昼食に誰かを待つ日は

2020年05月05日(火) 10時49分

何もする必要がなかったゴールデンウィークの夜。いくら寝付けなくてもうなされても寒がっても、翌日何の支障もなかった夜も今日で終わり。だから今日もきっと朝方4時ごろまで目を覚ましているのだろう。眠らないわけではなくて眠れなかった。そして必ず体は冷え、同時に空の色が群青色に変わる。不安と安らぎが同時に訪れる朝4時の冷たい空気は、何の匂いもない。無駄なものが何もない。ただ日が始まる前の、静けさだけがある。
部屋の時計が壊れて動かなくなっていた。時計は10時50分の手前で停止したままだった。それなのに、さっき時計を見ると0時近くにまで針が動いている。どうしたんだろう、直ったんだろうかと針の時計を現在(その時は9時過ぎだった)に戻して、そしてさっき再び時計を見ると10時50分の手前で止まっていた。どうしてこの時刻にわざわざ止まるのか。そしてなぜ動いたのか。いろいろ不気味で、チャイティーを飲みながらとりあえずベランダで月でも眺めていたけれど、やはり背後にある時計が気になってチラチラと目をやった。10時50分の手前、つまり10時49分。この時刻は何かの意味を含んでいるのだろうか。私はこの時間に死ぬんだろうか。単なる偶然かなんなのか。時計を新調しようとするも、どこの店も閉まっていて探しに行けなかった。通販で時計は買う気がしない。この目で見て、買いたい。それまで、この部屋はずっと10時49分のままだ。(動く可能性もある)

昨晩恋人に「なぜ私たちは会ってもスキンシップも取らなければ話もしないのに、こうしてライン上では会話をしているのか」という、答えに窮するようなメッセージを送ってしまった。今思えば、話はしているし、話したくない時には話していないだけだ。以前にもこういう内容のメッセージを送ってしまったことがある。そもそも私には、ラインをする相手もこの人くらいしかいないというのに。それに意味のないことを私のほうが送って、些細なことを報告するのも私だというのに。朝方、「散歩しようか それとももうライン上で会話することもやめようか とどちらを送るか悩んでいる間に数時間が過ぎていた おやすみ」という返事が届き、そして私は反省して彼にメッセージを送ったが、案の定何も返ってこなかった。彼と話がしたい。私には話し相手がいない。でも自分で言ってしまったことだ。仕方がない。しょうがないから、誰とも話さない代わりに、本を読んで物語の中で私は会話を楽しんだ。そしてその世界を楽しんだ。でも所詮他人が書いた物語に過ぎず、それは私の言葉ではない。彼と話がしたい。私には話し相手がいない。とても寂しい。

今日はフェリーニの『カビリアの夜』を見た。とてもいい映画だった。
「群衆の中には必ず理解者がいます。あなたの真価を知る人が」と、きらびやかな眼差しでいう人間が実は嘘つきだったということに、なぜだかとても絶望してしまった。なぜなら、その言葉を私は信じたからだ。映画のジュリエット・マシーナのように。だから彼女が崖から突き落とされそうになったとき、私もまた崖から突き落とされそうになったのだった。お願いだから殺して、と叫ぶ彼女と一緒に、私もそう叫んでいたのだった。人を信じるということはとてつもなく恐ろしい。でも、人を信じられない人間になるのはもっと虚しい。

もうすぐで日が変わる。明日になってしまうのが惜しい。時が止まり続けている部屋で時を刻むのは、時に追い越されていくみたいだ。いろんなものに追い越されてしまっている。それを月が、あそこから、いつも覗いている。


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左岸 [MAIL]