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2020年09月09日(水)

ゲンロン0は家族の章へきた。
毎日忘れてるが、一応読んでいるらしい。
私自身誰とも縁が切れている。
誰も家族とおもっていない。
おそらくおもわれてもいない。
今は母がひとりで父の家に住み、父も弟も私も、書いた順に家から出ていった。
母に対する憐れみのようなものを三人とももっているからこそ
家は母に、となったのだろう。
たまたまなのだが、そうなるということはそうなのだろう。
動けない人に、と。
(かといって、母は誰とも住みそうにない)
それが居残る人として強み、あるいは執着のようにみえるが
母は家族の中でもっともそれがないように思えた。
少なくとも私はそう思っていた。
「一番考えが進んでいる」人だと、子供のころからぼんやりと思っていた。
今は嫌いだ。
昔好きだったのかといえば、それもよくわからない。
ランドセルは親戚のおさがりのぺしゃんこのものをずっと使っていた。
ひびわれて灰色に見えるランドセルで、3年の頃からは
スペアポケットのような、紙挿しのような薄いスペースから穴があいてきて、内部と繋がって、わたしは手を突っ込んで笑っていたが、果たしてあのとき楽しかったのか。
悲しかったのではないかとかいうと精神分析の悪しき遡及的親訴えモードやないか(からし蓮根風)になりそうなので、そこまではいかない。
単純あのときのわたしはそんなことおもわなかった。考えもしなかった。

Twitterでランリックのツイートをみて、スレッドにランドセルには
クッション機能もあると読み、結果的に愛がないように思った。

運動神経というか、空間認知能力というか、
モニタリング能力というか、想像力というか、計算力というか
愛というのはそういうものだと思う。
愛はなんか、運動神経とか空間認知能力のように思う。
だからぺしゃんこのランドセルくれる母に端的に愛がないというより、
そのぺしゃんこのランドセルではねられたときのシミュレーターのようなものが働かない母とか父とかいう人間のもとにわたしが生まれて、
そういうふうに生きてきた、という感じだ。
そこから愛があるとかないとか
今ここにこういう理念や気持ち(つまり理由)でお金をかけようとか、
こういう理念や気持ち(つまり理由)かけないでおこうとかいう「計算ができない」ことこそが
愛がないのだと思う。
それをみて、その理由のなさに空っぽを生成していく事が
現代社会においてどういう苦しみをもたらすかを想像できないことこそが
愛がないのだと思う。
それが伝わっていて、きちんと入っているか、確認をとったりしないことこそが
愛がないのだと思う。

だから逆に言えばどうでもいいのだ。
嫌われる勇気とかの気にしなくてもいいのです!いや気になるよ!みたいな感じと、
愛が運動神経とか空間認知能力とか計算力であるじゃあどうでもいいじゃんいや気になるよ!っていうのは同じ雰囲気のやつである。

偶然で誇れない親というのは裏返せないTシャツを心に抱え込んでいるようなもので、どれだけイメージしても、その手をどう動かせば袖が脱げるのかもわからないし、頭が抜けるのかもわからない。その苦しみは肯定しきれない。ということで、これを解消するにはまた偶然によって解消するしかない。
「人はひとりで生きれない」みたいなやつは、私ふうに言い換えると、人はひとりで心の中の私怨Tシャツを脱げないとか、そんなことになる。

ただ、今読んでいて(今p221で手をとめて書いている)、家族だと思えそうなのは昔の友人ばかりだ。おそらく病んでいるであろうその友人と、私が買った(これから買おうと思ってる)中古マンションで猫と一緒に暮らし、そこには特に昨日何食べた的関係もなく、あのころ(幼稚園から高校から二十歳過ぎまで同じだった)の感じで生きれたらいいかなと思いながら、本を開いたまま机に伏せ、考え込んでいた。あとは幼稚園と高校が同じだった人が今カウンセラーをしていることに気づき、その人とも話したいと思っている。私は孤独になったので、昔の地縁から手繰り寄せることになった。

地縁という偶然性、そこしか自分のちからではいけなかった(そのあとを構築できなかった)、というふうに捉えると貧しいな。およそ、現代人じゃねえな、機能を使いこなすとか、役目を果たすとか、律儀に責任を負ってみたり、そういうことは夢見たけど無理だった。誰も無理なんだけど少なくとも張ってみたり、取り繕うことはしている。現代人のエミュレートすらできなかった。すら、とか機能とか、責任とか役目とか、坂本慎太郎からすればそれこそ幻との付き合い方ということなのだろうか。

ミルクボーイのネタにある「叔父」や、山本直樹の「ありがとう」なんかも掠めた。

機能という意味では、共通言語がいくつあるかをスペックとみなした時代を使うという点でミルクボーイは昭和的で少し批判的な気持ちにもなる(賞味期限短い、悪しき共感覚を使いこなしている?)。かまいたちの漫才のいいところは、そういうところをあまり使わないところにある。地産地消というか。比較的長く使えそうなイメージがある。昭和は水たまり

M1は毎回裏テーマに倫理道徳をどうロンダリングして(かいくぐって)世にうって出るかみたいな側面があるような気がしてならない。2018年はゾンビネタの和牛と準決に女殴る金属バットのネタあたりが倫理道徳すれすれにロンダリング(回収)していた。

2016年のやまゆり園にしても、機能することに対し、いつの間にこんなにも厳しくなったのだろうかと思ってしまう。そして批判する人も2手で自分も批判されるような理論で動いているように思えてならない。
詰まない理論がほしくて、話す家族がほしくて、住む家がなくなってもなんとかなる人生がほしくて本を読んでいるのではなかろうか。

機能しないことに対する憐れみを失ってしまったというより、自粛に協力する(すぐ従う)ようなちからとか、自分は絶対そんなことにしない・ならないとか、Twitterの啖呵みたいな個人主義にいいねする2手で詰みそうなリベラルみたいな人たちとか、そういう内面化ばかりして、ああはならないでおこうと思いながら、生き方がよくわからない。

自粛に協力してすぐ従うちからというのは飲み屋で皿を積んで端っこに寄せてタレやドレッシングのやつを上にするとかそういう配慮にも通じる。あれをやるタイプの男女がくっついても死しか待ってない気がするし、誰もやらない世界にも死しか待ってない。美味しんぼの用語を借りればふうわりとそれを全員(ただし全員ではない)がやらないと意味がない。皿積みの人には会話への斥力が働いて会話の人に皿積みの斥力が働くようなストレングスと真逆が働いてなんら痛痒を感じない空気、ようは皿積みが会話にきたとき「おまえみたいな」という空気を発しないことや、会話が皿積みにいっても「ノリ悪」みたいにならない世の中にしていけるよう動いていきます、という気持ち。




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