世田谷日記 〜 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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三島由紀夫、「豊饒の海」四部作を一月下旬に読み終えたことは以前書いたとおり。感想のようなものを、まとめておく。
「春の海」「奔馬」「暁の寺」は同じ新潮文庫でも改版後のもので、(恐らく)文字遣いを若干改め、字も大きくなっている。 「天人五衰」だけは旧版で、昭和五十六年に出た第六刷。こちらは字は小さいけれど、書体(明朝?)も美しく頁全体が締まって見える。
最初の三冊を読んでいるときは気が付かなかったけれど、たとえば「春の海」の松枝清顕がちょっと馬鹿みたい(実際にそういう若気の至りキャラが清顕の持ち味でもあるのだが)に感じるのは、この新版の頁から受ける印象と関係があるのではないかと思った。
そもそも「春の雪」は、好き嫌いの分かれる小説だとは思う。あんな金持ちのぼんぼんの我儘し放題の話を、絢爛豪華に語って聞かされてもなぁという人(特に男性)は多いと思うのだ。それを格調高めに成立させようとしたら、刊行当時と同じ文字遣いできめないと…、平成の世の中のスタンダードに従わせようとしてもなぁ…、と微妙な違和感を持った。
微妙と書いたけれど、四部作のあとに新版の文庫で読んだ三島の「美しい星」、読んでいる間じゅう、読んでいる自分が馬鹿みたいだった。一度旧版との比較が頭のなかにできてしまうと、新版の頁面て、ほんとに馬鹿っぽくて嫌だ。老眼が進んできている私の眼でも旧版、十分に対応可能であることがわかったし、むしろその方が充実感がある(馬鹿っぽくない)ので、これからも出来る限り旧版で読みたいと思っている。
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「奔馬」は、主人公の飯沼勲という国粋主義者の青年が、腐った資本家に天誅をくだして切腹して死にたがっているという話。この主人公は、とにかく早く腹を切って死にたい、もう切腹するのが人生の望みのすべてで、死にたくて死にたくてたまらないのである。もちろん犬死ではなく、志に死ぬことが重要なのだが。
この飯沼青年の心に寄り添いながら、なんとか早まった考えを改めさせようとするのが判事である本多(四部作を通しての語り手であり三作目以降の主人公)なのだが、三島由紀夫はこの一作の中で、飯沼と本多というふたりの人間のオピニオンを鋭利に書き分けている。小説家なのだから180度意見の違う人間を書き分けられるのは当たり前だと思うかもしれない。
だが、その後三島がどんな最期を遂げたのかを知って読むと、なかば狂信的に腹を切りたがる青年を描き、かつ、その青年を愛情を持って諌める知的な大人の言説をきっちり書ききるというのは…。 そんなこと(世を憂えて腹を切るなんてこと)が理解されないのは百も承知、でもって考えられる最良の助言はこうだよね、という声なき声が聞こえてくるようで読み手としては複雑である。 (これを書いた時点で、三島はまだ自決する意志を固めていなかったのではないかな)
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「暁の寺」から、二作目まで狂言回しだと思われていた本多繁邦が主人公になる。この四部作自体が輪廻転生をモチーフにした小説ではあるけれど、この巻はとくに大乗仏教等についての説明が多くて大変(笑)だった。だって、急にそんな難しい話されても、にわかにはわかりかねますって。
この巻では「奔馬」で死んだ飯沼勲の生まれ変わりと思われる人物としてタイのお姫様(月光姫=ジンジャン)という女の子が出てくる。 ジンジャンがまだ小さな子供だった頃、タイの離宮で遊ぶ彼女が本多から献上された指環の真珠を舐めるシーンが描かれているのだが、一読、これは森茉莉だなと思った。
この場面のジンジャンはまさに「甘い蜜の部屋」のモイラそのものだ。 三島由紀夫は森茉莉の文才に惚れ込んで、彼女を、それこそお姫様のように扱った。森茉莉は「甘い蜜の部屋」のあとがきに、執筆にかかった十年間という苦しい日々を支えたのは三島由紀夫と室生犀星の二つの霊であると書いている。
