舌の色はピンク
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昨日に続いてやる気が出ない。 本は一冊読んだ。 アフターコロナの都市計画。 そりゃそうなるよねって内容が語られてる本。
天気はめちゃくちゃよくて 洗濯ものも干して気分は上々。 ミュークルドリーミーは これまでより子供向けになった気がする。 もともと子供向けなはずとはいえ あの高度なギャグの数々が子供にわかるのか疑問。
ローストビーフサンド作ろうとか にんにくを国産にしようとか ちょっと贅沢にスーパー堪能したら あっちゅーまに5000円いっとった。 贅沢こわ。
スーパー、コンビニ、ドラッグストアと 立て続けにレジで待たされ こんなことでイライラしたくないなあと思った。
自分の前で店員さんとお客さんとが ペチャクチャしゃべっていて 早くしろよという文句が一瞬頭によぎっちゃうとか。
買い物が、買い物だけを目的とした予定になってるから そう思えてくるのだ。 たとえば中東圏では売値をふっかけてくるという。 客はそれを値切る格好で交渉が始まる。 それで結局は適正価格に落ち着く。 じゃあ初めから適正価格で売れと言いたくなるのが合理主義。 しかし店主は言う。 「あなたとお話できたからそれでいいのだ」 ここには買い物が単なる金銭と品物の取引という目的にとどまるのでなく、 生活、生きる営みの一部となっている。 本来自分が体感する時間のすべては 生きる営みと一致しているはずで、 そこに無駄はあろうはずがない。 それを好き勝手に、生きる営みを生活のための目的別に切り刻んで、 一つ一つをタスクとしてこなそうとするから 時間がもったいないとか無駄にしたとか思えてくる。 都市化ってそういうことだ。 しっくり腑に落ちた。 自分が体感する時間のすべては 生きる営みと一致しているはずなのだ。
図書館で青木淳吾借りた。 あと、またコロナ後の都市計画についての本を。 野方図書館のおかげで都市計画まわりの本読むようになって 本当に収穫だったとつくづく思う。 いずれなんらかのお礼をしたいとたくらんでいるくらいだ。 でも図書館員も公務員だから何一つ謝礼は受け取れないんだろう。 それでも何らかの礼はできると思うけど。
昨日見た 酔いどれ天使について妻とちょっと話した。 その中で思ったこと。 三船演ずる松永にとっては、任侠道は間違いなく美徳であったはずだ。 しかしそれは兄貴分である岡田、親分によって打ち壊されてしまった。 じゃあ岡田と親分にとっては任侠とは嘘っぱちだったのか? というと、そうでもないんじゃないか。 つまり、武士道みたいなもので、任侠もまた 「これが任侠で、これが任侠じゃないですよ」とは成文化されていない。 成文化マニュアル化されていないから、 各々の信ずる任侠道があるはずだ。 それは大筋は合っていても、細やかな部分では統一はされておらず、 (そもそも"細やかかな部分"という見方自体がこの場合誤りだ) 各々にとって都合よく解釈されているはずのものだ。 コンプライアンスなんかとはまるで違う。 だから岡田と親分にとっても、それぞれの任侠道がある。 …というわけで、麻雀中の 「それにしたって親分、どうしてあんな死にぞこないを あのシマでのさばらせておくんですかい」 「近々よその組と戦争がありそうだからな、 そのときにあいつを鉄砲玉にさせるんだ」 みたいな会話を松永に聞かれた二人が 取り繕えないのはすごくがっかりだった。 お前らなら取り繕えるだろう。 いやそれは取り繕いですらない。本心から言えるはずだ。 「松永てめえ馬鹿野郎。 そのままくたばっちまうんじゃ情けねえだろう。 てめえはてめえなりに、 死にぞこないは死にぞこないなりに、 死にざまで男を見せてみろってんだ」 この程度の啖呵をきってみせればそれで充分なのに。 大事なのは、これは逆切れでもなんでもないってとこだ。 彼らにとっては等身大の任侠、侠気で表せるはずって点だ。 これが、現代的なものの見方に縛られてるとなかなか行きつかない。 でもとてもとても大事なことだ。
エロネタでちょっと思いついた。 エロは とくに自分用のエロは 全く取り繕いのないマジのガチの むきだしの好みが現れるはずだ。 どんなに本当の自分がわからないとか抜かしてる モラトリアム野郎だってそこんとこはガチだ。 それを細部まで突き詰めていけば話になる。 ちょっと面白いかも。
2021年04月17日(土) |
おとこ女かくあるべし |
朝なにげなくつけていたテレビに 氷川きよしが出ていて 女性寄りの中性的なその見た目に 妻が この人こんなんだったっけ と言うからここ数年の事情を伝えてやった。
僕も全然詳しく知るわけじゃないけども、 彼は やれLGBTがどうの制度がどうの などのメッセージは発しておらずに ただ行動で示しているだけなのだろうと思われ 妻に伝えながら 実に素晴らしいことだと感じ入った。 妙ちくりんな層から たわけた利用のされかたされないといいな。
