日記
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2018年03月02日(金)

 俺の親父は、高校生のころ母親(俺の祖母)に弁当包みの中にタバコを一箱必ず入れておくことを強要していた。昭和30年代半ばのころだ。何らかの事情でタバコが入ってなかったりした日には、帰ってきてから祖母を殴り飛ばしたという。その時祖父が何をしていたのかは知らない。俺が物心ついたころには既に脳梗塞を発症した後で、片麻痺や失語を抱えていつも何かに怒っていた。昔は温和な性格だったという祖父は、祖母が殴られるのを見て見ぬふりでもしていたのかもしれない。意味の知れない言葉を叫びながら効く方の手足をバタバタさせて歩く祖父しか知らない俺は、温和だったころの祖父がまったく想像できなかった。何かにつけては祖母を殴り飛ばしながら、それを祖父に見ぬふりされながら、親父は大人になった。

 親父は高校を卒業して、地元の醤油製造会社に就職した。その会社で親父は、商品をトラックに積み、あちこちの取引先に配送して回る仕事をしていた。小さい会社だったけど今も潰れずに残っていて、地元に帰った時に近くを通ると、ほのかに漂う醤油の香りがいろんな記憶を思い起こさせて妙な気分になる。

 親父とお袋はその会社で出会った。どちらから先に声をかけたのかは知らない。中卒で既に事務として働いていたお袋に、親父が声をかけたというのが妥当なところだと思うが、当時の写真を見る限りでは親父もなかなかいい顔立ちだったので、ひょっとしたらお袋が先に惚れたのかもしれない。付き合い始めてから結婚まで、そう時間はかからなかったという。結婚の2年後に俺が生まれ、その2年後に妹が生まれた。

 親父は女にだらしがなかった。外に女を作って何日も帰らないということがよくあったという。そんなことが頻繁にあれば、さすがに俺も覚えていると思うが、俺が小さいころの親父といえば、仕事が終わってから、西日の強く差す公園でキャッチボールをしてくれたことくらいしか記憶に残ってない。外に女がいて何日も家を空けていたなんて当時はもちろん思いもしなかったし、そのとき当然あっただろう夫婦喧嘩すら、俺の記憶にはまったくない。

 俺が小学校3年か4年のころ、親父は配達の途中で、不注意からトラックのドアに自分の親指を挟んでしまい、結果的に切断するという事故に見舞われる。左手にぐるぐると巻かれた包帯の痛々しさはよく覚えていて、ああとんでもないことになったなと子どもながら心配していた。親父は結局その事故をきっかけに仕事を辞めた。指の見舞金だか退職金だか知らないが、かなりの額の金を受け取ったのだということを、俺は後からお袋に聞かされた。そしてその金のほとんどが、他所の女や酒に費やされ、家族には1円も入ってこなかったということも。

 ほどなくして、親父はハンバーガー屋を開業した。いつか飲食店をやりたかったのだという。マクドナルドが1971年に日本第一号店を開店してから8年、九州の片田舎ではまだマクドナルドはおろか、ハンバーガーという食べ物を知る人もそれほどいなかっただろう。店には、当時まだ珍しかったスペースインベーダーも置かれていた。インベーダーがあることがうれしくて、俺は友達にそれを自慢しまくったけど、店はまもなく不良高校生のたまり場になり、商売そのものもうまくはいかなかった。その後親父は、ハンバーガー屋、焼肉屋など、飲食店を開業しては潰し、借金をどんどん膨らましていった。借金が膨らめば膨らむほど、親父とお袋の間の亀裂は大きくなっていった。

 借金が膨らむたびに女のもとに転がり込み、親父はもうほとんど家に帰ってくることがなかった。お袋は仕事と子育てと姑からの嫌がらせに、たったひとりで立ち向かっていた。親父のいない家には、借金取りからの電話もよくかかってきていたし、親父の間違いで始まったいろんなことが、俺や妹も含めて、家族を疲弊させていった。俺はお袋に、親父と離婚することを勧めた。中学3年のときだった。お袋はそれまで見たこともないような情けない顔をして、俺と妹に「ごめんなさい」と謝った。謝ってほしくて離婚を勧めたわけじゃなかったので、俺は戸惑ってしまい、その後何を言ったのかまったく覚えていない。親父は「いつか借金返したらまた元通りになるからな」と言ったが、俺も妹もそんな言葉をこれっぽっちも信じていなかった。

 お袋と妹との3人ぐらしになってからも、借金取りからの連絡は後を絶たず、やくざがアパートに怒鳴り込んでくることもしばしばあった。ドアを隔ててやくざに対応したり、警察に電話したりするのは俺の役目だった。最初はものすごく怖かった恫喝の言葉にもそのうち慣れてしまった。親父がそのころ何をしていたのかは詳しく知らない。お袋に聞いても、日雇いの労働者としてどっかで働いてるんじゃない? としか返ってこなかった。

 それから親父が死ぬまでに、俺はたった一度だけ、地元の駅で偶然親父と遭ったことがある。タクシーの制服を着ていた親父は髪がずいぶん白くなっていて、見るからに老いていた。苦労したのだということは伺えるが、それも自業自得だろうと俺は思っていた。その前の年に結婚した妻と一緒だったので、お互いを紹介した。お祝いもできずに申し訳ないと言って、親父は去っていった。もう今となっては、その時の感情を詳しく説明することはできない。何も知らない妻が俺の表情を見てびっくりしていたことだけはよく覚えている。

 親父が死んだことを伝える電話は、なぜかお袋からかかってきた。行きたいなら行ってきなさいと、通夜と葬儀の時間を伝えられた。行かないつもりで妻にそういうと、バカじゃないの? というので、妻と息子と3人で通夜に行った。前の晩酒を飲んで帰ってきて、そのまま床につき、翌朝には冷たくなっていたのだと、一緒に住んでいるという女の人から聞かされた。死に顔を見て、無性に腹が立った。なんでこんなに安らかな顔をしてるんだ? と声に出そうなのを飲み込んだ。遺体が置かれた部屋を見回すと、小学生のころ授業で作った彫刻やら絵やら俳句やらが飾られていた。ずっと大事に持っていたみたいです。時々、それを見ながらあなたのことを話してましたよ。女の人はそう言って、よかったら持って帰りますか。というので、棺桶に入れてくれるよう頼んだ。帰りの車の中で、生きてる時に会いたかったな、と息子がつぶやくのを聞いて、思いもがけず俺は泣いた。

 これを書きながら、親父の店で食わせてもらった、ベーコンと卵の挟まったハンバーガーの味を思い出している。表面がこんがりこげ茶色に焼けていて、でも中はふわっとしているバンズと、噛んで口に入れると同時に肉汁がぶわっと染み出してくるパテ。それら本来の味を殺さず、むしろ引き出すよう量が絶妙に調整されたケチャップとマスタード。「噛んだら肉汁がぶわっと」なんて、グルメリポーターの常套句みたいだけど、それがどういうことなのか、俺はこの舌で経験している。親父は親としても男としても人としても本当に糞みたいな奴だったけれど、このことだけは認めてやらなきゃなと思っている。

 本当に味わいたいものは、もう二度と味わうことができない。俺たち家族が、綱渡りのようなぎりぎりのバランスで、家族を保っていたころの記憶とともに、あの時の味は死ぬまで俺の舌に残ると思う。


omnivorous