てくてくミーハー道場

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2017年11月11日(土) 『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(世田谷パブリックシアター)

東京は世界一のエンゲキ都市だそうで今この瞬間でも大小合わせていくつの作品が上演されているか正確に数えるのは難しいらしいです。

そんな、不確かな中での統計(それもぼくの体感的統計)ではありますが、当公演は、

今、日本一「旬」な公演

ではないかと思って観てまいりました。

とにかく、主演の二人が強烈に

小栗くんでもないのに()めちゃくちゃ



もちろん、場内立ち見も含めてびっしり満員御礼。

消防署にはナイショにね☆(なら書くな)



当作品、ぼくは以前書いたことがあるが、生瀬勝久×古田新太バージョンを観たことがある。調べてみたらこのコンビで三演してるらしいが、ぼくが観たのは三演目だけ。当時(2000年)二人ともすでに“良い歳”になっていたので、若干人生の疲れがみえる(それも意図的だったような。全編大阪弁だったし)ロズギルだったように記憶している。

ハムレットの学生時代の親友が現時点でこんなおっさんなのはおかしいだろ!と突っ込まれそうな演出ではあったので、今回の正真正銘ピチピチした(といっても、斗真はもう33歳なんだが、やはりそこはジャニーズ)若い二人の俳優によるロズギルで、ようやく正当に観れた気がする(なんか、前回の二人に対して超失礼)

で、本作はよく『ゴドーを待ちながら』トリビュート作品だと評されるので、あの演劇史上最高の難解不条理劇の弟分みたいなものと覚悟して行ったが(しかも、昔観た『ロズギル』をほとんどよく覚えていない←)、予想よりずっと理解しやすかった。

確かに主役二人のセリフの量は半端なく、しかも脈絡があるようなないような、とにかく大変なシロモノであって、観てるこっちもついていくのが本当に大変なのだが、当時よりもぼく自身の『ハムレット』への知識量の蓄積(あれ以来、何度か観たから)が増えていたせいで、

「あ、この“時間帯”は、オモテではあの場面なんだな」

と直感できたせいもあるのだろう。

そして、そういう体感が、この作品が語ろうとしている「誰でも自分の人生に起きていることの原因すべてを知ることはできない」という達観を理解する助けになっている気がした。

座長(半海一晃さん、最高!)が語る言葉は、エンゲキ人にはめっちゃ刺さるセリフの数々だそうだが、別にエンゲキ人ではなく普通の生活人であるぼくらにもグサグサ刺さりまくった。

シェークスピア名言集としてよく取り上げられる言葉に、

「すべての世界は舞台で、男も女もみな役者に過ぎない。それぞれに登場し、そして役を演じて退場してゆく」

という『お気に召すまま』の中のセリフがあるが、今作の中で座長は「こちら側を退場して、あちら側に登場する」みたいなことを言う。

この『ロズギル』って作品は、みんながよく知っている『ハムレット』の世界の中で、観客が観ているオモテ側に出てないときのロズギル二人が、“自分たちにとっての表舞台”であるこっち側でうだうだ悩んでる様を見せてくれる、いわば平行世界の話なんだが、要するに、『ハムレット』のメインシーンはハムレットにとっての表舞台なのであって、ロズギルにはロズギルの表舞台が、「退場しているとき」に営まれている、という、人生は相対的なものだ、というのが作者の主張なんだろうな、とぼくは感じた。

もちろん、単にそんな『世にも奇妙な物語』みたいなオチで済むとはぼくも思っていない。

つまり、誰かの“人生”という舞台からの“退場”(つまり「死」)は、また別の舞台への登場でもあるのではないかという、ちょっとした希望も感じるのだ。

ただこの希望を若い人(いわゆる“精神的厨房”)がこじらせると、「ライセのフッカツを信じてスイサイド」(←軽い語感でごまかさないで!)みたいな目も当てられないことをやらかしかねないから、こういう解釈は老い先短くなった中高年の特権だと強く主張したい。



今まで言ってきたことと関係なくなるが、ぼくとしては常に(死ぬときまでも)ニコイチでいるロズギルがちょっとうらやましいな、とも感じる(え?)

これはやっぱ、今回のロズギルが若くてかわいい二人だったからかもしれないが決して腐的要素は含まれていないので誤解しないでください(←言い訳がましいが本当です)

つまり、人生に迷って迷って迷いまくっているときでも、この二人は二人でいるがゆえに“孤独”ではない。

どちら側から来てどちら側へ行ったら良いのかわからなくて恐怖に震えているときでも、軽口を叩き合いながら、コインゲームをしながら、いつも誰かが横にいる。

ときにはうざいと感じることもあるかもしれないが、心強さという意味では何物にも変えがたいのではないだろうか。

閑話休題。

前回の『ロズギル』を観た後は、本編の『ハムレット』を観るときに、ローゼンクランツとギルデンスターンが登場すると若干むにゅむにゅ可笑しくてならなかったのだが(で、例のセリフが出てくると思わず「出た」と笑ってしまっていた。非常にけしからん客である)、今後はちょっと違う感想になりそうだな。

あと、「なんでこんな風に死ななきゃならないんだよ!」と怒り心頭で死んでいったであろう彼らには、

「心配すんな。ハムレットもクローディアスも、それからその他もろもろの人たちも、直にみんな悲惨に死ぬから」

と教えてあげたい(←意味あるの?!)

人生は、平等にできている。(そ、そうかなあ?)





役者についてよりも、作品についてずいぶん語ってしまった。ぼくとしては珍しい感想になった。

でもそれは、演者がどうこうというひっかかりがなかったからとも言える。生田斗真、菅田将暉、林遣都(ハムレット役)と並べてみると、なんか若いお嬢ちゃん向け公演みたいだが(BBAの偏見)どうしてどうしてしっかりと密度の濃い演劇でした。

若いイケメン俳優といえば、たぶんぼくは全員初めて観る俳優たちだったと思うのだが、旅芸人を演じた俳優たちがみんなやたら上手かった(言い方が・・・)

嬉しいことです。


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