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のどぼとけと猫感

2020年09月29日(火)

最近はMark Kozelekとニッポンの社長の辻に、なんか憧れてる。生得的なのどぼとけ感をもつ人に憧れる。ないならないでそれ以外を探さなきゃなのだが、でもなきゃってこともねーだろ、憧れてたっていーだろぉよ、ともおもうのだった。

生得的なのどぼとけ感というのは猫感と言い換えてもいいかもしれない。その人の理路が体を癒着しきっていて、天気のように許せてしまう。頭だけの回路で、打算的にはじいたものじゃないと信じてしまう。それはそれで失礼なのかもしれないが、でもそんなふうに思ってしまう。

辻さんは中学のときの友達に似ている。彼は朝が弱かったので、彼ベースで出かけるときの時間が決まっていたが、それでむかつくこともなかった。もう体とくっついていて、そういうものだという感じがすごかった。かといってDV男みたいな感じでもなく、でもちょっと社会とは馴染まないのだった。いつも年がら年中こたつがあったような気がしてしまう。彼のエンジンがかかるまでそこに足を突っ込んでぷいぷいをみたりスーファミかセガサターンかプレステか、あるいは漫画を読んで過ごした。たまに彼はまだ完全に起き切っていないが、なんかうまい棒的な駄菓子を渡してくれて、まだもにもにしていたりしていた。

最近また彼と会いたい。今まで別れた人と会いたいと思うようになった。

彼の家のマンションの別の部屋に空きが出ていた。彼はもう20年前ぐらいにそこから一家で出て行って、それ以来、たまに聞く話では家で病養し、最近(2、3年前)ちょっと新聞配達をしていると聞くぐらい。彼は新聞配達を高校で始め(私は同じ面接を受けて落とされた)、コンビニの夜勤をし、それからいつしか病み、そしてまた新聞配達。

少しの調剤なのだといつもおもう。浜ちゃんがお笑いやってるのも、辻さんが芸人やってるのも、ちょっとした調剤で、ちょっとした自我とか相対化によって、芽生えていない人とちがう道を歩くものなのだとおもってしまう。ある種の猫さや我慢の効かなさ、そのまま世間で働いてしまうさを持ちながら、なぜかそうならない醒めた目線も持ち得たり、リアリストのわりに空想に遊んでるボケと一緒にじゃれあえたり、批評したりのっかったりできる余裕も持ち合わせている。

最近そのへんの分かれ道のことを考えていると、やはり中学の友達のことばかり考えてしまうのだ。

あのころの核のようなものを一直線にぶつけたら破壊されてしまうし、くるんだら埋もれて忘れて現実をみてしまうのに、なぜか持ち続けながら共存できた人というのは、北海道や東北の厳しさをヨークサックにして粘り腰の夢追いをするのとは少し違うように考えていて、とくに京都という環境は、そのような粘り腰の土壌はよわいとおもっている。

そうではなくて、あのころの夢の毒のようなものを乗り越えた人、分割できた人、生業のふりをしながら生業のふりをせずに済んだようにみせられる人、書いてておもったのは、つまりソラニン的なものだな、ああいうものに潰されなかった人も、ただ、飛んだか、飛ばなかったかだけの差なのだろうか?

もうあのとき飛ばなかったからにはわからないのだが。

あのとき、ゲーセンの階段の踊り場にスタアオーディションという、筐体の目の前でギャグをしたりしたらセンスを見てくれて才能を印刷してくれるゲームがあった。

それをよくやった。

ふたりでいきった顔で写真をとり、コンビ名を決めて、たしか、写真にオーラをつけてくれたのだったかな、写真の周りに緑とか黄色のオーラがついて、星5だと才能があるとかいって、おそらく診断メーカーみたいなもので、結局何も判定なんかしちゃいないのだが、わかっていてもやめられなかった。それを送るとオーディションを受けたりできたのだが、送ったことはなかった。

最初から怖くて、そのようなことは考えられなかった。たまに友人は俺が落ちたらおまえも(高校)辞めて芸人なろうと言っていたが、私は高校に通い、友人は定時制に通った。たぶん誘っても、友人はもちまえの猫感で先に辞めていた気がする。つらいもの(精神的に負荷のかかるもの)が嫌いなのだ。

そう、ふんばりどころみたいなものがなかった。だから好きだった。

そのふんばりどころのなさのようなものを持ちながら生き残ってきた人というのを、すごく物珍しくみてしまう。やりたいようにやって成功してきた人、という意味ではないし、感性のままにやってきた人という意味でもない。


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nemaru [MAIL]

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