2024年10月22日(火) |
自分を大切にしてってよく言われるんですけど、大切にってどうすればいいんですか。年下の友達にそう問われて、一瞬考えた後出てきた言葉は、丁寧に生活してみることかな、という、何の飾りもへったくれもない言葉だった。私がそれを知り考え始めたのには、メイ・サートンとクリシュナムルティの“日記”との出会いがある。 当時木っ端微塵に崩れた生活を送っていた私に、メイ・サートンの「独り居の日記」は、どれほど心が挫けていようと、丁寧に生活を営むことをやめちゃいけないと気づかせてくれた。クリシュナムルティの「最後の日記」は、見つめること、一瞬一瞬を見つめ、今ここを十分に呼吸し生きることの意味を教えてくれた。どちらも当時の私にとっては、目から鱗のことたちだった。私が探し続けていた、自分を大切に、丁寧に生きることのありさまがここにあるかもしれないと、そう思えた。 それから十年間、必死にそれを意識してみた。 丁寧に大切に生きるなんて思いもよらないところから、とりあえず目の前の「生活」をひとつひとつ愛でるように営むことを意識する。できなくても意識する。それはやがて、私を少しずつ変えていった気がする。もちろんそれらは日々にすればとんでもなく小さな変化で、すぐになんてわからない、そういう、微かな変化、その積み重ね。でも。 塵も積もれば山となるって昔の人は言ってたけれど、本当にそうなんだな、と、十年を経た頃納得した。毎日にしてみたら見えないほどの微かな変化でも、十年積もればちゃんと目に見える変化となっている。ああそうか、生きるって、生活するってこういうことか、と、その時頭でなく“体で”理解した。 丁寧に生きる、毎日を丁寧にこつこつと生きる。それはもうそれだけで十分なほど、自分を大切にすることに等しいんだと、そうして知った。意識にさえのぼせられない日ももちろんなかったわけじゃない。でも、意識できるときはできうる限り意識して、急がない・焦らない・じっと堪えるということも、そこで覚えた。 私は基本せっかちだ。結果をすぐに求めたくなる。でもそれじゃ、見えてこないものもこの世界には確かにあるんだ、と、恩師がかつてかけてくれた言葉がその時すっと降りてきた。「一瞬で知れることを十年かけて体験する、これに勝るものはない」と。頭でっかちでせっかちな私に先生がかつて教えてくれたこと。今はその言葉を、すんなり信じ受け取ることができる。 |
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