昼食に誰かを待つ日は

2020年03月18日(水) 開け放たれた窓

いつもより1時間早く目覚めた。誰も来ていない職場に来て、屋上でしばらくぼうっとする。すぐそばに中央線が走っているのが見えて気持ちがいい。昨日はずいぶん風が強かったけれど、そのおかげか雲がほとんどなく快晴だった。朝、見晴らしの良い場所に立つのは爽快。調子も戻ってきたような気がする。
仕事をしていて電話がかかってきてとると、名前も言わずに沈黙があったので「もしもし」と二回尋ねる。また少しの沈黙の後、「今○○の本を読んでいます。フェルメールについての記述は、○○ではなく○○だと思うのですが、どうでしょう!」と清々しい声。あれ、といろいろ驚いて、その後冷静に確認してみると、やはりその子のいうことが正しかった。誤植である。ありがとうございます、と返事をして電話を切って皆に報告。すごく一生懸命、緊張しながら電話をしてきてくれたことが伝わってきて、思わずみんなで微笑んだ。微笑んでいる場合ではないのだけれど。でもその電話はほっこりさせてくれたので、元気が出た。
仕事が終わって渋谷に向かう。Jの映画の試写会を見るつもりだったけど、「いいけど、何回目?この映画を見る暇があるなら、ヴェーラで映画を見ろ」というので、言われたままそうした。『私はモスクワを歩く』という映画を見て、これが大変良かった!ロシアの映画なのに寒々しい場面は皆無で、まるでフランス映画を見ているようだった。ユーモアがたくさん散りばめられていて、劇場でも笑い声が響く。確かにこっちの映画を見て正解だったのかもしれない。見終わって、試写室に行く。お世話になった方にもきてもらっていたので、あいさつをし、映画の感想を聞くと「昔のことを思い出して恥ずかしくなりました」という良い感想。
この映画は自主配給でJ含めあらゆる人たちが毎日頑張っている映画。実力勝負で本当にすごいことをしていると思う。それをいつも外側から、中に入らないように微妙な立ち位置で応援したりしなかったりする自分は何なのだろう、と思う。でも、彼の映画がたくさん広まってくれたらいいな。かつて通っていた学校で、一番仲の良かった友人の試写が行われるとは、あのとき予想しただろうか。何年も経つと変わるものなのだな。私はどうだろう。私はどうなんだろう、といつも思ってしまう。だからちょっと悔しい、というのも本音だけど、それは秘めておく。

眠くて眠くて仕方がない。人に会うのはやっぱり疲れる。映画はたくさんの人を巻き込むので、私には向いていなかった。だけど、今無性に撮りたい画がある。窓、窓が開け放たれている夢を見たから。なぜか鮮烈に刻まれているその光景が頭から離れない。解放したいんだろうか。人に会うと隔たりなく接しているつもりが、実は誰より閉鎖的な人間であるということを知っているから。夢がそれらを補完してくれたのかもしれない、あるいは精神的な願望が窓という形で現れたのかもしれない。ユングの本でも読むべきだろうか。なんとなくこの夢は通り過ぎてしまう夢ではないような気がする、という漠然とした感覚は抱いていよう。窓展を改めて見に行きたいな。あの展示は良かった。でも、あんまり覚えていない。物事をしっかり覚えられないな。よくないなあ。それでいいのかしら。もやっと何もかもを曖昧にして都合よく解釈する癖は、糸井重里さんの考え方に似通ってしまうようでちょっと怖い。そういう考え方を、自分もしてしまっているような気がする。もやっとさせて、なかったことにし、あるべき事実がいつの間にか奥の方に引っ込んで目を背ける。そのような癖がついてしまったら、根本的なことは何一つ解決されずに終わる。考え方を改めていかないといけないのかも。思考力を奪われたら終わりだ。思考停止の人間になっちゃだめだ、とJに怒られる。


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左岸 [MAIL]