雨でやる気が出ず 本もほとんど読まず ものも書けてない。
ウェイバックマシーンで キヨミズダイバー見て感慨にふけった。 ルビコンダイバーも。
黒澤を見た。 酔いどれ天使。 こんなに面白かったっけと首傾げるほど面白い。 今回初めて字幕つけてみた。 それで脚本のすばらしさを再認識。 そして三船敏郎のかっこいいことよ… ちょっとした後姿、つぶやき、手の仕草一つ一つに かっこよさがあふれてる。 他のどんな映画見るより真似しちゃうもんな。 態度でいうと 肺に穴空いてるってのに 久しぶりに会った兄貴分から酒を促されても 今病気あるから とはすぐに切り出さない、切り出せないところに 今時分には失われた男気が垣間見えたようだった。 打ち明けない理由はいろいろ考えられるけど 単に男としてダセーからなんだと思いたい。 それは病気患っちまったこと以上に、 そんなことを言い訳にする情けなさ、 さらにはそれを口にすることの情けなさが 彼にとってはダセーのだ。
なんか久しぶりに性欲に支配された一日だった。 性欲邪魔だな。足かせだ。
通勤途中 大通りの路肩にトラックが一時駐車されてるのを ひんぱんに見かける。 今日は自販機かコンビニかの飲料品配送車両の中の ダンボールが一部開けられてるのを見た。 缶コーヒーが何本か抜き取られてるっぽかった。
そんなわけはないだろうが、 運転手が途中でこじ開けて飲んでしまったのだ、 と想像してみた。 すると配達後、届け先から責められるわけだ。 配送業者としてはありえない過失で、 即座に会社へ報告され、深刻な事態となるだろう。
でもそんないけないことか?とも。 これが互いに会社を通さない、個人取引の商売なら、 各々の裁量で…というのも大げさだ、 そのときの気分次第で、 「飲んじゃったよ。うまかったゼ!」 「なにしてやがる。代金払って配送料まけろ」 「アイヨッ!」 くらいのやりとりで済む話だ。
で、まぁ日本人が中韓とか中東圏で なんらかの取引をしようとしたときに よく聞く話だ、こういうのは。 こっちの文化こっちの常識では 到底ありえないようなことをする。 品物を業者が盗んだり、壊したりなくしたり… で、揉める。 しかし、けど、でも、 それがそんなにいけないことか? 別にいいんじゃないの? コノヤローで済ませれば。 コノヤローで済まないから社会病理がドンドン加速していく。 盗みが発生すること自体は社会病理なんかじゃないだろう。 これを許さず線引きしなきゃってんで、 成文化された契約やら法やらが整備されて、 それに従おうとして窮屈になって病んで 倫理や道徳を自ら考え抜く必要もなくなっておばかんなって とまで書くと言いすぎですが。 こんなやり口は西欧とアメリカさんには妥当なのかしらんが 日本に適しているとは全く思えない。 コノヤローでいいと思うんですけどね。 実際問題、ここまで新自由主義が浸透しきった社会じゃ 今さら無理でしょうが。
暇さえあればパオンパオン言ってる。 中学のとき パオーン というのが自分のなかで流行って 辛抱強く続けてたら 友達も気に入ってくれて まっちゃんアレやってアレ とせがまれるまでになった。 いくよ ヴヴン … パオーン という間が大事なのだ。
twitterに書いてる話は これからガネーシャ像が絡みだすけど パオン癖とか全く関係がない。
なんとなく辞書を引いていて 歓喜団 という見慣れない言葉が引っかかり 見てみると 菓子だということで 興味ひかれて調べだしてみたら 歓喜天という神にたどり着き ちょっとおもしろいなと思って 読みもののギミックにこじつけることにした。
主題先行だけど 今回はギミックも凝ってやろうという野望がある。 素晴らしき日々の影響です。
いちおう 書こうとしている主題自体は面白いと思う…。 …"私"が他者と接するとき、他者は情報として扱われがちだ。 情報としての他者は"私"の中に住処をもつ。 作中の私は一部の他者のアドレスを爪に割り当てた。 その一部の他者とは、"私"が忌む敵だ。 社会的通念にとって悪とは限らないし、斟酌の余地もある。 だが"私"にとっては気にくわない。 そんな彼らを"私の地獄"に招待する。 "私"は日々がつらい。 そのつらさには妥当性がない。 社会的通念にとっては苦悩と見なされにくいものだ。 だが"私"にとってはつらい。 "私"の毎日は、心のなかで言い訳ばかりだ。 他人からどう見えようが、すべての行動に、"私"なりの理由がある。 おかしいと断じないでほしい。 "私"は必死で生きている。 それは"私"だけが知っている。 "私"の言語世界のなかでだけ成立している。 "私"の言語世界には言い訳が支配している領域がある。 そこが、"私"にとっての地獄だ。 ならず者たちは、その地獄のなかでどうか、 "私"の言い訳の嵐の中で、"私"の正しさに埋め尽くされてくれ。 その地獄へ落とす手立ては、 すべて"私"の中だけで完結する。 彼は情報として扱われるからだ。 彼自身がどう生きているかは、"私"には手に負えない。 そして…
