昼食に誰かを待つ日は

2019年10月03日(木)

今日は父親の命日だった。仕事が終わって部屋に戻ったあとで、思い出せることすべてを、できるだけ思い出そうと努めた。記憶を追わない限り会えなくなってしまったのかと、再び思う。思い出す前にすでに涙が出ていたが、悲しみのためではない。誰かにもたれかかって生きていたくはない、と泣いている途中に強くおもって、自分のなかに大きく冷たい針が一本刺さっているようなイメージを浮かべると不思議と気持ちが楽になる。冷たくて太い針。この針が刺さっている限りは自分がぶれることはなく、他人にもたれかかることもなく、生きていけるような気がした。父の命日にこんなことを思い浮かべてしまうのはよろしくないことだとは思うのだが、いつもいつも自分を保つためにはどうすれば良いのかを無意識に考えてしまっているので、このイメージにたどり着いたときには本当に落ち着いたのだった。そうして今も落ち着けている。もう誰もそばにいなくて大丈夫。もう誰もここに来なくて良い。今はとてつもなく、ずっと部屋の中にいたい気持ちでいる。この針がある状態で人に会うのは困難だ。だから人に何かを話すかわりに、ずっと紙に文字を書き連ねていた。これが治癒で、これが消化。もうずっとこういうことをして過ごしていたい。公開することがすべてではない。書くことは自分のため。こういう風に地を固めて行かなければ、いつどう自分がポッキリ折れてしまうか分からない。それが本当に怖いのだった。誰かはいずれいなくなり、誰かは所詮他人。恋人であろうと友達であろうと家族であろうと。だから、自分は自分で支えなくてはいけない。その土台を今しっかりを作っていきたい。今は誰も近くにいなくていい。そう。父が死んだ後わたしはこの状態になっていたのだった。だから、悲しかったけれども精神は壊さず、なんとか毎日を生きていけたし、過剰に悲しみ、過剰に誰かに寄りかかったりすることがなかった。すべてを遠く見ていた。おちゃらけた自分を演じるのに時々ものすごくつかれる。いつまで道化でいれば良いのか。もう色々をやめたい。そしてひとりで針と向き合っていたい。誰も近づいてこないでほしい、今は


 < 過去  INDEX  未来 >


左岸 [MAIL]