昼食に誰かを待つ日は

2020年02月18日(火) 夢を思い描かなくても許されたい

この間、従兄弟に金を貸すため高円寺に出向いた。それまで私はダラダラと井上の家にいてゆっくり寝ていたのだが。私もついに金を貸す・貸せる立場になってしまったのかと妙な感慨に耽る。従兄弟のしんげん君は21歳で、神戸から上京し、今は彼女と高円寺に住んでいるという。神戸の親戚なら誰もがお金を貸してくれると思うのだが、それでも私に言ってきたということはよほど切羽詰まっていたのだろう。彼はウーバーイーツでのバイトを終えてそのままやってきた。タイ料理を食べて、コーヒー屋に移動し、財布から諭吉を3枚取り出して、渡す。「ありがとう、ねえさん!こっちに来て頼れる人がほんまにいなかった」とのこと。清々しいほど気持ち良くそれを受け取った従兄弟。終始彼女の惚気話を聞かされたが、弟のようで可愛げがある。困った時は助け合いの精神で(金はないけど)、頑張ろうと伝える。

その後は井上の家に再び出向く。スーパーで食材を買って帰ったが、井上は一人でたらこスパゲッティを作っていた。ということで一旦料理は保留にして、大島弓子のマンガを読んでいたらば、読み終えた直後に涙がダラダラダラダラと出てきて、気がつくと嗚咽をし、隣で井上が肩をさすったり、鼻水をかませてくれたりしてくれていた。「自分に嘘をついてる気がする」というような言葉を何度もいい、ウッウッと泣く。何をしていても泣けてくる。チョコレートを口に入れてもらって、ようやく少しおさまったけれど、とてもかき回されたのだった。私は繕っているけれど、本来強くもなければタフでもなく、少々のことで泣く人間なのである。でもそれを封印してる。お気に入りの傘を盗まれただけで泣き、自分と全然関係ない人の悲しみを想像しては泣き、道端で寂しそうに咲いている花を見ては泣き、一人でラーメンを食べているおじいちゃんの後姿を見ては泣く。でも、そんなことでは社会で生きていかれないから、いろんなことをぐっとこらえて見過ごして、強くたくましくあろうと心掛けているのだけれど、そうすることで誰かを傷つけているかもしれず、そもそもその自分が本当なのだから今の自分は一体なんなのだろうと繰り返し思い、そんなこんなで、今まで泣いていなかった分の涙が出てきたのだった。大島弓子を読むと、嘘が剥がされていくから、だから大事。まるで子どものようになってしまう。


ようやく落ち着きを取り戻してからご飯を作った。そぼろは失敗してしまった。
Netflixで「パンデミック」特集を見ていたけど、これはコロナウイルスが発生する1ヶ月前に作られた番組で、まるでそれを予知しているかのような内容でますます怖くなった。というか、コロナウイルスってもうパンデミックではないのですか?
あまりに恐ろしいことが起きているけれど、おそらく本当のことは知らされていないんだろう。こんな状況で未来に希望など持てるわけがない。それでもうっすらと、将来を思い描きたくなるのは、そうでもしなければ未来を生きていくことができないからだろうか。
子どもの頃、学校で将来の夢について、つたない字で書かされることがあった。何も知らないからこそ単純に夢を思い描けることができたのは、なんて幸福なことだったんだろう!
それでも、夢などない私でも、日常の些細な事柄に対する喜びを発見するセンサーだけはきっちりある。その積み重ねでたどり着いた先で、ゆっくりお茶でも飲んでいれたらいい。必要以上にジタバタしないこと。


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左岸 [MAIL]