で、結末につながっていくと。 主題にもかかわるし、場所性は大事にしたい。 住処、地域、サードプレイス。地獄。
主人公は27歳の女だ。 自分のなかで育ててきた女が、 かつては22歳の壁を超えられなかったが、 今はなんとかここまでたどり着いた。 30の大きな壁を前に、 一度、27歳を開放してみたくなった。 そしてまた、その苦悩も書き出してみたくなった。 正直なところ、男であるなら、 オトコである時点でその苦悩は乗り越えられてしまう。 オトコという物語によってだ。 それではその苦悩が現前しないから、女を媒体にする。
ちょっと思ったこと。 現代日本で少年少女のかかえる大抵の問題ごとは、 そりゃあもう押しなべてって言っていいくらい、 漫画で語られてる。 そして文学は必ずしも答えを示さないが、 漫画はなんらかの答えを、少なくとも方針を示す。 だいたい解決されてる。 青少年までいってもそう。 これが青年期までいくとそうでもなくなってくる。 「その頃回収されなかった苦悩」の描出も主題だ。
あとはなんだっけ…。 中途半端なところか。 善と悪、祈りと呪い、などなど二項対立の極端は、 「どちらとも言い切れない」と 「どちらの属性も併せて含有している」という 複雑怪奇な様相を示しがちだ、人間は。 論理の上では並立しないはずのそれらが、 しかし実際並び立つという実相を証明したい。 人は人を呪いながら祈れるし、地獄へ落としながら愛せる。
三千世界。 仏教のフィールドにおいては多種多様な世界がある。 その数は三千にも及ぶ。 自分はその世界のどこに属しているか考える。 しかしそれは逆である。 今ここでこうしている自分の、 一瞬でうつろうめまぐるしい心に、 すでに三千の世界があるのである。 三千の世界が及んでいるのである。 善意も悪意も、祈りも呪いも、 そうした相反し合う情念もひっくるめて、三千の世界が渦巻いている。 自分と関わり合った他者は、その三千の世界のどこかに置かれる。 そのひとつが爪のなかの地獄であるに過ぎない。 自分もまた、誰かの三千世界のどこかに身を配される。 Aさんの、Bさんの、Cさんの…。 そこいらに自分は割拠している。 それぞれの世界にはそれぞれの秩序、ルールがあるはずである。 それぞれの重力があり、それぞれの名付けかたがある。 この世界を… うーん こんがらがってきた。 まだ整理しきれてないな。
2021年04月15日(木) |
変わったとか変わんないとか |
今は精神のすさみに自覚的でありたいという目論見があり ここにはなるべくネガティブな感情を書き起こしてるけど 実際にはなかなか機嫌よく過ごせている時間が多い。 なにしろ春なので。 この空気の気持ちよさは何にも代えがたい。
日本は破産法が厳しく 比べるとアメリカは破産しても 前途が途絶えないので リスクを負ってチャレンジしやすい、 だからスタートアップ企業が 果敢に市場に乗り込んでいく といった話を仕入れた。フーン。
街並みが変わっていく。 飲食店はつぶれても再起するけど 本屋や古本屋は減る一方だ。 ネット商戦に押され 店舗経営縮小傾向にあるし 残るのは資本力のあるチェーン店ばかりとなり 街は個性を失って 似たような街ばかりになって まったくもってつまらない。
だから下の世代をかわいそうに思う。 と、言い出すと いかにも旧来の、老害という感じがする。 とりわけネット上ではありきたりな論調だ。
でも、その下の世代にとっての当たり前を尊重しようという 個人主義万歳の風潮は信用ならない。 いかにも正しいそうってだけで 突き詰めてみればあやしい。 それはそれで、安直な答えにとどまってる気がする。 放っとくだけでいいわけだし気楽なもんだ。 せめぎあいもいるだろう。
いやな流行り言葉。使わないようにしてる。 「雑」 「こんなに〜なことある?」 「アウトプット/インプット」 最近になって「言語化」もいやんなってきた。
さくばん入浴中 バンプの「K」を口ずさんでみたところ 青臭すぎてあまり好きじゃなかったなと妻が言う。 それに加えて、最近ナナナンキリコを読み返してみたら やはり青臭くさが過ぎて のりきれなかったという。 「でも昔はこういうの好きだったんだよなーって懐かしくなった」 と。 僕は僕でちょうど昔を振り返っていたので 「15、6、7、あたりの頃と、今の自分と、 あー何も変わってないなーって思うよ。 と同時に、 あー全然違うなーっとも思うよ」 と。
何にも変わってないなぁとも思うし、 全然違うなぁとも思う。 それは両立するものだ。 それも全体性としてだ。 変わった部分もあるし変わらない部分もある、ではなく、 全面的に変わってない と同時に 全面的に変わった が併存する。
