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暗数の暗渠

2020年10月10日(土)

服着てあるいてると、きびしい。自分はすでに暗数になって、暗渠に入りつつあると感じる。もうとっくに強制スクロール面の壁に挟まれてて、どうにもならない。

信号待ちでバスが止まり目を開けて、反対車線の歩道をみると、バスを降りて歩く人の列があり、そこにいない人(暗数、自分)を感じようとする。最近、いない人が気になる。この社会の歩留まりが気になる。

背の高い人が目につく。整ったカップルが目につく。車でワープする家族が目につく。生き残った人ばかりだ。サラリーマンは太ったとは言えどれも意外と恰幅がいい。生き残った人ばかり。最近はガタイ(バイタリティ)やポージングとして生き残ってる人しか外にいないのではないかと思うことが増えた。

ポージングとは空間認知とかまなざしの総数に支えられた自己モニタリング能力のことだ。車の駐車のとき、ナビ画面に映る車を真上から見たように再編集された画面のようなことだ。私が勝手に思ってるだけだ。つまり女性はポニーテールの揺れまで計算して生きているというような、計算はしていないにしても誰かのポニーテールをみて、私のもこう揺れるだろうといったインストールで髪を結っているようなところがある。これの壊れっぷりは世の中の見えかた、解像度の悪さの曝露であって、超ヴァルネラブル、ワンモアヴァルネラブル、ヴァルネラビリティ待ったなし

今の時代、自己モニの平準化機能が強くないと、生き残れないか、少しずつ周縁に掃き出されていくのだと思う。無理に住むと、病んだり、成果主義によって少しずつ金銭的に暮らせなくさされるのだと思う。

だんだん自分は生き残れないという気がして、バスを待つ、すらっとした老人をみて、わたしはこういうふうに老人にはなれない、そのまえに暗渠に消えてしまうのではなかろうかと思うことが増え、そうなると、バスから降りる人の数人のうちにも、その中にいたはずの人を見ようとするようになった。そして自分ももうすぐ何らかの理由でそこにいくのだろうなと、望みなのかうんざりなのか、その半々ぐらいで「そこ」に期待&恐怖するようになった。

フレスコ。スーパー、役所、図書館はまださまざまな人がいるような気がする。ここにおったんかわれーと思う。図書館が一番近いような気もするが、またまったく違うような気もする。フレスコで腰の曲がったおばあさんをみると、やりたいことは全部やったんですか?と思う。全部我慢してわからなくなっちゃったんじゃないですか、とも。それから世の中の悪についても思う。世の中の栄養の吸い上げかたを思う。そしてまた暗数、暗渠のことを考える。

自分の服が暗数を予約している気がする。服が包摂を拒んでいる。鈴木志郎康さんは白がやさしく、闇がやさしく、といったような感じのことをよく書いているイメージがあるが、闇がやさしいのはそういうことなんだと思う。信号待ちで、向こう側の人からどこのカタログやねんと思われてそうで怖い。ちゃちゃいれマンデーで大阪の市井の人の服をみると安心する。年齢による服の誤差も年々広まっている。

21エモンの0次元の恐怖という回がある。昔夏休みまんが子供映画大会みたいなやつで見た記憶があって、最近またおもいだしてAmazon Primeでににちレンタルで見たりした。

子午線6の鼎談で松本圭二が思潮社現代詩文庫鈴木志郎康詩集の背表紙の著者近影について、ゼロ次元ですよと言っていた。著者近影というか、鈴木志郎康さんがパンツ一丁で目を閉じながら歩いている全身を正面から撮影したもので、視線恐怖だった(今も)私は「この人も視線恐怖なんだ!」と思って親近感をおぼえたことがあった。

ゼロ次元というのは1960年代のパフォーマンス活動らしく、なんとなくオゲレツな、アメリカでやったらかっこいいのだろうがいかんせん日本なのでまず歯茎に栄養が足りてねえよみたいな、なんか汚さばかり目について、自尊心が低下していく感じがする。

原作にゼロ次元の恐怖はあるのだろうか。21エモンの新装版を買おうか、どの話だろうか。ノッペラ星が近い気もするが、どれだろう。

31話「目玉と口が散歩する? エモン・ゼロ次元の恐怖!」
http://www.mars.dti.ne.jp/~yato/21/31.htm

これも暗渠に運ばれていく人の話だ。SNSの風刺にもみえるし、AIの反乱とか、効率化重視のディストピアとかいろいろ思い浮かぶ。

AIが、支配する星の町外れの砂漠にある切り立った岩間のブラックホール(これがゼロ次元らしい)にベルトコンベアで老人をがんがん流し込むという話で、21エモンに優しくしたおじいさんはブラックホールに流し込まれてしまう(スローモーションで印象的にのまれる)。そして次は21エモンを馬鹿にしていた若者らがのっぺらぼうのまま運ばれるが、どれが自分の体かわからないので戻れない。とりあえずエモンやモンガーは脇をつかんだり、モンガーの超能力で流される体をレーンの外に置き直すが、とても間に合わない。と、そのとき…という話なのだが、もう私もすでにゼロ次元に入ってしまっている。

鈴木志郎康さんも、浜風文庫に詩が投稿されなくなってかなり経つ。ずっと私はネットで詩のことを追いかけるうちに、そこで死ぬ人のことを言葉としてみてきた。鈴木志郎康さんはまだ生きているはずだが、詩を見ることはできない。Facebookでは更新されているのかなと思いはするが、わからない。私にとっては鈴木志郎康さんも暗渠に入ってしまった。鈴木志郎康さんは死ぬまで詩を書いてくれると思っていた。自分が死ぬ時のことを、詩にして自身のホームページに書いていた。そういうふうにはいかなかったのだと思う。そして自分もそういうふうにはいけないのだと思う。その暗渠、もう入りつつあるその暗渠が怖い。

ひきこもっていたころは極私的分析的覚書(鈴木志郎康さんのサイトにあった1と4の抜粋)を、暗渠からぬけだすための回路として読んでいたのに、それだけでは足らなかった。生まれつきのことを考えだす。生まれつき手が足りなかった。これもよく思う。


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nemaru [MAIL]

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