てくてくミーハー道場
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| 2009年06月07日(日) |
花組ヌーベル第2回公演『盟三五大切』(下北沢駅前劇場) |
結局行きました。
(日替わりゲストは原川浩明氏で、前説の時間たっぷり使って「野ざらし」を半席演ってくれた。これは相当お得)
(芝居観ての感想)・・・何だろう。
何かがもどかしい。
何も悪い部分はない劇団なのだが、花組芝居の現状を鑑みると(以下略)
いや・・・客がわんさかくるだけが「価値」か?
いやいや・・・客が観ない芝居なんて(いや、“ある程度”は入ってるのよ)、単なる創り手の自己満足じゃん、と言えないこともないし。
すごいいい芝居をやってた(ぼくも好きでした)のに、「経営困難」で解散してしまった某劇団(かつてそこにいた某俳優(決して、主演俳優ではなかった)は、いまやテレビドラマ、映画で大活躍の売れっ子俳優。今クールでは、とうとう連続ドラマの主演をやるまでに至っております)のことを思うにつけ、花組にはそうはなって欲しくないと、心から思っているのだし。
まあ、今回のは本公演ではない。
ないけど、そんなの言い訳にしかすぎない。
芝居に対しての客の評価は「面白いか」「面白くないか」しか、ない。
そして、それはちゃんと「入り」にリンクするのだ。
いや中には、宣伝が効いてるだけで中身は最悪にくだらないのに客がわんさか入ってる芝居も、ないことはない(え? 何て芝居かって? 言いませんよそんなこと←性格悪)
でも、客が入ってない芝居で、(一部の熱狂的なオタク以外に)評価されるべき芝居は、やはり「ない」と言わざるを得ない。
いや間違ってほしくないのは、今回の芝居、不入りだったわけではないのです。
ただ、かつて花組に“演劇ブーム”の追い風が吹いていた頃の状況を思い出すにつけ、やはり「残るべきファンだけが残っちゃったんだな」と思っただけのこと。
作品自体は、確かに面白かった。
だが、それは、「鶴屋南北の原作が、面白かった」ってことだ。
話自体が面白いんだから、あとは、「よほど役者が下手か」「よほど演出がダメダメか」でもない限り、面白いに決まってるのだ。
で、この劇団は、役者は相当上手い。若い役者たちも、不思議に(なんか失礼)上手い。
実はぼくはこの劇団のファン歴21年になるのだが、その間、新人が入っては何人かは去る・・・というのを、普通に繰り返してきてる。
中には、「いまいち」な新人もおり、いつの間にか(ぼくが毎回律儀に行ってないせいで)消えてるメンバーも何人かいる。
でも、今回出た役者8人中、21年前からいた団員は座長(加納幸和)と山下禎啓だけで、あとは21世紀になってから(笑)入ってきた連中ばかりだった(北沢洋は、古参メンバーに入るが)
21世紀になってから入ったと言っても、長い人で8年ぐらい経ってるわけだけど。
その人たちを「若い」と言ってしまっている菊吉じじいなので、そのつもりで読んでほしいのだが、この「若い」連中が、加納氏が創り上げる「キッチュな傾き(かぶき)」世界をちゃんと表現できていることに、ぼくは感心しきりなのである(そりゃー、無名とはいえ(コラ)俳優のきれっぱしなんだからな←ひどい言われよう)
いやいや、今回出ていた5人は、その何代前かに入座した面々と比べると、格段に(こら)花組カラーをきちんと表現できる逸材たちのような気がする(今回の作品や『怪談牡丹燈籠』を観た限りの感想だが)
花の(笑)四獣(この期は本当は5人入団だったのに・・・あ、これは言わない方が/コラ)以来の逸材たちである・・・なんて言ったら、その間に入った人たちに申し訳ないが。
つまり、問題発言を長々としてきて何が言いたいかというと、要するに今回の作品を観て感じた「いまいち(あっ、言っちゃった!)感」は、決して役者が拙いせいではなく、加納演出に、かつての作品に溢れかえっていたゾクゾク感があまり感じられなかったからじゃないか・・・と思ったわけである。
ヌーベル第一弾を見逃しておいて何を言うか、と言われそうだが、今回、芝居の背景として、「お通夜に出席している男たち」で演るシチュエーションに、どういう必然性があったのか、これがわからない。
見た目が不気味な面白さ、だけでは、大傑作『いろは四谷怪談』や『怪誕身毒丸』をいつまでも超えることはできないのじゃないかと思う。
ヌーベルは、写実的な衣裳をつけないで演る、という約束事があるのだろうぐらいは察することができたが、それと「素ネオかぶき」とは、じゃあ、どこが違うんだ?
と、全然かわいくない(理屈ばっかりで楽しまないタイプの)観客100%で観てしまったのであります。
いま名前が出たので比べてしまうが、『いろは四谷怪談』のラストシーンの脱力感(言葉が悪い!「寂寞感」「虚無感」と言いなさい!)が、今回の作品にも出てればなーと思う。
どちらも、南北が「忠臣蔵」礼賛へのアンチテーゼとして書いた(と言われている)作品だからだ。
世間にブラボーされる快挙の影に、どうにもやりきれない犠牲者がいた、というその寒々しさ。
歌舞伎の正統な演出の舞台を現代人の観客が観た後に、
「えっ?! でも、これって・・・」
と、抗議したくなるその気持ちを、きれいに代弁してくれてるような、騒々しさの中に不気味と悲しさが同居した、何とも言えないラストシーン(『夜叉ケ池』なんかも、そういうポイントで大傑作)
それを今回もぼくは期待したのだが、何となくそこが弱かった。
せっかく、「死体が横たわる部屋」「喪服の男たち」という恰好の絵面を提示しておきながら、そこをはっきりと表現していなかった(ように思えた)のが、とにかく惜しかった。
ともあれ、この歴史ある(それはそれで素晴らしいことだ)劇団の今後が、何とぞ明るいものであるようにと(こらこらこら!)願わずにはいられない。
だってぼくが、「歌舞伎」よりも、「タカラヅカ」よりも先にハマった劇団なのだから(その割に、最近愛がめっきり薄いのだが)
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