妻は僕に、きみは変わったよねという。 昔はもっとちゃらかっただの詐欺師っぽかっただのと。 今は丸くなった、気難しくなった、 コミュ障っぽくなった、根暗だと。 一般論でいえば真面目な方がいいはずだが、 オトコとしての物足りなさでも感じているのだろうか。 くそくらえなので我が道を行く。 真面目も不真面目も併せ呑んで 唯一独自の道を切り開いていくのだ。 しかし誰になんと思われようが誤解されようが認められなかろうが 自分一人そのつもりで営業していくつもりであろうと ただ妻一人にだけは理解されたいところもあったから 少なからずショックだった。 とりあえず だいたい皆年を経るにつれて 自分はこういう人間なんだ という無意識的な決めつけや意識的な決意をして あちらこちらの観念をわが身に固定化させる。 あぁはならないぞ でもならないと決めつけもまたしないぞ というような話をした。
保坂和志の 小説のなんとかいう本を読み ちっとも小説脳のない自分を見せつけられる。 青木淳吾また読みたいな。 日本語文の作用が変わる、 小説でしかなしえないあの味わい。
わかっちゃあいた とはいえ 読みもの完全無反応はややつらい。 まだ2割も書けてないのだし この程度でくじけちゃいかんのだけど。 反応ないままだとスゲーェやる気なくなる。 これはたしかだ。 わざわざTwitterで タイムラインのお目汚しして 疎まれてるんじゃないかってのも 考えるだけで気が滅入る。 書いてるもののヘタさも目に余るし あらゆる粗が様々な観点から照射されて うめき声あげちゃう。 それでもやる、やりきると決めたから やってやるんだけども。 うすぐらいモチベーションの一つに フォロワーたくさんいる連中は もうこういう勝手はできないだろう フン みたいな思いがある。 それ自体は悪くない。
ミュークルドリーミーみっくす、 あいかわらずに超高速テンポのよさに満足。 心の中の飢えが満たされていく感じする。 オープニングとエンディングはやはり前の方が良かったけど…。
高円寺から新高円寺にかけて散在している古着屋をいくつかまわった。 なにも買ってない。 聞いたことないブランドのデニムのコートがとても素晴らしいと思ったけど 5万して諦めた。 まぁブランド知らな過ぎてだいたい聞いたことないってなるんだけど。
図書館行って本の購入を申請。 正規の司書さんが呼び出されて申請書一つ用意するのに 大変あちらこちら走り回ってらした。ごめんなさい。
コンビニで 90過ぎと思われるおばあさまが会計にてこずってらした。 品物は10点ほど、カートを引き引き、 あとは支払うだけなのだが、 その支払いという行動がぴんとこないようで、 何かしなくちゃいけないはずなのはわかってるんだけど… という様子。 店員さんも困ってらした。 かくなる上はとバッグを店員さんに預けて、 これでお願いしますといった旨を告げていた。 しかし 「バッグの中に財布が入っているからそれを取り出して会計をよろしく」 と明言されたわけじゃないから、 さすがに店員さんもバッグを開けかねて、フリーズしていた。 僕は隣のレジに通されてしまったから ことの顛末は知らない。 あれは助けようにも助けられないし せめて野次馬的に見届けるのだけは避けようと店を去ったので。
高齢化社会では接客業のありようも変わるのだなあと思った。 当のおばあさんと僕の間には80くらいのおばあさんがいて、 そちらの方が前のおばあさんを見やる目が印象的だった。 おそれと哀れみと苛立ちと情けがいりまじったような…。
他者について。 この世に顕在している他者と、 自分のうちに取り込んだ、記憶の住人としての他者がいる。 前者をA、後者をBと呼んでみる。 直接コミュニケーションをしているとき、それはAを相手どっている。 しかし直接でないとき、 その人を思い浮かべていたり、あるいはネット上で交流している間などは、 それはBだ。 その人を祝うとき、その人を呪うとき、やはりBだ。 直接、顔を見て接している時間だけがAだ。 それにしてみても、Bありきで接することとなる。 Bはつまり情報の集合体で、 いうなれば「私」の延長でもある。 Aは生き物で、何が何やらわからない未知の存在だ。 Aに危害を加えることは許されない。 しかし、Bに危害を加えることは、Aに危険をもたらさない。 それで「私」が救われることがあるのなら、 果たしてそれは罪といえるだろうか。 社会通念上は是としないだろう。 しかしBは「私」の内在にとどまる。表沙汰にならない。 とかなんとか。
西東京へ妻とデート。 青梅駅に降り立ち玉川を堪能。 妻は清流に足を浸した。 冷たすぎる、全然気持ちよくないと笑っていた。
