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ふわっとおもうことメモ

2020年10月02日(金)

なんか、決断のフローすら分割してほしいと思っている。やすとものどこいこというテレビ番組は、本来海原やすよともこと芸人がショッピングモールを練り歩く1時間番組であるが、現在はコロナの影響で、キッチンスタジオで芸人とクッキングし、芸人の手土産を紹介し、やすともがノートパソコンでネットショッピングしているのをそのまま映すという試行錯誤体制となっている。

うちの会社は、会議といってもみんな椅子の背をのばして、くちぐちに喋って1時間が過ぎる。何か決まるときもあるし、決まらないときもある。そういうのを何度もやる。プレイングな人が多いので、そのすかすかの1時間のせいで現場はひっ迫する。でも意思決定の名の下に、そういう人の給与は高い。首を右に左に向けるのだから、手足より重要だということらしい。20年ぐらいかけて、そういうのも「そうか?」となってきた。

すかすかの1時間には、変われない人への猶予期間的な優しさもあれば、経営陣の「変わっいってるー!(ナダル風に)」的な自己満足や、旧弊なかたがたの老獪なサバイバル術、あるいはまんまど直球な、高圧的なコミュニケーションが入り混じって、混沌としている。老獪や高圧などは個々の人生設計とか身の回りの風通し、肌触りの問題であって、仕事を進めるうえでは論外だとおもうのだが、経営陣はこういう姿勢を見かけても是正せず、ただスマートなふりをして、無意識下にスルーする。そして、会議が終わると個別にマッチポンプする。簡単に言うと、ガキの使いで遠藤が浜田にタメ口を使う企画みたいな感じになる。なら会議で最初から経営陣と老獪がバトれば手っ取り早いのだが、彼らは決してそうしない。

そんな彼らが、コロナを錦に、また、世代交代による「言える世代」になってきたことなどを追い風にして、評価制度を変えようと言ってる。そんな姿勢に、わたしは信頼をなくして、うんざりしている。

推進力のある人、チャレンジする人をより評価するように変える(前からやってきてたけど!)、だそうだ。

それももう20年前の話のような気がする。やっとコロナで言えるようになったらしい。

個人的な感覚では、もうその、推進力のある人とか、チャレンジする人とかいう発想、そういう人が単体である、ひとりである、という発想自体が、もうとろけてしまっているのだ。

それはもっと世の中もやっとしていて勧善懲悪がはっきりしないガンダムとかいう話ではなくて、決めるとか推進するをもっともっと細分化して、ひとりのものから解放してやれば、もっとみんな評価されてお給金の一極集中もなくなるのになという感じなのだ。

それはレインボーブリッジ封鎖できませんのときみたいに全員が豆知識を持ち寄って地図に書き込みをしていく感じともちょっと違う。それはそれでぶっちゃけみみっちいなという気がする。

で、やすとものネットショッピングの感じが個人的にはいいよなと思う。

あの感じで仕事を進められたらおもしろいだろうな。

あと、100円ショップとかホームセンターを練り歩きながら改善のアイデアを探すとか。そのために現場を昼から抜けて、ロケみたいにするとか。そこで遠藤タメ口企画みたいにするとか。なんか、スーツで新幹線で「行く」みたいなクソふわふわした仕事より、こういうロケみたいなもののほうがより仕事なんじゃないかという気がする。

で、そういうこと(ロケ)をファシリテートする人の給料がそこそこ高くなり、その次は決断か交渉能力の高い人がちょっと高くて、あとはみんな同じぐらいにしても、今よりはもう少しお給金が上がる気がする。

ネットショッピングならキーワードを思いつく人、検索する人、選ぶ人、承認する人、選んだものに交渉が必要なら交渉のうまい人、その交渉のうまい人の裏にも、思いつく人と検索する人が構えている、といった構図。もっと割ってもいいかもしれない。要は、検索ワードを知ってる人が分野に詳しめの人で、あとはパソコン操作がうまい人がいて、画面が大写しになっていて、そこにこれええんちゃうとか言いながらちゃっちゃか決めて、経営陣がしゃべりが上手い人に電話してみてと言って、電話の音もそのまま流して、横で全員がこそこそアドバイスして、っていう感じの砕けかたで全責任は経営陣が負う、みたいな。

評価制度を変化させるぐらいだったら、もっと相好を崩して実をとりにいっていいんじゃないかという、個人への見方とか評価を変えて活性化させるまえに、コミュニケーションのありかたをトップダウンで変えていったほうがいいんじゃないか?と。どっちでもとれるアルカイックスマイルでどっちに転んでもアルカイックスマイルみたいな世界観をまずやめろ、と。結局その裏にゲンスルー的な爆発より大きなオーラで手を覆うみたいな男性社会が控えていて、なんだかんだでそれを耐えれる人しか控えていない社会みたいな気味のわるさをいつも感じていて、そういうののことを毎日毎日稲川淳二ばりにからえづきながら生きている今日このごろ。

この構図をしっかり見える化して、推進力とチャレンジ精神のためにひとりで決めてひとりで根回ししてひとりで通したかのような評価制度を解体してしまう。つまり、そういう人は人を巻き込むとか、人が自然と集まるとか、そんな言われ方をするわけだが、結局それはさっき言った「老獪」が希望で炊かれたり、スポーツ的に若く輝いているだけであって、そんなに輝かさなくても、そういったひとずきがする人じゃなくても、その操縦席に座りさえすれば、手を添えるだけで動き出すような仕組みとそれを評価する仕組み、あとは老獪や高圧を防ぐ硬いボディをあげればもっと世の中の効率や希望は平準化して上がるのではないかと思う。

ひとり総取りで鬨の声を上げるみたいな体制をいまさらコロナ後(まださなかだが)に言い出す経営陣というのは残念だなあ、としか思えない。

あと専務がいつもノアの方舟に誰を載せようか、みたいにじっと人を見つめているのも前時代的、昔の精神医学的な、分析の姿勢で、斎藤環さんのおっしゃるところの対話とはほど遠いよなあと思う。仕事と対話ではまた違うのかもしれないが、もう変化のはやい不確実な時代なのだから、観察なんかやめて、対話すればいいのにと思う。スマートな居住まいで観察してわかることなんか知れてるよって人のほうがいい。

そういえば、うちの会社と赤朽葉家の伝説を重ねて考えるときがある。今の専務は三代目。だから、神話の時代が解体されてしまってからの人だ。私は神話のほうに少しずつ憧れ始めている。昔話というのは笑える。品質管理の概念がなかったり、慰安旅行があったりして、みんなむちゃくちゃしているのでおもしろいのだ。

で、神話がないのだったら、もう全部解体してリーダーとかいう概念もなく、誰かが全部思いついているという発想でやすとも的にネットショッピングするように仕事をして、(おそらく経営陣が評価の対象とするような)リーダーは単に交渉窓口として使えるようにすればいいのだろうと思う。経営陣の考えるリーダーはかなり脳筋であり、失敗しても許すというのだが、このへんでまた現場が苦しみそうなビジョンがある。スマートに意識下に流すという経営陣の姿勢がなくならない限りは、苦しみそうなビジョンへの気配りのないチャレンジャーへの評価の一極集中により組織が疲弊していく一方だろう(今もそうなりつつある)。しかし世の中の趨勢としては、このまま疲れさせて、そのままスマートにする(自殺率を上げていく)気なのかもしれないが、まあそんなことをしている間に、さらにそのやりかたを徹底したものに潰れされるというだけの話だろう。あと30年もてばいいほうだと思う。



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nemaru [MAIL]

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