はぐれ雲日記
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2005年08月13日(土) 花の街

まったくもってなんて言ったらいんだろー。
あらかーさんの演技にゃ鳥肌もんだったわけよ。
その上、さくさくっと金だもんね。武勇伝。


でぃも、ロシアの王子様プルシェンコは鳥肌どころか戦慄。
あれは人間じゃあない。鬼人だと思ふよ。
コンドルのように飛びピューマのように撥ねる。
花になり月と輝き竜巻を起こし稲妻と光る。どきがムネ。
前回五輪では銀だったがそれをすぐポケットにしまってた。こわひ。

今回もロシアが金芽米を独占するつもりでエキシを仕切っていたけんど
あらかーさんが阻止してくれたのでありがとう。
んんんん〜。でもショーだからもっと楽しませてー。
ロシアはハンガリーの天才バイオリニスト、マートンの生演奏で舞った舞った。
でわ日本も次回のパン喰う場では和楽器で「越天楽」や「元禄花見歌」なぞ。


2005年08月03日(水) 秘密日記


パソで打つのか。紙なんか。いずれにしろ日記は「読者」を想定しないでしょう。

希望。悲嘆。悦び。などのこころもよう。備忘録。見聞録。生活記録。
そんなものを記録するのにまさか神楽坂相馬屋の原稿用紙に書き付ける人はいまい。
紀貫之の「土佐日記」だって、「読者」が必ずしも想定されていたわけではないでしょう。まあそのときの状況は背景はよくわかりませんが。
後世になってからその「文学性」に気がついた学者たちが、これを勝手に古典「文学」に仕立てあげただけだと思います。ひょっとすると、そんなことは貫之にとつては迷惑千万のことだったかもしれません。あれは彼自身が、土佐から京都へのたびの途中で経験したみずからの体験を綴りながら、それをいくつもの和歌に託した私的日記なのだと考えます。以上は「読者」を前提としない文章は自由ということに関連した補足です。自由とは公権力に縛られないという意味。との知人さんのご指摘は生まれて恥めて奇異たことでありなるほどこれは助かった。と感じたわけです。いつもありがと。


ああ。ここはあてくしの秘密基地ですかんね。いまんとこ。


2005年08月02日(火) 書くということ

職業的文筆者はつねに「読者」を意識する。言論の自由といううるわしいことばがあるが、じつは読者という相手があるから、筆者はけっして自由ではない。題材や用語にも注意しなければならないし、他人から抗議をうけそうな表現は遠慮する。わたしじしんも、ウエブページに書くさいはずいぶんそういう苦労をしてきたし、いまでも事情はかわらない。
しかし、「読者」を前提としない文章は、ほんとうに自由でありうる。メディアがとりあげてくれない問題だって自由に書けるし、メディアの悪口を書いても文句はいわれない。世の中で「中傷」とか「差別用語」などとレッテルを貼られそうな表現をつかったっていっこうにかまわない。おおげさにいえば、ものを「書く」という行為は、「読者」を意識したとたんに自由を失い、拘束をうけ、ときには屈辱的にならざるをえない。つまり「発表」などという大それた行為を視野にいれると「言論の自由」の完全な保障はなくなるのだ。皮肉なようだが、虚飾と妥協のない文章は「読者からの自由」のもとにはじめて成立するのである。
もとより人間には欲があるから、書いた作品がしかるべきメディアに発表され、読者をもちたいと夢みるものだ。大手の雑誌、新聞などにじぶんの書いた文章が掲載されればうれしいし、ましてや小説であれ評論であれ、それが単行本になれば自慢もできる。うまくいくといささかの原稿料も手にはいる。だが、その代償になにを失うかは、くわしく書かずとも刷り込み済みであろう。そのことがよくわかるのは、たとえば永井荷風の『断腸亭日乗』(岩波書店)であろう。荷風は『腕くらべ』をはじめとする小説をのこしたが、『日乗』は自由な日記体。かれのばあい、若いころから「発表する日記」という形式に興味をもつていたから、この日記体文学に「読者」を想定していなかったといってはウソになるが、いまなお『日乗』がおもしろいのは、ひとつひとつの文字の背景にそれぞれの時代が自由に描かれ、かれの内面生活が躍動しているからであろう。枚数制限もないし、締め切りもない。わたしが荷風の真髄は『日乗』にあるのではないかとひそかにおもつているのは、このような理由による。


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