川沿いには重要文化財の なんとか邸という古民家があり 茅葺き風のがち古民家でやや尻込みしたが 縁側から眺める風景が素晴らしかった。 春の陽気と、そよ風というにはやや強い北風と、 緑と、勢いのある川の無遠慮な音と、鳥のさえずりと、 囲炉裏からはパチパチ炭の焼けゆく音。 部屋の中の畳のうえに座って眺める景色はなおよかった。 暗い室内は隅を見やれば黒々として あぁこれが谷崎のいう陰影なのだなあとぼんやり思った。 管理人のおばさまが言うには 例年だと春先には花見客、暖かくなればバーベキュー、 夏には川遊びで一帯は大変にぎやかだそうで、 コロナ禍を嘆く様子だったけれど、 正直なところ喧噪よりは今日くらいの静けさがちょうどいい。 ささやかな自然音がよく通るくらいの。
喫茶店では緊急事態宣言の終了と 新たなまん延防止策について妻と語り、 政財界のシステムについて触れ、 僕は建築を領分としている人たちの三次元的認識が 有用なのではないかと持論を展開して、 グローバリゼーションへの憎悪につなげた。 アーモンドシュークリームはずいぶん深みのない味で、 ケーキ屋では決して出てこないであろう素朴さだった。
青梅駅のモスバーガーの入口には 「私は昨日羽村のチューリップ畑に行ってきました。」 から始まる店員さんの挨拶がブラックボードに書かれていて なんと美しい日本語なのだろうと思った。 チューリップ畑に行ってきました。 こういう日本語だけで日々をまかなえたら それはとても素敵なことだ。
奥多摩方面へ足を延ばす予定を翻し 立川で買い物。 コロナ禍でおとなしくしていた分 おおよそ一年ぶりの買い物となり 妻は時計を、 僕は靴とバッグとパンツとシャツをいっぺんに買った。 タケオキクチはもっと高いイメージがあったが 4点で4万ならかなり得だと思う。 さらには、ポーカーフェイスでメガネを試着して、 カラーレンズやサングラスに興味を持った。 気に入ったのが5万したので手は出さず。 しかしこうしてみると、 自分はこれまで財産の多寡で行動を左右されないつもりでいたし、 制限もかけてない自信もあったはずが、 実のところ衣服に関しては、我慢しているのかもしれないと思い至った。 たぶん、もっとずっと金があったら、 あれもこれも買ってしまいたいのだ。 それこそ桁の違う服を。あれもこれも。
服の面白いところは、着るのが自分だというところだ。 自分という無料のプレイヤーキャラクターを 好きに着せ替えて 自由に動かせる。 すごい。
電車移動の最中は それ町を二人で読んでいた。
休日らしい休日。 帰り際、駅前の書店で本の取り寄せを注文した。 多元共生社会の構想がどうとかいう。 図書館で借りたものを浴室で読んでしまったばかりに ページの一部が湿気てしまったから 確認するまでもなく買いなおすことにした。 経験上、ぬれずとも蒸気で湿気てしまう紙質の本は 30冊に1冊程度なのだけど さすがにもう控えようと思う。 少なくとも借りものでは。
新社屋のセキュリティキーだかカードだかを 見学しに行った同僚が紛失してしまったらしく 小さな騒ぎになっていた。 部署が違うから 当の彼女と接することはないけれど 心から同情した。 明日は我が身だ。 ああいうの、誰が他人事として責められるっていうんだろう。
それは数時間経ってから無事見つかった。 特命を任ぜられた別の同僚が見学場所から発見したらしい。 彼女は当面のあいだ彼に頭が上がらないだろうと思われるが 彼は別に彼を彼たらしめる人格の達成において その手柄を得たわけじゃなく たまたま役柄がまわってきただけだ。 この認識においては彼は誰とも交換可能な匿名者になり下がる。 別に彼が彼である必要はない。 なのになぜ彼女は彼に感謝し恩を表明していくことになるのか。
べつにその彼の名誉を貶したいのでなくって 思考の物種として なかなか興味深いことだと思った。
どうでもいい話題。 ラズベリーキューブのオープニング曲がいい。 いかにもキャッチーで 音楽をよく知ってる人からすれば あぁこのパターンね そういうコード進行ね つくれるつくれる みたいなこと言われちゃいそうだけど(偏見) 結局自分は耳肥えてないから わかりやすくキャッチーな歌が好きというのはある。 作詞作曲が堀なんとかさんという業界では有名な人らしく ニコニコあたりを出自とするそうで ベースのうねりが気持ちいい。 でオープニング映像もちょっと中毒性がある。 いかにもオタク向けでございってかんじの。 まじめにフェミやってる人からも 不真面目なフェミからもあいてされなさそうな。 僕でさえエッきもちわるっ と一瞬みがまえたくなるほどコテコテの美少女絵。 今や若い世代が旧世代に比べアニメ絵に抵抗なくなってて いわゆる萌え絵みたいな絵柄ですら市民権を得つつある という見識には否定的立場をとるつもりないけど 往年の美少女絵、ギャルゲーっぽい絵は やはり今もってなお蔑視されてしまうと思う。 蔑視とまではいかなくとも軽視や無視とか。 そういった絵柄を先鋭化させたところにラノベ絵があって、 さらに洗練させるとソシャゲ絵になって、 ここまでくるとだいぶ市民権。というイメージ。