「甘い蜜の部屋」が完成した時点で三島の没後五年がたっていたが、三部に分かれて発表された小説の、少なくとも第一部を三島は読んでいた。そのとき彼から寄せられた絶賛が、森茉莉を支えていたというのはよく知られた事実なのだ。個人的には、ジンジャンの真珠のくだりは森茉莉へのメッセージ(挨拶)のようなことではなかったかと思っている。
それにしてもこの四部作、エンターテインメントとしての読み応えがすごい。とくに後半の後半くらいからの畳みかけ、物語を完結させる力が尋常ではない。途中いろいろ思うことがあっても、このクロージングにやられてしまう。巻き込まれる。 この「暁の寺」のどんでん返しもとても面白かった。はー、そうだったのかー!って。さすが稀代の流行作家。
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本来、五部作になるはずだった「豊饒の海」シリーズが四部作で終わってしまったのはなぜなのか。三島由紀夫は三作目の「暁の寺」を書き終えたあと「実に実に実に不快」になったとエッセーに書きのこしているそうだ。作品世界が完結して閉じられるとともに「作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になったのである。」…だそうだ。 なにがあったかはわからないけれど、確かに、ここで何かがあったのだ。
三島の最後の小説となった「天人五衰」のなかで、なんてことを書くのだ、それも四十年以上もまえに!とショックを受けた部分がある。本多が養子に迎えた透という青年に食事のマナーを教えながら話す言葉。
「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。一寸ばかり育ちがいいという印象を与えるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で『育ちがいい』ということは、つまり西洋風な生活を体で知っているというだけのことなんだからね。純然たる日本人というのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、そのどちらも少なくなるだろう。日本という純粋な毒は薄まって、世界中のどこの国の人の口にも合う嗜好品になったのだ。」
…驚くというか、呆れるというか。1970年の時点でこういう認識だったのだ。もしあのときに死ななかったとしても、バブル、携帯電話、ネット社会、草食男子etc、とても堪えられなかったのではないだろうか。仮に生き続けられたとしたら、間違いなく、先の科白を吐いた本多繁邦そのひととなっていただろう。
四部作の幕をひく「天人五衰」の最後について、すべては水泡に帰したかのような解説もあるけれど、私は門跡(聡子)は、尼僧になった時点でそのように思う(そのような現実を生きる)ことに決めていた、だからそれに従って話しただけだと思う。 ただし、四部作刊行当時にリアルタイムで読んでいた読者のすべてが、そのように割り切れたかというと、そうではなかったのだろうなとも思う。
五部作で書かれるはずだったものが、ある時(「暁の寺」完成時?)四部作になった。そのとき同時に「天人五衰」の幕切れも、三島の心境を反映したものに書き替えられたのではないだろうか。
いずれにしてもこの四部作はエンターテインメントとして、とても上等の小説だった。あのような最期を遂げた作家の絶筆として「天人五衰」はあまりにも確固としたクオリティを保っていると思う。 ただ、三島の初期の短編などのくさいくらいの文学性がなつかしくなったことも事実。なので、このあとは長編ではなく短編を読んでみようかと思っている。
この帯。ミシマはこういうのが嫌だったんじゃないの。
妹と二人でスピッツのライヴへ。会場は相模大野グリーンホール。 昔、制作会社に勤めていたころ、よくスピッツのCDをかけながら仕事をしたものだった。当時はまだMP3やダウンロード以前の世の中だったので、何百万枚もアルバムが売れた時代。
その後、姪(妹の娘)にプレゼントしたスピッツのアルバム「ハチミツ」を聴いて、姪よりも妹が夢中になった。いまや妹は筋金入りのファンクラブ会員なのである。今頃になって、草野正宗の生声で「ロビンソン」を聴くことになるとは思わなかった。いい声だった。
