたんです。放棄したいのです。
今日もよく眠れますように。


 < 過去  INDEX  未来 >


左岸 [MAIL]