読みもの一章目を投稿し終えた。 頭んなかでごちゃごちゃイメージ膨らませる作業が一番楽しいかな。 整理していくのがその次で、 話に落とし込んでいくのがその次で、 成文化がいちばんめんどい。
レヴィナスの他者論、 都市学における場所論、 祈りと呪いなどの二項対立の超克、 錯誤、 コミュニケーション不能、 つまらない人間の筋合い、 言い訳(理由、根拠、正当性妥当性)、 あらゆる敵を愛してみよう。
2021年04月08日(木) |
コミュニケーション上の笑い |
12時から13時まで休憩 その正規の休憩時間はほしいままに 11時50分から10分弱トイレにこもり 13時15分から10分弱トイレにこもる彼 頭おかしいんかなと思う。 15時から15分間の小休憩があるのだけど その前後も似たような感じ。毎日。 サボってるわけじゃない、 がぎりぎり通る汚い汚い釈明が 彼の中で用意されてそうで その自分で自分を納得させてる感じに吐き気がする。 それで尊敬されようはずもないし 尊敬の念がどれだけ指示系統に影響するか 見通せていない鈍麻な意識に対して呆れる。
あげくたくさんある空き時間は仕事してるふりしてるという。 サーバー上の階層をいったりきたり、 フォルダを作成して名前を付けて削除したり、 手だけは動かしておいて、何もしていないという。 もっと、いくらでもやることあるのに。 同じポストにいたからわかる。もったいない。
体制が変わって以来 能力如何より年功序列が優先されてしまい こんなのが上になってしまった。 もちろん空き時間に待機しておくのも 立派な仕事であるけれども それをひっくるめたうえであれはだめだ。
バカをバカ呼ばわりしたくないし 人のバカをバカにしたくもないし こんなしょーもない くだらないことに 意識を払いたくはないのだけど バカって本当に人の悪いところを掘り出してくる。 押し込めよう、封じよう、 圧殺してしまおうと 奥の奥にまで追いやっていた 醜い性質をえぐりだしてくる。 きれいでいたいのにと願うほど そのギャップに身もだえすることになる。 でもこれも自分の正体なんだもんなあ いや これこそとでもいうのか。 きれいでいられなかったとしても きれいごとをはき続けることはできるはずだけど きれいごとをはき続けるには途方もない強さがいる。 僕はまだまだ弱いってことだ。
後輩のひとりが 会話のあいま頻繁に笑い出す人で それが愛嬌や愛想でなく こりゃあおっかしいや って笑い方で べつに無礼ではないし とりあえず笑っとけの極致というか 他の人は気にならないのかもしれないけど 僕は辛抱たまらない。 面白くもないのに笑うのは、 人のを見てるだけでもいらいらする。 「敵意はありません」と 「笑ってるので許してね」と 「発言を最後まで言い切ってないけど 文末の言葉選びに困るから笑い声にしておくね」と そういった無数のごまかしというか これも"言い訳"の亜種だと思うんだけど そういったものが凝縮されてる。
で、思ったこと。 この人はとりあえず何にでも笑っておくという人だけど とくに相手の発言に関しては ちょっとでも冗談かなと汲み取れそうな調子があったら 吹き出すように笑う。 でもこれが、自分が会話に参加してなければ、 そういう発言が聞こえていても別に全く笑わない。
そりゃそうだというか、これは誰にでもあることで、 よっぽど面白い発言でもなければ 対話者でもないのに笑ったりはしない。 でもその手の よっぽど面白いというわけでもない発言ばかりで 大抵の会話は組み立てられていて、 そういう発言をされると 対話者であれば笑うよなあと。 つまり大体ほとんど嘘の笑いってことだ。 笑おうとして笑ってるだけの。 そりゃあコミュニケーション上の 笑う ってそういうもんだけど 思ってる以上に そういうもん なんじゃないかと。
彼のおかげでそんなこと考えた。
アニメの空手バカ一代の第一話を見た。 あれだけ実写を挟んでくるとは… なんか戦争から始まったし、 主人公思いのほか鬱屈してるし… 期待とは違ったかたちで面白かった。
洗濯ものが雨でぬれた。 全然心乱されなかった。 不運や不幸や不遇、 原因が人によるものじゃなけりゃどうでもいいな。 平和で飽食だからこんなことを言う。
二十代前半の頃に友人としていたネットラジオを なんとなく聞き返してみたところ やたらノリが若くてきつかった。 当事者的には良き思い出だし フレッシュで可愛いことよとほほえましくもあるけども。
今はもうこんなスラスラと話を転がせはしないだろう。 と思うと俄然やる気にもなってくる。 その友人に声かけて 一回くらいやってみるかな公開はせずに。
Twitter上で飛び交わされるネタツイ、議論ツイに 怨念がわきわき。 以前より強まってるかも。 あまりよくない方なんだろうな。 嫉妬もあるかも。
