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2020年12月31日(木)

最近読んでるのが「生まれてこないほうが良かったのか?」というタイトルの本で、なんか最近の誕生否定の哲学で有名なベネターという人の話から、インドとかブッダとかいって、今はニーチェにきている。読んでるとニーチェはすごいドコモショップとかホンダカーズとかセンチュリー21とか、なんか体育会系の人が多そうなそういう業界の人みたいだと思ってしまう。

あと、こんな昔からこういう議論があったのかと驚く。たとえば生きてることは全部苦なんだよ、とか、ちょっとでも苦があればそれは何も生まれてこなかったときのほうがマシなんだよ、とか。あとは世の中への執着を捨てて二度と輪廻転生しないように解脱するために修行しまくって涅槃にいたるんじゃとか。そういうのをずっと秘伝のたれみたいに継ぎ足したり逆に考えたりして哲学というのは続いてきたのかと思う。

バスに乗りながら途中まで考えて会社に近づくにつれて忘れていくようなかんじのやつを、昔の人は日がな一日中突き詰めて考えたり、書物に残したりしてきたのだ。ニーチェのところではなんか運命愛と永遠回帰というのがあって、運命愛と生成は相入れないみたいなことが書いてあって、なんかエヴァを思い出していた。というか、この本エヴァみたいっすね。

運命愛というのはある種宿命みたいなものであり、生成というのはそんなの関係ねぇという野放図がうりの概念であり、前者はぐるぐるして同じ場所、同じときがめぐりくることを肯定する概念であり、生成というのはそういうことをがんがん裏切って繁茂する、ぐるぐる同じことになることを否定する概念である。で、この両概念を推してたニーチェというのは矛盾してるのかというと、、、
というところまで読んでる気がする。もう最近本も読めないし、論理的にもの書く気力もない。

で、これがエヴァのなんとか(not)Redo.とか、かっこ付きでnotとかついてたアレに似てるなとおもったのだった。それにエヴァ自体がぐるぐるしてるイメージがついてて、ある意味輪廻っぽい。前回は世界が終わって、かなりがっつり終わったけどシンジ君がかなり後で「これは違うっぽい」と言って瓦解したけどあんまり元に戻らなかったっぽいところで終わった。

またシレッと序から始まって、どんどん脱線してQでもう全然違う話になってきて、最近になってシンエヴァンゲリオン劇場版の本予告が公開された。今月下旬、やっとエヴァが終わる。14歳のとき本放送があって、でもテレ東が見れない地域だったので、友達が誰かから借りた3倍のVHSに録画された全話を、その年の大晦日にみた。そして2年後か3年後に劇場版を見て全員無言の帰宅をした。あの時の衝撃は多分体に刻み込まれてると思う。画面の右下に終劇と出てから、すぐスクリーンの前に薄い白い幕がサーとかかっていって、電気がつき、余韻にひたるまもなく現実に引き戻された。あの衝撃と余韻へ浸れなかったあのときの17歳ぐらいの自分は今もどこか、体の中に残ってる気がする。それは今でこそSF的な道具立てや考証や考察のほうがメインになりつつあるエヴァがトガってたころの、ある種のパワハラみたいなものだった。

なんか前の劇場版でリツコが白衣のポケットで自爆スイッチ押したりしてたとこっぽい場所でいろんな人が一同に会しているような感じの場面があって、ゲンドウはゴーグルというかバイザーみたいなやつが撃たれて窪んでるシーンがあったりしてめちゃくちゃ興奮した。そういや旧劇ゲンドウは手にアダムをしこんだら全部ちゅるっと綾波の子宮に取り込まれてヘタレみたいになってすごい抽象的に食まれて死んだ記憶がある。あれは加持が固めたアダムを持ち帰ったのだが、新劇で持ち帰ってきたのはネブカドネザルの鍵だった。これをゲンドウが使用した場合、単純に旧劇は手のひらに有機体を仕込むのが、新劇だと体内に機械?を仕込むという話になってくる。で、このへんの機械を仕込んだ結果が本予告の眼鏡が割れてるあたりに現れてるのかなと思う。
で、ゲンドウの目的が前回と同じでユイに会うだとしたら、この機械でどうやってユイに会うのかということになってくる。機械になると行けるみたいな場所、逆に肉体があると殺がれてしまうようなゲートをくぐるとか、エウレカでもなんかノルブとサクヤが木の船でキスしたら体を持ってかれてエウレカとレントンはニルバーシュに乗ってたから大丈夫だったみたいな話があったが、そういうところの瀬戸際でリツコやシンジやミサトが会するんじゃないかと思う。つまり、させるかよ!ということである。
前回の圧倒的儀式感、有無を言わさぬ強制力のようなものや、儀式をずっと現実の言葉に置き換え続ける日向くんとかネルフの面々や空を見ながら諦めの表情を浮かべる戦自の人たちとか、ああいう儀式のもつ圧倒的パワーに対して受け身で依代になるだけだったシンジ君に対し、今回のエヴァはもうみんながとにかくなんとかしようという感じが、じつはあまり好きではない。
なんか、蹴散らしてほしいなと思ってしまう。というか、あの世の中にそんな都合良く赤い養生テープが残ってるかとか、あの世界のどこの製造ラインで作ってるのかとか、13号機の出てくる胎盤みたいなやつは誰がどうやって作ったのかとか、バグりネルフのマークは誰が描き直したのかとか、ヴンダーを建造する能力はどこにあったのかとか、なんでも戦艦の底でなんとかなると思うなよというか、もうガフの扉まで戦艦の底でなんとかなりそうになってきてる感じがあんまり好きじゃない。もうガフの扉に入ったら有無を言わさずエヴァは引き裂かれて中身は液状化して赤い実はじけたになってほしい。
現代は不確実な状況によって臨機応変に対応したものが勝つのだとしたら、それは結局コミュ力とバイタリティによって差別化される世界であり、ゼーレみたいにじっくり段取りを整えた人たちが最後に有無を言わさぬ儀式で世界を終わらせるようなパワーを得る世界ではなくなってしまっていることが納得いかない。で、ニーチェはそういうゼーレやゲンドウ的なものに否定的っぽいにおいがする。どちらかといえば、世の中をどうにかしようともがくアスカとかマリとかミサトにつくとおもう。自分はFUJIWARAであれば、原西のほうが好きで、フジモンがあまり好きではないのも同じ理由である。ギャグよりも当意即妙なガヤのほうが世間的に「強い」ことが納得いかない。

ともあれ、エヴァも終わる。楽しみがひとつなくなるのだ。40歳になってしまった。26年も経ったのだ。結婚しようかな、ともおもう。ひとりで生きていこうかなともおもう。




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