東日本大震災のあと、草野正宗は歌をうたえなくなってツアーをキャンセルした。当時、新聞でそう読んだ。 今日、久しぶりにホールコンサートの二千人位の観客のひとりとなって彼の歌を聴きながら「これは出来ないわ。どんな日本語も力を持つのが難しいときに、自身の詞を朗々と歌い上げるなんてことは」と、はじめて合点がいった。
こういうことは理屈ではなかなか(私は)理解できなかったし、理屈でわかっても意味のないことではある。白状すると、当時の私は「アーティストとはいえ繊細すぎやしないか。キャラにはあってるけれど」と密かに思っていたのだ。 震災のころと今と、私自身の生活も変わったので、そういう要素も大きいかもしれない。
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小田急沿線に住んだのをよいことに、公演後もスタバでお茶を飲んでゆっくり帰宅した。 とても楽しかったし、この年齢ゆえのライヴの味わいというのもあるなぁと思う。ただ、実感としてオールスタンディングはもう、ちょっと無理かもしれないと思った。
15日、法事の相談のために横浜で妹と会った。 みなとみらいのマークイズでランチ。楽しかった。 せっかくなので、そのときの画像をあげておこう。
横浜美術館。 予報では雪が降るかもとのことだったけれど、降りそうで、降らない。
なにか枯れ枝にたくさん実が付いているのだけれど。なんだか、わからない。
食事したレストランの席からの眺め。妹は雪が降るのを期待していたのだけれど… 姉は、雪よりグラスワイン。降らなくてもゴキゲン。
妹が拾ってきたさっきの木の実。スマホで検索して名称がわかったのだったが… ワインでいい気分の姉は、聞くとほぼ同時に忘れてしまった。 この冬、冷え込みは厳しいけれど、東京横浜は雪が降らないなぁ(落胆する妹)。
2014年01月27日(月) |
どの程度と理解すればよいのか? |
25日の法事は、お天気にも恵まれどうにか無事に終えたのだけれど、翌日も今日も明日もずっと仕事。 なので、曜日の感覚がぐっちゃぐちゃなのである。
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その後「豊饒の海」四部作を読み終えたのだが、しかし、読んでいる間じゅう、符牒めいた、妙な偶然の一致に見舞われ続けた。
たとえば… 「春の雪」にはタイ王室の王子様二名が留学のため来日、小説の主人公たちと学習院の同級生になり親交を深めるというくだりがある。
このタイ国とのかかわりが「奔馬」「暁の寺」にもうっすらと引き継がれていくのだが、小説中に、タイのクーデターは日本のように血なまぐさい騒動にならず静かにいつのまにか起っているのはなぜなのか、というような記述があって、この部分を読んでいるちょうどそのタイミングで、現在のタイ国でクーデターらしきことが起きているのではという報道があり、ナンダコレハ?!と思わずにはいられなかった。
その次が、地方裁判所。 四部作を通しての語り手であり、最後には主人公として老いさらばえた姿をさらす本多繁邦。彼は大阪で裁判官をしていたのが、ある理由から辞めて、弁護士になる。
その本多繁邦が東京(霞が関)の地方裁判所へ出かけてゆくという場面を読んだとき、その週、たまたま霞が関の地方裁判所一階でひとと会うことになっていた私は「ほうほう、あの裁判所は大昔からあそこにあったのだね。建物はさすがに建て替わっているだろうけれども」くらいに思っていた。 で、実際に自分が出かけていく前日の晩になって気がついたのだ。地裁で人と会う約束の明日が、一月十四日(三島由紀夫の誕生日)であることに。
それから、神社。 21日の深夜、TVをつけたまま画面は観ずに音声だけ聴きながら片づけものをしていたときのこと。TVではパワースポットとしてご利益のある神社ベストスリーの紹介、というようなことをやっていた。
そこで第一位(?、多分)として紹介されたのが、多摩川浅間神社。都内田園調布にある神社で、富士吉田の浅間神社の分社として建てられたとのこと。お社を新しく建て直したばかりなので、清新なパワーに満ちているとか、なにかそんな話だった。浅間神社ってどこにでもあるなあ、多いなぁくらいに思って床に就いたのだったが…
翌朝、休みなのを良いことに目覚めてそのまま、布団の中で読みかけの「暁の寺」を開いた。すると、読み始めてすぐに「富士吉田の富士浅間神社まで、二台の車に分乗して遊山に行った」という文章に遭遇。またかい!