ちょっと前の話題だけど 小泉のあんちゃん 彼自身の善し悪しはさておき 彼を話題にしようとした際の ネット上の論調きもちわるいなあってかんじ。
いるよなあこういうやつっていう。
クラスでちょっと変わりもので 皆からよくいじられて笑われてる、 そういう手合がいるからって 全然つっこむところじゃないのに やたらとつっこんで 笑い取ろうとして しかも見かけの雰囲気は笑いとれてるから 割りと満足してるっていう。 そういうやついる。 ださいしつまんないし汚い。 お膳立てされたムーブメントにのっかって 安全圏でせせら笑うだけという… 石油-プラスチックの話題はほんと最悪だったなあ がきくさいったらなかった。 意外と知られてないんですけど という言葉をそのまんま額面通りに受け止めて 何一つ想像を働かせず 情報に振り回されるだけのくだらない雑魚たち。 こちらとて小泉のあんちゃん憎しというのはあるんだけど それ以上に苛ついたかもしれないってくらい。
高1くらいの頃が 一番ニュース見ててむかついてたな。 政治家どもはあほばっかりだ、 その政治家を持ち上げるメディアも たたくメディアもあほばっかりだ、 こんなあほな国があってたまるかと 若さゆえの熱きちしおが たぎってしまって収まんなくって テレビ画面ぶんなぐってた。 今はどっちかつうと ニュース見るたび あぁ世に並みいる雑魚どもは きっとこんな風に捉えてるんだろなと 勝手に邪推して苛立ってる。
そとみからは すっかりなりを潜めたと見せかけて 黒い衝動は今でもばりばりある。 日清の広報が滑り倒しているという話題を見ると スカッ とする。
つまんないネタを取り上げて つまんねえつまんねえ とトピック化する俗っぽさに呆れながら、 つまんなさを共有できること自体には胸がすくのだった。 でも一次感情はしかたないよね… 表にださんようこれからも内に秘めてこ。
あーいう広告ものは 話題にした時点で負けみたいなところもあるから 不快だったら無視するのが一番 とわかってる わかってても分かち合いたいあの不快感 そういうからくりです。
あーいうん作ってるならず者ども 何もない部屋に監禁して 猿ぐつわかまして何もしゃべれないようにして 一晩中 ただただ つまらないよ つまらないよ と延々言い聞かせる そういう陰湿極まりない サイテーな妄想をして ようやく叫ばずにいられる。
監禁して反論できないようにして… というのは脳内の憂さ晴らしとしてよくやる。 これはですねー 対話を恐れる現代的なですねー とTVショーのコメンテーターに一蹴されちゃうような。 陰険で陰湿でまったく健康的でない悪徳さ。
しかしこれもまた 今回の読み物で超克していきたいテーマでもある。 勝手に邪推して勝手に人さまを呪って。 頭んなかで監禁して頭んなかで憂さを晴らして。 それでも祝福してやりたいと。
今の問題は 数々の誤解をとこうとしなかったことに起因してる。 一定期間に生じた不備のあれこれの責を全面的に負って それでよしとしていたことが今の問題に帰結してる。 後輩のミス、マシンの不調子、 ちょっとしたタイミングのずれで傍からは失策に見える実体なき不備、 パズルの完成を前に散らばったピースから判断されて段取り下手扱い、 よくある数々のこうした不適な評点の一切は 本来なら正しい事実関係を報告するのが義務なはずだが 生来の気質のため一言たりとも訳を説明する気になれなかった。 言い訳にしか思えないのが嫌だからだ。 それを聞くことになる逆の立場は容易く想定できる。 だから詰問されてもハイ、ハイ、と応じるばかりだった。 犯してないの間違いを犯したことにして、 それでも誠実に過ごし続けていれば だいたい誤解は解けるもんだし これまでさんざん同じようなことはあって そのたびにちゃんと見直してもらえてたから かえって経験があだになったのかもしれない。 世界を信じすぎていた。 向こうからすれば (他人からの歪んだ)情報と(直接の先入観ありきの)印象で 信頼が抜けてったってとこか。 でもそんなに悪いんかな。 依然、何も悪いことはしてないんだけれど。
架空のミスで(情報で)侮られてるのは今もってどうでもいい。 仕事できすぎでドンドン仕事が増えていき 他の人の1週間分の作業を1日でこなし続ける悲劇も過去あったから もうそれを避けたいって打算もある。 自分は間違ってないと、自分だけがわかってれば問題ない。 ただそのためには、胸中においてだけは自己弁護していく格好になる。 自分の中には言い訳が渦巻いていくようになる。 それが苦悩になる。
