昼食に誰かを待つ日は

2019年09月08日(日)

 友人Jの映画が京橋で公開している。舞台挨拶もあるというので彼の晴れ舞台を見に行こうと意気込んで向かったのだが、遅刻が原因で中に入れてもらえなかった。何度せがんでも駄目で、次回にどうぞと言われてもわたしに次回などなく、だから今入りたいのですと熱を込めて伝えても無駄だった。役所じゃあるまいし、なおかつ映画なのだからそんなにお堅い制限を設けなくってもいいのに。あほらしいこと。机の上には紙が置かれ、そこには友人の名前が記されていた。どうやら友人も中にいるらしかった。しかし結局誰一人の顔を見ることはできず、映画も見れず、舞台挨拶も見れずで意気消沈し、一瞬行き場を失う。表に出ると、ポスターにJの顔が写っているのを見つける。彼は、こんなに精悍な顔つきをしていたっけ。
 
 京橋から銀座に移動し、久しぶりに銀座の映画館に向かい『アマンダと僕』というフランス映画をみる。前日にはタランティーノの新作を見てドーパミンが溢れ出たのだが、今回観た映画はいわゆる"ミニシアター系"で、現実的で地に足が付いていた。出演していた子供の瞳の色が忘れられないのと、道路を自転車でただ駆けて行くだけの画がやたら鮮明に残る。誰かと一緒に毎日自転車で並走している日常で、ある日突然、隣にいたはずの相手がぽっくりあの世に逝ってしまったら。毎日駆ける道はもう、二度と昨日と同じ色には見えないだろう。

 劇場を出て銀座をうろうろする。銀座は、ただふらふら歩いているだけでも楽しい。ブランド品店、入り口付近がごった返している大きな無印良品、信号の向かいに見えるやたらとお洒落なドトール(なぜかフランス語表記だったような)、珈琲の値がやたら高い喫茶店、画廊、てんぷら屋、謎の骨董屋、馬券場。また、いかにもお金を持っていそうなマダム達、買い物袋をどっさり抱えた中国人らしき人々、でかい犬を散歩している若い女性、容姿がいかにもデザイナーまたは建築家、または美術家のように見える手を繋ぐ中年の洒落た夫婦など、人を見ているのも楽しい。
 そんな街をひとりで歩いているのが良い。そしてぶらぶら歩いていると、人の気配が薄れ、見るものに色がなくなり、全体的に灰色に装飾されたひとつの淋しい道に出た。ここにたどり着くために歩いていたような気さえする。疲れて、近くにある喫茶店に入り珈琲を飲んだ。
 この日の夜は、JとI、それから他に映画を撮る人と、映画館で働く人と共にお酒をのんだ。みんないい人だった。わたしはほとんどおまけみたいな存在だったが、それでも友好的に接してくれたことが嬉しい。そこに行くほんのすこし前、わたしは駄々をこねていた。するとIに、「悪いけど、せっかくのおめでたい場だから僕はひとりで行くよ。機嫌が悪いひとがいたら雰囲気が悪くなる。行くなら行くで、ちゃんとして」と怒られていたのだが。ちゃんとできたのかどうだかは定かでないが、その場ではなぜ機嫌が悪かったのかをすっかり忘れていたので、きっと大丈夫だったのではないかと思う。
 帰りの電車では、皆が口々にJのことを話題にしていた。これまでもよく話題にのぼる人物ではあったのだが、口々に皆が彼のことをある意味で"天才"と呼ぶので、すこしおかしかった。その"天才"に、でも皆が期待をしているのは確かだ。昔も今も、わたしにとってJという男はまだ摑みどころがない。そして彼ほど周囲の様々な反応を鋭敏にキャッチし、察する人を知らない。気疲れしないのだろうか、と思っていたのだが、きっとしているんだろう。この世には聞く人間、自分の話をしたい人間の2種類に分けられると思うのだが、彼は完全なる前者だ。徹底して前者。けれどもその話からほんの一部の、自分にとって必要な部分だけを自分に取り入れる術を身につけているので、話のほとんどをおそらく聞き捨てている。そして拾う部分、ピンポイントに焦点を合わせることにことごとく長けている。それから人を巻き込む力、知らない間に人に対して役割を与え、的確な指示をすることはほとんど才能に近い。確かにJはただの常人ではないように思われる。というよりかなり器用な人間だ。ただ、そんなことはわたしとっては別にどうでも良い。本当の話ができる相手としてJの存在はかなり大きく、今までどれだけ救われてきたかわからない。その彼の晴れ舞台を見れなかったことが本当に悔やまれる。けれどいずれ、もっと大きな場所でその姿を見るときがきっと来るはずだ。
 
