日記
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2018年03月08日(木)

 机の引き出しを整理していたら、ずっと昔に付き合っていた女性の、成人式での振袖姿の写真が出てきて、その写真のことはよく覚えているのだが、もうずいぶん前に失くしてしまったものと思いこんでいたので、唐突にそれが目の前に現れたことで私は少し動揺して、左の肘をコーヒーカップにぶつけてしまって、仕事の書類に染みを作ってしまった。もう何十年も昔の写真なのにそれを見て思わず動揺してしまうほど、両の手を前であわせ少し左肩を前に出すようにして、ほんのちょっとだけ首を傾げてこちらに微笑みかけている写真の中の女性は美しかった。

 妻も私も、過去に付き合った相手の一人や二人いるだろうことは承知のうえで結婚したのだから、たかが写真一枚で狼狽えることなどないはずなのに、顔も名前も知らないのならまだしも、過去の相手が写真という形で残っており、またそれを私が大事に持っていると知ったら妻も気分を悪くするだろうと思って、おそらく私はこの写真を机の奥深くに仕舞い込んだのだろう。だが、それからかなりの年月が経ち、すでにお互いの間に嫉妬という感情は失われて久しく、今、この写真を妻に見せたところでどうということもないだろうと思ったし、もし仮に何らかの感情を引き起こすのであればそのことにもちょっと興味があったし、そんなわけで、ついさっき動揺してコーヒーをこぼしたことは棚に上げて、夕食のときに妻に写真を見せてみようと思ったのだった。
 
「きれいな人ね」

 と妻は言った。その言葉は、興味はないというように聞こえたし、感情を表に出さないよう注意深く発せられたようにも聞こえた。このときの妻の心境が本当のところどうだったのか、この言葉だけで推し測ることはできないが、少なくともこの時、彼女が感情を顕わにするようなことはなかった。
 
「なぜ別れたの? こんなにきれいな人だったのに」
「さあ、なんでだったかな」
「別れてから一度も会ってないの?」
「そうだね、会ってない」

 嘘をついている。写真の女性と、私は別れてから一度だけ会っている。

*

 救急車の音が聞こえてきて、その音が一秒ごとに大きくなっていく。当直のベッドに寝転がったまま、そのまま通り過ぎればいいのにと祈る私の気持ちを嘲笑うかのように、その音はこの病院の前でピタリと止まる。後部のハッチが開く音、救急隊員や看護師の足音、そしてストレッチャーを引っ張り出す音、そんな聞き慣れた音が、エンジン音と重なり合いながら聞こえてくる。患者が私のところに運ばれてくるまでには、まだ少し間があるだろう。ベッドから抜け出し、機器がすぐ使えるよう立ち上げ、患者の情報をチェックする。急性アルコール中毒の女性。年齢は私よりもひとつ下だった。アル中ならば検査の依頼は来ないかもしれない、そう思った矢先、ポケットの中のPHSが震えた。

 髪の毛にも洋服にも吐物を付着させたままその女性は運ばれてきた。「今は眠ってますが、突発的に嘔気が来るようなので気をつけてください」と、連れてきた看護師は私にゴムの手袋を渡しながら言った。試しに名前を呼びかけてみたが返事はない。ゴム手袋をつけた手で、女性の顔にかかった髪の毛を無造作に払ってみると、名前が変わっていたから気づかなかったが、そこには見覚えのある顔があった。私と付き合っていた二十年前とさほど変わらないその顔立ちは、吐物に塗れていながらなお、美しかった。

 看護師と二人で検査台に載せ、五分ほどで必要な検査を終えたその直後、女性は仰向けに寝たまま嘔吐し始めた。気管に吐物をつまらせたりしないよう、看護師は女性の首を右に無理やり捻った。私は機器を操作して、女性を元のストレッチャーに移す準備をした。その間も、女性は嘔吐を繰り返していた。女性は、嘔吐する音と呻き声の合間に、私の知らない男の名前を繰り返し呼んだ。嘔吐が落ち着くと、女性は薄目を開いて辺りを見回したが、自分がどういう状況に置かれているのかを理解している様子ではなかった。検査室から出ていくまでに、一度だけ私と目があったものの、女性は私が誰なのか気づくことはなかった。

 女性が残した吐物を掃除する間、彼女が繰り返し呼んだ男の名前と、その変わらない美しさについて考えていた。

*

「なぜ別れたの? こんなにきれいな人だったのに」

 別れた理由と美しさは無関係だし、そう尋ねられても私はこの女性となぜ別れることになったのかを、もう思い出すことができない。彼女と紡いだはずの思い出は、この写真以外残らず、あの晩の吐物の臭いと知らない男の名前で上書きされてしまった。

 彼女は確かに美しかった。妻から写真を受け取りながら、私はなぜ、会っていないと嘘をついたのかを考えたが、その理由はよくわからなかった。写真を受け取って、冷蔵庫からビールを出してきてくれるよう妻に頼んだ。そのすきに私は、写真を繰り返し破ってズボンのポケットに仕舞い込んだ。


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