本多繁邦は富士の麓(御殿場ニノ岡)に別荘を建てて、そのお披露目で友人知人を招待、皆でタクシーに乗って件の神社へ出かけて行くのであるが…ナンダコレハがおさまらなくて、物語の流れに再合流するまで一寸時間が要ったのだった。
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こういうことが重なると、これがどの程度のことなのかわからなくなってくる。たいそうなレアケースなのか、意外によくあることなのかがわからない。
そして。 24日の夜、画家の妻フロイライン・トモコ嬢に会ったので、つらつらこの話をすると、自分も「天人五衰」を読んだ直後に関西(京都?)へ出かけてあるお寺へ行ったら、そこが小説に出てきた月修寺のモデルになった寺と聞かされ、驚いたことがあると言われた。 そこは一般公開されておらず、内部の見学はかなわなかったそうだが、お寺へ至る道を歩きながら強い既視感に襲われ、ここへは以前確かに来たことがあるという気持ちになったそうだ。
それじゃあ三島の小説には何かその手のことを起こさせるようなパワーがあるのかもね、などと軽く言い合って、二人してなんとなく納得したような感じになったのだが…どの程度納得していいのか、分かりづらい話ではある。
2014年01月23日(木) |
なにやら落ちつかないこの頃 |
25日の土曜日に法事(母の十三回忌)を控えて落ちつかない。 いずれにしてもあと数日で終わることなので、とにかく無事に、できれば楽しい集まりになるようにと思っている。
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14日に遅ればせで初詣に行ったので、その画像をアップしておこう。 明治神宮の大御心(御神籤)、今年は二十三番。
(二三)誠 とき遅きたがひはあれどつらぬかぬ ことなきものは誠なりけり
ひとによって早い遅いの違いはあっても、誠から出発したことは 必ず成し遂げられる。どんなに巧みな手段手法でも、心の真実が がなければ成功はおぼつかない。誠をもって初志貫徹すべし。 (誠実は成功の基)
…ことしも有り難いお言葉の書かれた紙片を、スケジュール手帖の表紙カバーの折り返しに大切に挟みこんだ。これでよし。
明治神宮へは行きも帰りも参宮橋駅から歩いていく。西参道は人もまばらでとても静か。 熊笹の道では風がたつのを待ってしばらく立ち止まります。 この熊笹の葉のたてる音を聴くために西参道を通るようなもの。
昨日、高円寺の美容院へパーマをかけ直してもらいに行った。 一年くらい前(もっと前かな)から髪が細くなるわ、抜けるわで、髪を短く切るとかえってふけちゃう感じに。で、だらだら伸ばしっぱなしにしているうちに肩より下まで伸びた。 昨年秋からはその髪にパーマをかけて、ボリューム感と扱いやすさを出すことにした。こんなことになるなんて、ほんと思ってもみなかったよ。
いま面倒見てもらってる美容師さんは杉並に住んでる友人の紹介で、おじいちゃんが日本画家、お父さんが建築家だそうだ。美容師さんになったご本人は勉強嫌いの問題児だったと自らおっしゃるのだけれど、ご家族のことも含め、お話を伺ってると本当に楽しくて、土曜日も新春大放談。大いに笑って楽しかった。
パーマをかけたあと、四丁目カフェさんで遅いランチ。プラス、グラスで赤ワイン。 ここは広さがあって、適度な薄暗さとアールデコ(一部アールヌーヴォー)の室内装飾が雰囲気出してて、さすがサブカルのメッカ中央線沿線の面目躍如って感じのカフェ。
石油ストーブのほんわかした暖かさについ長居しすぎてしまい、新宿から参宮橋へ出て明治神宮へまわろうと思ったら、四時半の閉門に間に合わず、今年のお参りと御神籤は来週までおあずけになってしまった。 新年、正真正銘の「日没閉門」に、宵っ張りの夜型人間は襟元を正したのだった。
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昨年読んだ本の最終回〜。
「虚無への供物」(上・下)中井英夫(講談社文庫)
