てくてくミーハー道場
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2018年12月13日(木) |
シアターコクーン・オンレパートリー2018『民衆の敵』(Bunkamura シアターコクーン) |
えっ?
っていう終わりでした。
「えっ?」で終わる芝居って、ミステリーなどではけっこうあるけれども、このテの(社会派の)芝居で、こんなに「えっ?」っていうのはぼくは初めてだった。
かといってガッカリしてるわけではなく、「えっ?」の後に、
「なるほど、そうだよな」
と感心して唸ってしまった。
「正義は我に」あるはずの人間が、一向に周囲に理解されず、むしろ行動すれば行動するほど“正義”が通じなくて敵がどんどん増えていく気持ち悪さは、ぼくらが今生きている実社会では珍しくもなんともない。
で、シアターゴアーであるぼくらの悪い癖は、芝居の中でその「理不尽さ」に、スカッとした決着がつくもんだと勝手に思っているところにある。
今、“正義”が通じなくてイライラしてる人って多いんでしょうね。
スカッとナントカ(皮肉ではないけど、わざと正確に書きません)っていうバラエティ番組が、今人気みたいじゃないですか。
みんなスカッとしたいんだよね。
そんだけ現実はスカッとしないんだよね。
今から130年以上も前にこのモヤモヤした名作を描いたイプセンの時代も、今みたいに、スカッとしてなかったんだろうなあ。
人間て、ずーっと「理不尽だ」と怒りながら生きているんだろうなあ。
で、イプセンが只者じゃないところは、ご都合主義のスカッとした結末を一切提供してくれないところにある。
スカッとさせないから、あとはオマエラ(観客)が銘々考えろ。
そういうところがある(決めつけ)
やられた、ちくしょう。(なんか、今回感想が変ですよ?)
出演陣は、ひたすら長くややこしい説明台詞を、いかにも日常会話のように立て板に水で語れる手練の勇者ばかり(ごく一部、たどたどしい人は少数いたが)
達者でたまらん主演・堤真一を筆頭に、「いかにも」な段田安則、いい男が悪役(ネタバレ)やると迫力あってしびれるなあ、と思わせる谷原章介、仙人のような安心感()の木場勝己さん、見た目がまんまノルウェー人(てどういうの?)のおじさん外山誠二さん、見るからに小心者!(ごめん)の大鷹明良さん(敬称は年齢に鑑みて(コラ)で付けました)
そんで、すばらしく良かったとうこ(安蘭けい)
窮地に立たされる主人公の妻、っていう役どころに対して、ぼくは若干偏見(夫第一と盲信するか、ちょっと愚かで夫の足を引っ張るか)を持っていたのだが、そのどちらでもなく、妻としての意志、母親としての意志、そして一人の社会人としての自立した意志を持った成熟したカトリーネは、こんぐらい骨太な演技力がないとだめだよね、と思わせられた。
カトリーネにしても、娘のペトラ(大西礼芳ちゃん、ぼくは初めての女優さんでした)にしても、“女”じゃなく、“ヒト”として描かれている。130年前の芝居なのに意外だ。というか、イプセンだもの(?)ってことなのか。それとも、今回の脚色、演出によるものなのだろうか。
そして何より素晴らしいと思ったのが、観客から見て「愚衆」を演じた「民衆」役のみなさん。
演出のジョナサン・マンビィの作品を観るのは今回初めてだったんだけど、この「民衆」の動かし方に力を感じた。
ところで、上のほうに、スカッと云々書いたけれども、実は、ぼく自身は、“正義の心”を持って苦しんでいるヒーローをイライラさせる方に主に属してる自覚がある。
ぼくに正義心がないってことじゃないよ。
でも、正直、ぼくがトマスのような立場だったとして、あの正義心、どこまでも貫けるのだろうか、どうせそのうち、「なんかわかんないから、“みんな”が良いっていう方でいいよ」って言いそうな自分を知っている。
そう言えるのは、やはり7年前のふくいちの事故の時に、必死になって“正しい方”につこうと情報を集めまくったのに、いつの間にか「絶対的正義なんてないんだから、おおまかにみて“みんながちょっとずつ我慢しながら幸せになる”ってのがいいんじゃないの?」と次第に流れていった自分を覚えているからだ。
民衆は必ずしも愚衆ではないが、良い落としどころを見つけようとすると、正義の心を持った人には耐えがたい存在になる。
結局それは自分たち自身をちょっとずつ不幸にしてしまう。
民衆の敵は民衆自身なのかもしれない。
なーんて(←恥ずかしくなったな?)
面白い作品でした。満足です。
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