昼食に誰かを待つ日は

2019年10月16日(水)


台風が来ていた日、タクシーのなかにいた。コンビニがことごとく閉まっているのを初めて見た気がする。ひょっとすると、毎日開いているほうがおかしいのかもしれない。こんな日にしか休めないなんて気の毒、と思っている自分がでもほとんどコンビニを利用しているのでこんなこと言える口ではないのだが、それでも台風の日に都会の人間がほとんど外に出なかったことで、たとえば節電に繋がっていたかもしれないし、無駄な廃棄物を抑えられたかもしれない。その分、小売店はその日の売り上げが赤字に繋がって大打撃を食らっていただろうけれど。生きるために金を稼ぐために私たちの生活の娯楽のために、あらゆるものを毎日踏みにじっている、その分のツケが突然襲ってくるのは仕方のないことだと思ってしまう。自然にはかなわないけれども、それでも台風で自分は無事だった、家も無事だった。被害に遭った方々は大勢いて、死者も出ている。そのなかに今回自分はたまたま入らなかった。



「こんな日に、すみません」と私は運転手に謝っていた。でもすでに乗っているくせに何を謝っているのだろうと、口に出した瞬間に後悔する。行為と言動がともなっていない。謝るくらいなら乗るな、運転手の仕事を増やすな、と斜め上から悪魔がぐちぐち何かを囁いていたが本当にその通り。けれど運転手は「いえいえ。電車が動かないでしょう。こんなときにはタクシーが頑張らなくちゃね」と親切に返してくれたためホッとし、「でも、これからもっとひどくなるみたいです。酷くなったら本当に危ないので、運転は控えたほうが良いと思います」と、考えればわかることをそのまま口に出し、またもや後悔をし、もうこの後は何も話すまいと決めた。


「そうですね。そのときはさすがに帰ります。それにしても、家の屋根が心配だなあ」


目的の場所つく。安全な場所に向かう。そこはほとんど外の音がしない場所で、だからどれくらいひどい雨なのか、風なのかがほとんどわからなかった。ある意味不気味な空間で不安にさえなったのだが。それでも携帯で警報が鳴るたびに、外はひどい大荒れであることを思い出す。話は飛んで、台風が過ぎ去ったあとの空はとても青くてきれいだった。


深夜バスに乗り込み山形について、はじめて山形国際ドキュメンタリー映画祭に行った。6本ほど観た中で良い映画が1本しかなかった。映画が素晴らしかったというただそれだけで終わりだったらよかったのに、それ以外に気をとられ、気をそがれ、あまり良い時間とは言えなかった。同伴者についての話である。一緒にいることで受け入れられる部分が多くなると思っていたが、どうやらそれは違うようで、一緒にいる時間が長ければ長いほど息が詰まり、些細な言動が許せず、そしてものすごく孤独な気持ちになった。彼はおそらく文化人であるのだが、芸術に触れるのは知識をひけらかすためなのだろうか。まず目の前にいる人間について考えることをしないのだろうか。人に対して、言葉に対して、動きに対して鈍感なのはなぜなのだろう。いうことなすことがすべてきれいごと、嘘っぱちに聞こえてならない。山形は寒い地だった。私はすでに冷え切っていたのだろう。寒いからはっきりとわかることがある。


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左岸 [MAIL]