昨年末(多分12月10日頃)ワインの店で仕事の合間に新聞の文化欄をみていたら、この小説のことが書いてあった。 曰く、「虚無の供物」という物語は1954(昭和29)年12月10日に幕を開けるのだ、と。それから同年におきた洞爺丸沈没事故がモチーフに使われている、ということも。 それを読んで、もうずいぶん前に新装版になって出た「虚無への供物」が、ずーっと(恐らく十年くらい)積ん読になっていたことを思い出し、読もう!と思ったのだった。
この物語はアンチ・ミステリと呼ばれていて、普通のミステリとは構造的に違っているし、ミステリというジャンルにかかわらず、ほかのどんな小説とも違っている。 そして、濃厚な昭和の匂いがする。乱歩や夢野久作と同じような匂いがする。ただし、そんなに怖くない、私でも大丈夫ということは以前に誰かから教えてもらっていて、それで買ってあったのだと思う。
アンチ・ミステリというのがどういうものかについては、実際に読んでみるのが一番いいと思う(じゃないと構造的なネタばれになっちゃう)。ただ、中井英夫がアンチ・ミステリを書いた背景に、真剣な思いがあったことは確か。それがこの「奇書」を書かせた。それは「他人の不幸への視線」と関係があるのだけれど、ここにはこれ以上書かない。 読み始めてすぐに、2011年の震災後に読んでいることに大きな意味があると感じて、自分の無精からおきた偶然とはいえ、十年寝かせてから読んだ意味はあった、と思った。
ところで、小説の本筋にはほとんど関係ないチョイ役でボディビルをやっている藤間百合夫という男がでてきて、この百合夫のモデルが、三島由紀夫。 中井英夫自ら書いたあとがきによると、読み終えた三島由紀夫が中井の出先まで探して駆けつけてきて、技術批評や励ましの言葉を熱く語ったのだそうだ。 三島は読んですぐに百合夫=自分であることがわかったらしく、オレが出て来ない筈はないと思ったんだ、などと言い、五十頁くらい藤間百合夫について書いてくれりゃいいのにと言って笑ったそうだ。…いかにもな話! (そうか、このあたりがミシマアワー突入のきっかけだったかも…)
中井英夫は不思議な人だ。黒子のようでもあり、またそうでもなくて、ちょっとわかりにくい。作家として小説も書いたけれど、短歌誌の編集者として現代短歌への慧眼を持ち、塚本邦雄、寺山修司、春日井建らにとっての大恩人だった。そして、三島由紀夫、澁澤龍彦らとの親交。
「虚無への供物」の登場人物のひとりに、八田晧吉というコテコテの大阪弁を話す男が出てくるのだが、その大阪弁の監修は塚本邦雄氏に頼んだということが、やはりあとがきに書いてあった。 それを読むが早いか、塚本邦雄の、早口でにべもない調子の、話している内容とは無関係にキツーイ大阪弁を生々しく思い出して、ひとり納得した。
「安土往還記」辻邦生(新潮文庫)
織田信長という戦国大名の栄華を、宣教師に随行して日本へやってきたイタリア人の目を通して描いた歴史小説。イタリア人の遺した古い書簡断片(南仏の蔵書家の書庫でみつかった古写本の最後に別綴じしてあった)の翻訳という体裁をとっている。
「大殿」と書いて「シニョーレ」とルビが振ってある。ヨーロッパ人の目を通して日本の戦国武将を語るというのが、いかにも辻邦生らしい。文章は静謐さに満ちていて、殺戮、大虐殺の類を書いても、歴史はそうして粛々と進んで行った…というトーンは全編変わらない。
豪華絢爛な安土城の内部のみならず、それを中心に据えた街区(城下町)の大きさと賑わい。どこまでも連なるお城の青瓦と、同じ瓦を載せてひろがる周囲の建物のパースペクティヴが、歴史音痴の私にもひととき美しい景色を見させてくれた。
この小説の発表は1968(昭和43)年。語り手の男は、外国人ゆえに大殿(シニョーレ)の内面を間近で垣間見る機会に恵まれるわけだが、この小説で描かれた織田信長と明智光秀の人物像とその内面の心理というのは、その後幾度となく作られたNHK大河ドラマの信長像(光秀像)に少なからぬ影響を与えたのではないだろうか。
