日記
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2018年03月07日(水)




「君はだから自分に甘いって思うんだよ」

 会社を出て、並んで歩き始めてからずっと黙ったままだった彼女は、商店街を通りぬけ、僕たちが左右に別れる交差点に届く手前でそう言った。

「え?」

「なんであれにオーケー出せるの? 誰が見たってやり直すべきじゃない。このくらい見逃してくれると思った? そんなふうだからいつまでたってもきちんとした仕事任せてもらえないんだよ」

 ああ、彼女は僕が今日やらかしてしまったミスのことを言ってるんだ、と気がついて、ちゃんと弁明しなきゃと思ったけれど、その時にはもう彼女は交差点を左に折れようとしていた。この時間はもう、リヤカーを引いてくる行商のおばさんたちも店じまいしている頃だけど、まだ売れ残っているものがたくさんあるからなのか、それとも今日は売り始めるのがちょっと遅れたからなのか、一台だけまだ商売しているリヤカーがある。このおばさんもいろんなミスをしながら年を重ねていったんだろうかなんて、どうでもいいことをちょっとだけ考えて、それから彼女のほうを見た。じゃあね、と手を振ってくれたので、僕も同じ動作を返して、交差点を彼女と反対方向に折れた。




 彼女はハンバーグが好きだ。理由は知らない。たまに、他のものを注文しようとメニューを見ながらあれこれ考えるんだけど、結局は面倒になっていつものハンバーグを頼んでしまう。彼女は体に似合わずよく食べるし、僕は彼女の食べる姿を正面から眺めているのが好きだ。ここのハンバーグを、僕はそんなに美味しいとは思わないけど、彼女の食べ方は、ああやっぱり僕もそれ頼めばよかったかな、と思わせる。

 勘定を済ませて店を出ると、傷だらけでなんと書いてあるかもよくわからない看板を見て、ごちそうさまでした、と彼女はつぶやく。この店の名前がなんだったのか、実は今も知らない。彼女には「傷だらけの看板の店」で通じたし、彼女以外の誰かとこの店に行くことはないから、他の名前で呼ぶ必要もない。




「ねえ、あそこの古着屋、今日からセールでさ、初日はオールナイトで営業するんだって」

 そんなことあるのかな、と彼女の言葉を半分疑いながら、もう深夜に差し掛かる時間に、その店のある通りに入ると、周囲の店がすべてシャッターを降ろしている中、本当にその店だけが営業をしていた。とはいえ、客で賑わっているというわけでもなく、常連の客が何人か、店員とビール片手に話をしていて、そういう雰囲気が少し苦手な僕の手を、彼女はぐいぐいと引いて店内を回った。これがいいんじゃない? と彼女が手にとったのは、「50%OFF!!」という札の貼られた棚にあった、薄い緑色のTシャツで、僕はそれ1枚だけを買って帰った。

 職場では、なかなかきちんとした身なりをしている彼女も、プライベートではTシャツにジーンズのような、ラフな格好で過ごすことが多かった。このジーンズ僕にも履けるよ、と言って、彼女が買ってきたメンズの古着ジーンズを履いてみせると、じゃあいっしょに履こうよ、と笑って言った。そうやって置きっぱなしになったままのジーンズが、僕の部屋には何本かある。




 通ったことのない道を歩くのが彼女は好きだった。いっしょに歩いていても、脇道やちょっとした路地を見つけるとすぐに入っていこうとする。怖がりのくせして、ひと気がなさそうな、薄暗い路地にもどんどん入っていこうとするのは、僕がいたからなのだろうか。僕は彼女に、そんな安心感を与えられるような存在だったのだろうか。

 彼女と過ごしていた頃、この街に三軒あった古本屋は、彼女が僕の元を去るまでにすべてなくなってしまっていた。古本屋がひとつなくなるたびに、彼女は「また待ち合わせの場所がなくなったね」と言った。僕がちょっと時間に遅れて、待ち合わせている古本屋に行くと、彼女は決まって海外ミステリの並ぶ棚で立ち読みをしていた。待たせたことを謝ると、ごめん、もう少し読んでもいいかな? と逆に謝られた。




 この街になくなって久しかった古本屋が、最近になって新しくオープンした。仕事帰りに立ち寄ってみると、古本屋というよりは洋服屋のような雰囲気で、ソファに腰掛けてゆっくりと本が読めるような店だった。彼女と過ごしていた頃にこの店があったなら、きっとここに座って何時間でも読んでるんだろうな、と思った。




 その古本屋で、偶然にも、彼女が好きだと言っていたミステリを見つけた。読んでみてよ、と勧める彼女もその本を持っていないうえに、当時は絶版状態だったということもあって、僕はずっとこの本を読むことができなかった。300円で買ったこの本を、僕はこれからひとりで読むことになる。




 当時はポラロイドにはまっていて、彼女と散歩するときは、中古で買ったポラロイド1000を首から下げて出かけた。歩きながら適当に、でもフィルムの残りを気にしながらシャッターを押しては、二人立ち止まって、フィルムに像が浮かび上がってくるのを待った。彼女が特に気に入った写真は、その場でもう1枚撮って、二人で1枚ずつ持つことにした。そうやって何枚も撮った、まったく同じようで、実はほんのちょっと、どこかがずれているその写真のように、僕と彼女の関係も、いつのまにか少しずつずれていった。

 ポラロイドは色褪せて、棚の奥にしまいこまれたジーンズは、もう僕の腰には小さすぎる。時間は確実に、そして残酷に、いろんなものの形を変えていく。ただ、記憶だけが、この街と彼女と僕が作りあげた古い記憶だけが、今も僕の心を鮮やかに彩り続ける。


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