てくてくミーハー道場

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2018年03月10日(土) 『ドレッサー』(本多劇場)

カトケン(加藤健一)さんのお芝居、もしかして初めてかもしんない。

ぼくの観劇趣味は偏ってますからな。

ところでしかし、この『ドレッサー』という作品は好きで、カトケンさんがノーマンを演じたという1988年バージョンはさすがに観られてないのだが、観劇歴についてはこの日()の日記に書いております。

んで、今回もこの作品が好きだから観に行ったわけだが、今回版のお目当ては、いわずもがな、ノーマンを加納幸和が演じるからというのが第一義であった。



で、実際に観た感想はというと。

・・・・・・(エッ?!)

・・・うん。

・・・なんだね、うん。←

そうだなあー。

感想書かない方が良かったかな。(だったら書くな)

いえ、つまらなかったとかではないんですよ、全然。

普通に期待通りの『ドレッサー』を楽しめました。

・・・ただ・・・(歯切れ悪いなあもう)

要するに、上の「★」のリンク先の上演が、とても良すぎたってことなんです。

それが、演出の差なのか、出演者の差なのか、はっきりとは分かりませんが、あの時に受けたほどの感動が、今回はなかった。

あ、そうだ。座長役の方の変遷(渡辺哲さん→橋爪功さん→加藤健一さん)からくる、座長というキャラクターから受ける性格の違いが面白かったな。

今回のカトケンさんの座長は、バックステージではほんとわがままで頼りなくてドスケベで、ってとこは脚本のとおりなんだけど、舞台上に出た瞬間にシャキっとなる「老いてはいるが未だ人気役者」って感じだった。

決して「もうすでにヨボヨボ」ではない。舞台に出ればお客さんが喝采する、まだ現役の名優。

(なんか、前者お二人が「すでにヨボヨボ」みたいな書き方してすみません。いやご本人がそうなのではなく、そういう役作りであった、ということで)

ぼくのお目当てのノーマンについては、加納さんのこういった役に対して、やっぱ戸惑いがあったというか。

いつも女方しか見てないからね。

いっそ普通のおっさん役だったら「今回はそうなんだ」と割り切って見られたんだろうけど、ノーマンて、果たしてゲイなのかそうでないのか(セリフはオネエっぽいのだけど、それはオネエだからっていうよりも、職業柄っていうのが前提みたいになってるから)よくわからないから、なんかソワソワするというか。

このお話の一番のネタバレをしちゃいますが、座長が書きかけのまま死んでしまう「自伝」の前書きにノーマンの名前がどこにもないことにうらみつらみを吐露するシーン、ここがノーマン役者の一番の“見せどころ”なのではないかとぼくは感じているのだが、加納さんはこのシーンで、あんまり怒りを爆発させてなかったように見えた。

それは、そんなに怒ってないってことじゃなくて、ノーマンという男が、こういう時に、周りが怯むぐらい怒るような性格ではない、あくまでオネエっぽい(なので怒り方も、なんか、高級クラブのママが、信じて付き合ってた男に大金持ち逃げされた時の怒り方みたいだった。例えが独特ですみません)、という加納さんの解釈だったように見えた。

そしてその点が、ぼくが考えてたノーマンとは違うように思えた。

ここのノーマンは、「散々世話焼いてやったのに!この恩知らず!」と座長を罵っているが、その言葉の中には、「何勝手に死んでるんだよ!なんで俺を置いていくんだよ?!」という感情がそこには潜んでいるようにぼくには思える。腐女子的発想かも知らんけど。

ノーマンは座長を演じる役者より若い俳優が演じるのが常なので、完全に「主と従」みたいに見えるけれど、映画版では実は同じぐらいの年齢の俳優が演じていたような記憶がある(今確かめたらそのとおりだった。ノーマン役のトム・コートネイは1937年生まれ。座長役のアルバート・フィニーは1936年生まれ。1歳しか違わない)

だから、この二人は“同士”であり“表と裏”であり“光と影”なんだと思える。

今回のお二人(カトケンさんと加納さん)は、そういう二人の関係性が見えるような座長とノーマンではなかった。そこがぼくには残念だった。

まあ、ぼくの考えが正解と言い切れるわけではないんだけどね。



あれ?今この作品について検索してたら、2005年にもパルコ劇場で上演されてるんだ。

座長が平幹二朗丈、ノーマンが西村雅彦さん。うおお、すごいキャストだ。

・・・これぼく観なかったよな?

観てるのに忘れてるのだとしたら、ほんっとぼくの観劇趣味なんて何の実も結んでないぞ。

・・・(確かめるのがコワイ)





ところで、今回の観劇での新しい発見としては、ノーマンがことあるごとに「アタシの古い友人」のエピソードを周りの人たちに話して聞かせるところ。

この「友人」て、本当にいるのかな?とちょっと思ってしまったりして。

困っている相手を慰めるために、また、頑なな相手を説得するために作られた、架空の「友人」なんじゃないか、と、ふと思う場面もあった。

だからってそれにどういう意味があるのかと言われても困るが。(なんのこっちゃ)


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