どうやら「安土往還記」をそのまま原作とする映像作品はないようなのだが、たとえば作家や脚本家が織田信長とその時代を描こうとしたら、そしてこの小説を読んだことがあったなら、人物の造形においてその影響を逃れることはちょっと難しいのではないかと思う。現在誰もが思い浮かべる織田信長の共通イメージのかげに、辻邦生のこの小説が静かにしっかりと存在しているのではないかと推測する。
おととい、新宿でジム・ジャームッシュの「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」を観てきた。
頭の中を三島に浸食されているものだから、何見ても聞いても、結びつけて考えちゃう。吸血鬼カップルの話で、男の吸血鬼は、もう生きているのが嫌でしようがない。ゾンビども(人間)が馬鹿でどうしようもないので、この先に希望なんか持てないって鬱々としてる、そういう感じとかね。
そのうえ、読み終えたばかりの「豊饒の海(一)春の海」には、主人公の清顕がそうと知らずに切子細工の小さなグラスで鼈(スッポン)の血を飲むシーンがあったのをまざまざと思い出しちゃった。 ワインだと思いこんでて、グッとあけてから、おや?と思って家の給仕に聞くと、鼈だと言われる。べつに不味くはなかったような書き方だったな。
家に帰ってから、買ってあったイタリアワイン、敢えて飲んでみた。エミリアロマーニャ州のサンジョヴェーゼ100%のやつね。 あんな映画観ちゃうと、ちょっと悪趣味気取ってみたくなるじゃない。だれも見てないから、100%自己満足ですけれども。
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さて、昨年読んだ本のつづきです。
「ヴェネツィアの悪魔」(上・下)デヴィッド・ヒューソン(ランダムハウス講談社)
商店街の古本屋さんで上下各百円で買った文庫本。状態もカヴァーデザインもきれいだし、小説の舞台であるヴェネツィアのわかりやすい地図と登場人物の紹介が各巻頭に載っていて、親切至極。 18世紀と現代を章ごとに、交互に行ったり来たりするお話なので、登場人物は時代ごとにちゃんと分けて書いてあって、助かりました。
以前、ただ一度訪れたことのあるヴェネツィアのことを思い出しながら楽しめるミステリで、もちろん殺人や謎解きもあるけれど、それも恐がりのわたしでも大丈夫という程度。 ああ、あのホテルの部屋からみえた海の中に立つCAMPARIの看板、あそこはリド島の船着き場だったのか、などと今頃わかったり、最後のどんでん返しにアララーそうか、そうだったのかー、と一本とられてみたり。たまにこういう読書もいいなぁ!と思ったのでした。
「椎の木のほとり ある生涯の七つの場所6」辻邦生(中公文庫)
「ヴェネツィアの悪魔」と一緒に買った古書。こちらは320円でした。おわかりになりますか、このあたりの絶妙の値付け。決して100均には落とさないけれど、買いたい人にとっては安く感じられるギリギリの値段なんですよ。この本が100均の中に紛れていたりすると、安いとよろこぶ以前に悲しくなっちゃうでしょ、辻邦生ファンとしては。
以前はそんなに感じなかったのに、このごろ辻邦生の描く二十世紀の日本を読むと、これは地球に良く似ているけれど、実は別の星でおきたことを書いているのかなと思うことがある。少し昔の日本にはこういう美風が確かにあった、と以前は思っていたのだけど、最近はそれがちょっと信じられなくなってきているのだ。
たとえば、十代の若者がとっても大人。清く正しく理想に燃える、大人。こんな素晴らしい国って、どこの国? そういえば、辻邦生と三島由紀夫は同じ年に生まれているんだけれど、三島の書いたもの読んでも、ここまで泣きたくなるような美風って感じない。作風の違いと言ってしまえばそれまでだけど(いや、世界を認識する仕方がぜんぜん違うのだな)。
「ある生涯の七つの場所」シリーズには、日本の話と、日本以外の国(おもにヨーロッパ)の話がそれぞれいくつかづつ入っているのだけれど、この本に入っているのはスペイン内戦で精神的に荒廃するフランス人の話で、これは救いのない暗い話でした。こういう話にも、以前は暗いなりに意味を見出せたんだけれど、最近は単純にきついわーと思う。歳なのか。