 昨晩。わたしは頭のなかにひとりの女を思い浮かべていた。そして、寝そべるIに向けてその女の話、情景の細部をなるべく丁寧に説明していた。この話の細部はここに書かないことにする。なぜなら、もっとあたためてちゃんと形にしたいから。Iは興味を持ってこの話を聞いてくれた。この話は映像でもはっきりと浮かぶ。けれどもIは、それは映像ではなく書くべきだという。その理由はおそらく、とある一瞬の行為にすべての意味が詰まっているから、なのではないかと思う。大事な部分は画にすると、まったく見えない可能性さえある。けれど文章は、あまりに鮮明にそれが見える。"見える"、"見えない"。映像なのに見えない。文章なのに見える。なんだか矛盾しているようだ。それでもこの話を真剣に聞いてくれたことは大きかった。
 
 今はようやくひとりで部屋にいる。迫り来る台風、迫り来る悪夢の月曜日を迎える準備。なんてものは用意しないが、それでも日曜日のこの時間はなんて憂鬱なのだろう。さっき、この部屋が燃える夢を見た。消防士の人が部屋のなかに入ってきたのだが、部屋が燃えているというのにわたしはまだ中にいて、部屋が完全に燃えてしまう前に持つべきあらゆるものを、探していたのだった。けれど必要なものが何もない。何もないのに何かあるような気がして、ずっと探す。消防士に「わたしは何をもっていけば良いのでしょう?」と間抜けな質問をすると「何も持たなくていい。早く外に出て!」と怒られた。やけにリアルな夢だ。なぜならわたしは実際そんなことをしでかしそうだから。
 この夢を見たあとで台風情報を調べると、なかなか勢力の強いものが迫っているということですこし怖くなる。このオンボロ木造アパートは、強風のひとつやふたつで屋根が簡単に吹き飛ばされてもおかしくないくらい朽ちているから、もしかすると何かが壊れるのではないかと。火事ではなく、台風で何らかの被害があるのではないかと。それならそれでいい。もういっそ全てを吹き飛ばしてくれと、正直やけくそな気持ちも抱いている。全て吹っ飛んだらそれはそれは愉快だ。地味なやり方ではなく、タランティーノの映画のようにド派手にいってほしい。そうしたらわたしも何もかものタカを外して動き出そう。ハメを外そう。人からうんと嫌われよう。そうして死ぬほど笑う。そういうこと、を制限しながら生活している。だから小説や映画での派手な描写が必要なのだ。徹底して痛く、徹底して滑稽で、徹底して残酷な話が必要なのである。自分の制限をなくしたら、わたしはきっとイルカの思考を持つ野蛮人になってしまう。近くにいる人の耳や手を噛み切るくらい獰猛で、本物の涙だけをひたすら舐めていられるくらい寄り添いたく、自然と交歓するために裸で外へ出る。
 もうすでにこのあたりがわたしにとって鎖だらけだから。街も新しくなればなるほど鎖、会社へ行く人の足にも鎖がかかっているのが見える。人も街も、すべてが何もかもに制限をされている。だから、そうじゃない遥かな場所に向かいたい。鎖は見えないから、つよい。鎖は見えないから、いくらでも数を増やすことができる。対抗できるただひとつの手段を、だからこれからもっと探さなくては。

 雨が強まってきた。雨がたくさん降って、錆びちゃえばいいんだわ。鉄なんて。


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左岸 [MAIL]