僕には僕なりの妥当性、僕なりの正解、 僕なりの真実があって、 一つ一つの行動に理由もつけることができる。 しかしそれを人から問われたら、 断片的にしか伝えることはできない。 会話には音楽的リズムが求められ、また時間的制限にも縛られる。 真実的に緻密な話をしようとしたところで聞き手は退屈してしまい 話し手にしてみても面倒になってしまいがちだ。 こういうときほとんどの聞き手は 話し手の言葉一つ一つを誠実に聞き取りはせず また話し手の論法を読み取ろうともせず なんとなくな"印象"と"先入観"で 「話を聞きながら」自分なりの答えを 「話を聞き終わる前に」出してしまう。 仕事に限らないし、僕に限った事柄じゃない。 ありふれた構造なはずだ。
誤解はテーマになりうる。 言い訳もそこにくっつくだろう。 誰になんと思われようが 自分さえわかってればいいという達観さえも 心のなかは おれは間違ってないのに おれは正しいのに おれは真実を知ってるのに など自己防衛からくる感情にまみれて地獄と化す。
でも本当は、 私だって本当は、本当のところは、 知ってもらえたら、理解してもらえたら、 いい人なんだよ… と認めてもらいたいものなのだろう、誰しも。 半端に理解を求めるよりは 勝手に誤解されてた方がましってことはあっても 心からの理解はされたいはずだ。 それに人のことを理解してやりたいのももちろん。
こんなふうに言葉を練らず だらだらと心中を書きなぐるのは高校の時分以来かもしれない。 たしかに考えがまとまる気はする。 でも考えようとしている思考体系はかなりの大物で、 言葉を練らないことには真相に接近できないかもしれない。 理解と誤解。 人を知ること。人に知られること。 コミュニケーション。 印象。 人を見ること。人に見られること。
リングにかけろ!を読み返してるのですが オリンポス12神編はスカスカだなあと。 それでも好きだけど。 ボクシングまともにやってた初期を思い返すとブルーになる。 菊ねえちゃんもかわいそうだ。 バトル漫画展開のためにせっかくの人格が駒にされて。 しかし23巻からの流れは好きで好きでたまらないのだった。 とくに最終戦直前の展開。 景気のわるい、貧乏くさい人情話やってたころが ここにきてようやく思い返され、 キャラとキャラが噛み合ってドラマが爆発する。 ラストもベタだけどあのテンカウント大好きだな。
そして改めてあの漫画を観察してると 必殺パンチで攻撃力はあがっていくばかりだけど 防御力やヒットポイントがあがるわけじゃないから 整合性を捨て置いているとはいえ いくらなんでもさすがに ってなってくるのが十二神編。 そう考えると 十二神編に輪をかけてスカスカな阿修羅編も再評価できる。 防御力やらヒットポイントがあるという。
で、リンかけにおける数多の問題点を みごと超克したのが聖闘士星矢なんだなあと。 聖衣の設定があるからいくらでも必殺技を強くしていってもいい。
ただ聖闘士星矢、 さっこんのポリコレ過剰社会からすると 目の敵にされてもおかしくない、 いやされないとおかしい、されろ、とすら思えてしまうほど 前時代的だ。
身分の上下関係が定まりきった封建制度下の役回り、 現在過去未来と一生分の自由が奪われてる、 女人禁制または女人にだけ厳しい掟、 問題ごとは暴力で解決、 まだまだあるけど そもそも聖闘士の社会には人権という概念がない。 でも「アテナのために!」を号令にしたら 何もかも美徳になっちゃうのです。
でもたしかに男側からだけなら それはそれで成立してしまうのです。 女たちは アテナの身の上に自分を仮託して読めばいい、 自分のためだけに無数の男たちが戦ってくれるのだ、 命を懸けて守ってくれるのだ、 誉れ高い感じも味わえるだろうと。 女がそんな物語を押し付けられる不自由を嘆く程度の自由は 実現しつつあるのが現在の日本だと思いますが
それにしても、 「アテナのために!」 でビシッと固まる価値観、 この美徳はなおも美徳なんじゃないかとも思うのです。 男は男らしく、 女は女らしく、 という前時代的固定観念がどれだけ否定されようと、 男らしくから抽出された美徳、 女らしくから抽出された美徳は、 今もってなお大事にしていっていいと思うのです。
やはり若者の自転車の二人乗りは 男がこぐべきだと思うのです。 という話。
妻が買ってきた花を活けながら ワアキャアわめいとった。 「なんか知らないんだけどお花屋さんが ちっこいリンゴもつけてくれた」 「リンゴじゃん、本物かよなにそれ食べれるの」 「食べられないんじゃない」 「なんかさ、今のすっごいモテない男っぽくなかった?」 「うん。なんかモテない男のセリフだね」 「でも彼女はいる感じの」 「ああ、彼女相手のセリフだよね」 「もうじきフラれる感じの」 「意外とフラれないんじゃない?」 「そうか、意外とフラれない。それもわかる。人畜無害でね」 「できた」 「おお。…なんだその、カメレオンが舌巻いてるみたいなのは」 「ぜんまい」 「は? 花屋で? 山菜?」 「大きくていいなーと思って買っちゃった」 「面白いけど。それは食べれるの?」 「食べれるんじゃない?」
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