「七つの場所」シリーズも、あと読んでいないのは「人形(プッペン)クリニック」だけかな。長年かかってばらっばらに読み継いできたのでわからなくなってしまった。 いままで読んだなかで好きだったのは「雪崩のくる日 ある生涯の七つの場所3」だけれど、いま読んでも同じ感想かどうか、わからない。
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あと「虚無への供物」(上・下)と「安土往還記」だけなんだけど、疲れてきたので次回に続く。今回で最終回のつもりだったけれど(4)で最後にいたしますね。オヤスミナサイ。
今日もワインの仕事。 曜日の感覚がむっちゃくちゃになってる。
夕方までお客さんが少なくてひまだったので読書三昧。「豊饒の海(一)春の雪」、面白くなってきた。 読んでいて、主人公の清顕(四部作中、最初に夭折する主人公)が亡くなってから今年で百年目にあたることに気がついた。「春の雪」は大正2年に物語の幕を開け、翌年の早春に主人公の死をもって終わる。大正3年は西暦1914年だから、今年はちょうど百年目。偶然とはいえ、ちょっと呼ばれたような気にもなるというものだ。
この頃、25年(四半世紀)、50年(半世紀)、100年(一世紀)という単位で物事を捉えてみることが多くなって、それは自分が半世紀を生きてしまったことと関係があるようだ。現実の半世紀がだいたいこれくらいという感覚が身内にあると、それまでとは過去の歴史のとらえ方が微妙に変わってくる。
たとえば、少しまえにバッハの直筆の楽譜をTVでみたとき、バッハがおおよそ三百年前のひとだと聞いて「意外に最近のひとだなあ」と感じた。今までは感覚的にもっと大昔(たとえば五、六百年前とか)のひとだと思っていたのだ。 歴史を知らなすぎると言われればそれまでだが、それが50年(自分の年齢)×6=300年という認識ができるようになると、まったく想像もつかないくらい大昔のひとでもないのだな、と思うようになる。
そうやって「春の雪」の時代背景である百年前ということを考えたときに、もうひとつ思い当ったのが「大正百年」。 2011年は大正元年から百年目に当たったわけだけれど、1968年の「明治百年」に比べるとあまりそのことにスポットが当たらなかったような気がする。自分でも驚くのだが、明治百年のときには世の中に結構賑やかに祝う気分があったことを、おぼろげではあるが覚えているのだ。
それで、このタイミングでこういう本を読むことになったのも三島由紀夫や亡くなった自分の父親など、大正年間に生まれて戦中に生きたひとたちの「大正、忘れすぎなんじゃないのか」的な思いが届いちゃったのかな、とも思った。いや、仕事がひまだと考えすぎちゃうよね、あれこれ。
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要らんこと考えすぎたついでに、もうひとつ馬鹿婦女子的な発見をご報告。 昔、村上春樹が自己を語るときによく使った言葉で、自分は「山羊座、A型、水曜日生まれ。マザーグースによると、水曜日生まれの子どもは最悪(悲しい人生をおくる)らしい」というのがあった。ちなみに当時春樹ミーハーであった私は、自分も同じ三重苦(笑)を背負っていることを知り嬉しくなってしまったのだが。
先日、三島由紀夫が山羊座であることを知ったので、どうしても確かめたくなってちょいと調べてみた。そしたら、ビンゴ。三島もピッタリこの三重苦に該当してました。
それと、、、「羊をめぐる冒険」は1970年11月25日、三島が自決した日の午後から始まる、という指摘なども発見してしまい…(そうだったっけ。あまりに古い話で忘れましたが) こうなると、インターネットというのは本当に、開きっ放しのパンドラの匣みたいなものですなぁ。
「村上春樹−三島由紀夫、関係大あり?問題」に関して言うと、どうも春樹は確信犯ではないかと思うのだけれど、いまはこれ以上追及せず、読書に戻りたいと思います。読んだ本(3)は次回更新します。
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