てくてくミーハー道場
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2012年12月01日(土) |
『ぼくに炎の戦車を』(赤坂ACTシアター) |
(観劇したのは11月30日)
鄭義信の芝居を観るのは初めてである。・・・多分。
1980年代後半の小劇場ブームの時でも、新宿梁山泊はアングラ色が濃すぎて、ちょっと近寄りがたかったせいもある。
その後この方は“梁山泊”をお辞めになって、映画方面でヒット作をいくつも書かれたが、ぼくはどういうわけか、1985年以降、映画をぱったり観なくなって、見事に彼の作品とはすれ違いになった。
という前提条件で、語らせていただきます。
まず、この時代(1920年代だそうです)の朝鮮半島について、なんと、ほとんど知らなかった自分に驚いた。
むしろこの時代だと、日中問題の方に目が行っちゃってた。
地理的にも近いのに、朝鮮半島のことを、よく知らなかった。
知識として知っていたのは、当時、ここは、「大日本帝国」の一部だったということだ。
日韓併合時代だったのだ。
それは知識としては知っていたのだが、当時の朝鮮半島(舞台になった場所をもっと詳しく言うと、ソウル(当時は「京城」って言ってた)の近くの農村らしい)がどんな感じのところで、そこに、どんぐらい日本人がいて、どんな風に暮らしていたのか、そして元々住んでいた朝鮮人たちの風俗や文化はどんなだったのか、を、よく知らない自分がいた。
戦後の朝鮮(てえか、日韓関係)のことは、社会人になってからちょこちょこと知識を身につけては来ていたのだが。
で、今回の舞台で見る限りは、当時のソウル近郊の雰囲気は、1930年代の満州に近いのだった(気候がかなり違うが)
“支配”する側の日本人、“原住”している朝鮮人。
原住民たちはもちろん基本的には「独立」を望むわけだが、経済的な点では“支配”されてた方が楽であり、政治的にも「帝国軍は米露への盾」という目論見も持っている。
ここに住んでいる日本人たちも、祖国では底辺の暮らししかできない負け組だったり。
それがゆえに、むやみに威張っている連中もいれば、逆にここを第二の故郷と思い定め(今作の主人公・柳原直樹のように)、朝鮮人を同胞同然に思い接する人たちもいる。
日本人の方が民族的に優れているという意識を悪びれもせず披瀝している日本人もいるし、まったくその逆の意識を持っている朝鮮人もいる。
そんな複雑な感情を互いに見せ隠ししながら付き合っている。
そんな中、さらにその底辺にいることを余儀なくされているのが、男寺党の人たちだ。
スペインで言うロマ族みたいに、日本で言う猿楽師みたいに、芸事を生業として、人々の葬祭の彩を請け負う人たち。
「葬祭」を請け負うことはすなわち「ケガレ」だ。
否応なく差別されて生きている。
「差別」とは不思議なものだ。
ある集団から「差別」されている集団自身が、また誰かを差別していることがままある。
一体その根拠たるや、何なんだろう?
人間て、そんな風にしか自尊心を守る術を知らないのだろうか。
あれ? こんなことを話すつもりではなかったんだが。
じゃあ、何について話そうと思ってたかというと、この、在日韓国人である鄭義信が描く「朝鮮半島に住む日本人」と現地民の関係を、いたずらに“現代の日韓関係”になぞらせるような観方はしたくないと思った、ということである。
もちろん、この時代のこういった両国の現実があったからこそ、現在の日韓の関係があるのは自明だ。
お互いに気持ちが寄り添えば、分り合えるはずだなどという理想論を言うつもりもない。
“感情”は“理屈”ではコントロールできないからだ。
ぼくは、ラストシーンの直樹の感動的なモノローグよりも、男寺党のスター・綱渡り名人に憧れる少年・南星が、貴族娘(本当に貴族だったのかはぼかされていたが)の狂言妊娠のせいで男寺党を追い出されるシーンが悲しくて切なくて泣けた。
ただし、南星が可哀相で泣けたのではない。
男寺党の規律(それはとりもなおさず“存在価値”だ)を守るために、コットゥセ(党首)として南星を袋叩きにして追い出さくてはならなかった淳雨の心の激痛を思って泣けたのだ。
南星を殴る蹴るさせる淳雨を泣きながら直樹が止めるのだが、ぼくがこの時思ったのは、
「理解し合うということは、相手の文化を尊重することだ」
ということだった。
淳雨がしていることは、直樹から見れば、理解できない、残酷な行為かもしれない。
だけど、直樹は淳雨に、自分の正義感を押し付けちゃいけないと思う。
自分が「当然、こっちの方が正しい」と思っていても、それを押し付けちゃいけない。
そして同時に、いかに尊敬できる、心許せる“友”であろうと、自分の領域に口出ししてくることは許しちゃいけないと思う。
それが解っていないと、人付き合い、特に、文化の違う外国との付き合いに支障が生じてくるのだと思う。
・・・って、結局「今の問題」になぞらえてしまったな。
ツヨぽん演じる柳原直樹は、「白磁」を芸術品として認め、朝鮮民族美術への造詣が深かった柳宗悦氏がモデルだそうだが、物語の終盤、教職を棄てて陶芸修行を志す直樹の直情さは、「韓国でスターになりたい!」と、突然ハングルを学び始めて韓国芸能界へ乗り込んで(?)行ったツヨぽん自身の姿にもどことなく重なる。
その無鉄砲ぶり(オイ)には、なかなかハラハラさせられると同時に、爽快さも感じる。
一方、芸事しか知らない、教育を受けずに育ってきた「無教養な自分」というコンプレックスを抱いている淳雨の方が、“教育者”である直樹よりも落ち着きがあり大人っぽいところが(それはすなわち、淳雨を演じた차숭원自身の男らしさ、大人っぽさでもあるのだが)面白かった。
だけどもやっぱり、香川照之その人の演技力・存在感は“圧巻”の一言。
正直、他の役者全員がかすんでしまった。
ミーハーなつけたし。
ジャニーズバーター(おい)ではありましたが、高田翔、なかなかちゃんとした芝居をしていました。
ジャニーズ自体、ここ十数年タレント飽和状態なので、みんながみんな第一線アイドルになろうなんて考えが甘いことはもう自分ら分かってるはず(お、おい/汗)
そりゃあ、「この業界で第一線に躍り出てやるんだ!」というファイトだけはみんな抱いていてしかるべきだけど、自分の方向性というものを冷静に判断することも当然必要。
実直路線の子が増えていくことは、歓迎するべきだとぼくは思っております。
がんばれよ(←なぜか『百識王』チームに甘いぼく)
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