昼食に誰かを待つ日は

2019年07月17日(水)

日記なのに書く内容があまりに抽象すぎるので、もうすこし細かく日々のことを連ねていこうと思う。そしてここに書く人の名前を「I」とか「K」とか、まるで記号のように記してしまっていることは良くないような気がする。名前がついているのだから、ちゃんとその人が存在しているのだから。私の日常の中では。だから名前も、時々ぼかしながら書いてみることにした。と言っても、この日記は誰にも読まれていないことは前提で、すべて自分の記録のために書いているのでこの試みが誰にどう影響するわけでもないのだけれど。

今日は隣の席の林さんの格好が素敵だった。白いシャツに黒いズボンをさらりと着こなしていた。林さんは全く化粧っ気もないし、一度もスカートを履く姿を見たことがないけれど、とても女性らしい。密かに憧れているのであるが、なぜか林さんはわたしをよく写真に収めてフォルダに保存しているようだ。パジャマみたいな格好で出勤してくるのが面白いらしい。(毎日パジャマスタイルではない)

昨日今日と活字ばかり読んでいて、しかも少し内容の重いものばかりだったので、なんとなく雑多な場所へ、うるさい場所へ行きたくなって、仕事が終わってから新宿へ向かった。昨日も行ったけど。
井上君と紀伊国屋の前で待ち合わせをして、わたしが好きな店(紀伊国屋地下にあるパスタ屋)でスパゲティーを食べて、武蔵野館で『ペトラは静かに対峙する』という映画を見た。誰も幸せにならない映画だったけれど、太陽の光や木々、風の音や家の石壁などは温かさに満ちていて、起こっていることは間違いなく悲劇的なのに、最初から最後まで陰鬱にはならなかった。のちに井上君に言われて気がついたけれど、この映画には一切「夜」が出てきていない。だから闇が映らず、すべての場面に明かりが灯されていた。それでも見えない部分で心の闇は侵食していて、性根の腐った、人間の形をした悪魔のような芸術家の男を中心にあらゆる者が傷つき、犠牲になって行く。
「俺は被害者意識を抱いて生きている人間が大嫌いなんだ」というようなことを言い放つこの芸術家は、でもきっと生まれたときから誰からも見放されていたのかもしれず(親は小さい頃死に、のちに兄からも追い出された過去がある)、そういう意味では誰より被害者で、可哀想な人なのかもしれない。「俺は誰の力も借りず、創作活動でここまでのし上がったんだ」と自負するのはいいけれど、その全てが正しいことだと思い込んで生き、自分自身に対して何の疑問も抱かないというのはとても恐ろしいことだ。行動や言動に彼の傲慢さがうかがえて、見ているだけで不快だった。でも、こういう人間は現実でも存在しているんだろう。この種の人間が持つ自己肯定感はすさまじくって太刀打ちできないが、他人が自分を見る目に対しては恐ろしく敏感で、どこかでいつも怯えているのだと思う。

それにしてもスペインの映画はあまり余計な演出がなくて静かで良い。あまりに過剰な映画が多いので、いまは削いで削いで削がれたもののほうがぐっと胸に迫るものがあるし、純度が高い。何かを付け加えようとする表現が多すぎるけれど、そんなのもうありふれているのだからやめればいいのに。


そんなこんなで家路につき、あとは眠るだけだ。静かな小説ばかり読んでいたので、今日は村上龍の『インザ・ミソスープ』を買ってみた。彼の小説を読むと、不思議と精神が鎮静するのである。


 < 過去  INDEX  未来 >


左岸 [MAIL]