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孤独に死ぬことについて、孤独者開放の必須条件

2020年09月27日(日)

シロクマさんのはてなで独りで死ねる世の中にについて書いてあった。なぜ独りで死にたいのか、なぜ人と繋がらないのかと考えてみると、あいつらの礎になりたくないというワードが浮かんだ。あいつらというのはなんだろう。けっこう昔に分岐したはずだ。

あいつらは弁をもっていて、情動の交歓を行いながら、確実にこちらから情動を毟り取り、養分にして、すくすく育つ。

あいつらにやるぐらいなら、断交し、地産地消してやる。そういったサイレントテロ、セルフネグレクトの汽水域で生きている。

もともと独りが性に合っている人というのがいる。独りで生きることがしっくりとくる人(う〜ん、孤独を愛する、飄々とした人?)。そういう人はなんだかんだで昔に何かあたたかいものが地脈のように流れて続けていて、触れ合うと偏屈なりにも、なにかあたたかいものが通底するような気がする。だから、独りで生きる権利というのは、こういう人のためにあるように思う。

こういう人にはなりたくても、私はなれない。

私は、そうじゃないタイプの人(コンプレックスにまみれた、あいつらの礎になりたくない人)だ。あえなくこうなってしまった。嫌な思いをして、こうなってしまった。パチンコで釘に弾かれているうちに、こうなってしまった。私は、シロクマさんの書かれているとおり、スマートウォッチ的な、死んでるかわかる装置の取付が必須となる。染みにならないように撤去され、日本もいずれはシェイプオブウォーターの人が住んでいたような、古い味あるマンションにひとりで住み、たまには魚人を匿うような住環境になればよいと思う。糞新築など滅びればいい。



でも、と思う。手首にはめたスマートウォッチをすすす〜と首にまでスライドさせてほしい。DSSチョーカーだ。 いや、Taming Partyだ。

そう、ボトルネックはあくまで(うまいやつによる)情動の一方的な交歓なのだから、そのやりくちの汚さや一方通行さを制電によって制御してくれるのならば、独りになる必要がない人はかなり居るのではないだろうか。

誰もが、尼崎や北九州の事件のようなものを、個々の人間も(犯罪にならないていどに)小さく小さく小分けにして、バランスよく起こしている。そのなかで、情動のわるいものは溜まる一方、いいものは減る一方の人間を生み出している。

このような「暴力(斎藤環さんのコロナnoteにあった『暴力』)」による不平等からの退却が(私にとっての)独りという状況の原因だったように思う。これはプライドが高かった、といってもいいのかもしれないが、どうしても盗られるほうが多かった。そこに早生まれや11歳までまったく笑わず、ほとんど喋らなかった母(11歳で急に笑うようになった気持ち悪い母でもある)等によって、コミュニケーションによる情動の交歓、パワーゲーム、「暴力」の楽しさや悲しさを肯定する気力を失ったのだ。

だから私は、いくらでも関係においてけつを割ってやろうと思いながら生きている。仕事だろうがプライベートだろうが関係ない。自分が生き切れるのならなんぼでもけつを割ってやろうと思う。というか世の中をよくするには、さっき言ったDSSチョーカーによる情動交歓の平準化とけつを割っても誰も困らない世の中(信頼関係の破綻)が必須だと思う。逆にそれさえ叶えばかなりの孤独者は外に出られるだろう。

手首にはめるより首にはめたほうがよっぽど手っ取り早い、まだ気づかないのだろうか。



デジタルレーニン主義という言葉を知った。まあそんなきわきわまでいかへんから、と人間は能力の3割(1割?)しか使わない、人間の「脳は」?やっけ?わからへんけど、そう、支配のわてらそんなきわきわまでいかれへんわ〜えぇ〜?っていう無防備さでリベラルや左翼や知識人の癪にガンガン障っていこうという気分でもある。それが「暴力」にも向いていて、暴力には「お上」が対応し、暴力はしんなりし、知識人は管理支配に負け、どこにもいけなかった俺たちは端っこに触れることなく、アイアムアヒーローの2ちゃんねるみたいな気持ちでぷぎゃーして、

しあわせなのか?

となるとやはり相克する必要がでてくる。というか、乗り越えるというより、飲み込むというか呑み下す必要はある。あんなころもあったねっていう歩をすすめる必要はある。時間はこんなにいっぱいあるないんだから、いろんなものが抑え付けられているんだから、こんなに闊歩しやすく制御されだしたんだから、ちょっとぐらい雨がかかっても、いま庇から飛び出て、すこしでも早く駅に着いたほうが得なのかもしれない。





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nemaru [MAIL]

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